張ダビデ牧師 -あなたはわたしを愛しているか?

1. ヨハネの福音書21章の構造と意味

ヨハネの福音書21章は、しばしば「付録」あるいは「エピローグ」の章と呼ばれます。というのも、ヨハネ20章31節で既に「ただこれらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるためであり、また信じて彼の御名によって命を得るためである」という言葉によって、著者が福音書を書いた目的と結論が十分に提示されているからです。イエスが神の子であることを信じ、彼を信じることによって命を得る――これが福音書の第1の目的でした。しかし21章は、その結論のあとに付け加えられた後日談、あるいは結論の後に残された弟子たちの生と主の最後のメッセージ、さらには教会共同体が向かうべき宣教的・牧養的方向性を示す章と見ることができます。

この21章には、とても重要な本文が登場します。1節から14節には、ティベリヤ湖(ガリラヤ湖)で七人の弟子が魚を捕っている時に復活したイエスと出会う場面が描かれ、とりわけ大きな魚153匹を捕る奇跡の物語が含まれています。その後の場面で、イエスはペテロに三度「あなたは私を愛するか」と問い、「私の羊を飼いなさい」と命じることで、ペテロとともにすべての弟子(とくに教会の指導者)が担うべき牧養の使命、そして究極的には「神の羊の群れ」を世話することの意味を教えられます。さらに21章後半では、イエスがヨハネについて言及しながら、「わたしが来るまで彼を生かしておこうと思っても、それがあなたに何の関わりがあるのか」(21:23参照)と語り、終末論的な「時」と「タイミング」についても言及されます。これはマタイ28章に記された「大宣教命令(The Great Commission)」とはまた異なる、非常に実存的かつ終末論的次元の言葉と言えます。こうしてヨハネの福音書は「イエスが神の子キリストであり、彼の御名を信じることによって命を得る」という大前提の上に、教会共同体がこの地上でどのように「主の再臨」と「歴史の終わり」を備えるのかを深く描き出しているのです。

この本文で最も際立つ場面は、やはりティベリヤ湖の出来事でしょう。復活されたイエスがガリラヤ湖(ヨハネの福音書ではティベリヤ湖と呼ばれる)で、魚を捕っていた弟子たちに現れる場面は驚きと神秘に満ちています。弟子たちは自分たちだけで再び魚を捕りに出かけ、一晩中網を下ろしましたが何も捕れませんでした。イエスが十字架にかけられて死なれ(もちろん復活もされたものの)、今までとは違う何か新しい時代が訪れると予想していたのに、現実は簡単ではなかったのです。「弟子たちの帰還」と呼んでもよいこの姿は、人間が味わう霊的無気力や、期待通りに進まない人生の状況、そのような中で古い生き方に戻ってしまう人間の姿を象徴的に示しています。

しかしイエスが彼らに「子たちよ、魚があるか」と呼びかけたとき、弟子たちは「ありません」と答えます。その瞬間、イエスは「網を舟の右側に投げなさい。そうすれば獲れるだろう」と命じられます。左ではなく右であり、前でも後ろでもありませんでした。これをめぐり、張ダビデ牧師をはじめ多くの説教者が、「その方向はすなわち主が示される方向」を意味すると解釈しています。福音において「方向」とは、人生の秩序であり、従順の姿勢です。人はしばしば自分に馴染みのある側(左側や後ろ側など)に網を下ろそうとしがちですが、主ははっきりと「右側に投げよ」とおっしゃいます。これは、今日の教会が神の前で歩むべき道、つまり「宣教と牧養」という方向性を再確認しなければならないという呼びかけとして理解することができます。

弟子たちが主の御言葉どおりに網を下ろしたとき、網は驚くほど大きな魚でいっぱいになり、引き上げられないほどの量になりました(ヨハネ21:6)。この体験は、ルカ5章冒頭で描かれるペテロの「深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい」という事件とも重なるところがあります。そのときペテロはイエスの前にひれ伏して「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と告白しましたが、まさにこの出来事の後で主は彼を「人間をとる漁師」として召されます。ヨハネ21章の場面も、まさにその召命が「完成」あるいは「確証」される瞬間として解釈されます。イエスが「右側に網を投げよ」と命じ、大魚を豊かに捕れるように導かれたのは、結局、弟子たちが世に出て行って「153匹の大きな魚」を捕るかのように「あらゆる国々から神の民を集める宣教」に用いられるということを、前もって象徴的に示された場面と言えるのです。

そして21章11節には強調される部分があります。「それでも網は破れなかった」という点です。普通ならこんなに大きな魚が捕れれば網が破れてもおかしくないのに、ここではやや「超自然的」とも呼べる表現が使われます。教父の時代から、こうした象徴を解釈しようとするさまざまな試みがありましたが、代表的には「神の言葉(あるいは福音)は決して破れない」という神学的解釈が多く共有されました。アウグスティヌスのような教父も、153匹という数に特別な関心を持ちました。イエスの弟子たちが一度に捕ったこの「153匹」は初代教会の時代に重要な象徴と考えられ、ヘブライ語の「数秘学(Gematria)」の伝統に従って「ベニ・ハ・エロヒム(Bənē hāʾĔlōhīm)」(「神の子たち」)という言葉の数値の合計が153になるという説明も提示されました。これが正確に合っているかどうかは学者によって異論がありますが、大切なのは、初代教会がこの数字を単なる「偶然」とは見なさなかったという事実です。彼らは「主の召しによって、主のものとなった人々」がやがて神の国に喜びをもって参加する「クリスチャン共同体」をこの魚の数が象徴すると解釈したのです。

初代教会で魚はクリスチャンたちの間の暗号としても使われました。ギリシア語の「ΙΧΘΥΣ(イクスス/イクトゥス)」という単語が、「イエス・キリスト、神の子、救い主」という意味の頭文字を取ったものであったため、迫害の時代には、魚の形を描いたり刻んだりして互いに「同志」であることを認識したといいます。ヨハネ21章はそうした象徴性を集約して示す章として位置づけられてきました。したがって「右側に網を投げよ」という言葉は、現代の教会がこの福音の働きに従順に取り組むとき、網が破れることのないほど豊かな実を得るという確信を与えてくれます。そうした信仰は、張ダビデ牧師をはじめ多くの教会指導者たちが「福音宣教において神の力と御言葉は決して不足せず、むしろ溢れるほどダイナミックである」と宣言する根拠となっています。

この場面でもう一つ注目すべきことは、イエスがすでに炭火をおこして、その上でパンと魚を用意しておられた場面です(ヨハネ21:9)。弟子たちはイエスの言葉に従って豊富に魚を捕ってきましたが、実はイエスはすでにすべての食卓を用意しておられました。これはしばしば「聖餐」を象徴すると言われます。またルカ24章のエマオ途上の二人の弟子にイエスがパンを裂かれたとき、彼らの目が開かれた場面、あるいはヨハネ6章の五つのパンと二匹の魚の奇跡を通してイエスが「命のパン」であることを教えられた文脈ともつながります。ペテロや他の弟子たちがイエスに持ってきた魚は「人間の労苦と従順の実」であると言えますが、そもそもすべての「始まり」はイエスの備えからです。これは救いについても同じです。神が先に準備された恵みの場に、人間が招かれるのが信仰の本質である以上、ヨハネ21章の炭火の上で用意された魚とパンは、単なる食事を超えて重要な神学的意味を持つのです。人間の努力や献身は確かに必要ですが、そのすべての基盤は「主がすでに用意しておられる恵み」であることを指し示すものです。

その後、21章15節以下では、イエスがペテロに三度「あなたは私を愛するか」と繰り返し尋ねられ、「私の羊を飼いなさい」「私の羊を牧しなさい」「私の羊を飼いなさい」と三度命じられます。ルカ22章34節でペテロがイエスを三度否認することを予告され、実際に大祭司の庭で「彼を知らない」と公然と否認したことがありましたが、復活されたイエスはその傷と失敗を回復させると同時に、彼の召しを再確認させてくださいます。その結果、ペテロは使徒言行録2章で聖霊降臨の後に大胆な働きを担う人へと変えられます。とくに使徒言行録4章では、大祭司アンナスの前で「この名(イエス)以外に救いはない」と(4:12)イエスの唯一性を大胆に宣言するまでになります。これこそがまさに福音の力なのです。

つまりヨハネ21章が伝えるメッセージは、大きく二つに分けられます。一つは「宣教」、もう一つは「牧養」です。イエスが弟子たちに豊かな魚を捕らせることで「諸国の人々に向かう伝道と救いの業」を予表すると同時に、ペテロに「私の羊を飼いなさい」とおっしゃることで「教会共同体を世話する(牧養する)使命」を強調されます。そしてこのすべては、「主がすでに準備しておられる食卓」を思い起こす礼拝と聖餐、そして主が注いでくださる聖霊のうちでなされるのです。ですから張ダビデ牧師をはじめ多くの牧会者は、この本文を説教するときに、教会が「伝道」と「牧養」を必ず共に握らなければならないと力説します。教会は福音を知らない人々に対して開かれていなければならないと同時に、すでに共同体にいる人々を責任をもって世話し、成長させることに献身しなければならないというのです。

しかしヨハネ21章後半にある「わたしが来るまで彼を生かしておこうと思っても、それがあなたに何の関わりがあるのか」(21:23)の御言葉が示すように、初代教会の弟子たちは「主の再臨はいつ来るのか」という問題に絶えず悩んでいました。イエスはマタイ24章などで「再臨」あるいは「終末」を予告され、使徒言行録1章6~7節でも、弟子たちが「イスラエルの王国を回復してくださるのはこの時ですか」と尋ねると、イエスは「その時や時期は、父がご自分の権威によって定められたものであって、あなたがたの知るところではない」と答えられました。これこそヨハネ21章23節にも反映されている「時とタイミングに対する神の主権」です。「それがあなたに何の関わりがあるのか。あなたがたはわたしが委ねた使命を果たしなさい」という主の御言葉は、ある意味で本文の核心テーマであり、教会がこの地上で「歴史の終わり」を見つめながらも決して見失ってはならない信仰的姿勢を示しています。「主よ、いつおいでになりますか」という問いよりもはるかに重要なのは、「主よ、わたしたちは何をすべきですか」という問いなのです。その答えがまさに、「あなたがたは行って伝道しなさい。あらゆる国々に福音を伝え、教会の中では互いに愛し合い、羊の群れを世話しなさい」という方向性に帰結します。

これらすべてのメッセージを総合して見ると、ヨハネ21章は福音書全体の結論を超えて、四福音書が共通して強調している「福音の宣揚と共同体のケア、そして主の再臨への終末論的希望」を内包した章だと言えます。イエスが「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃった部分は、ペテロ個人だけでなく、今日の教会指導者や信徒たちすべてに当てはまります。これはつまり「主が委ねられた人々を世話しなさい」、「主のからだである教会を愛しなさい」、「2世代をはじめ次世代を教え育てなさい」という具体的な要請です。そこに伝道と世界宣教の使命が含まれているので、多くの指導者はこの本文を読むときに「153匹の大きな魚のように、世のあちこちから主に立ち返る人々を教会が包み込むべきだ」と強調するのです。

とくに張ダビデ牧師は、さまざまな説教や文書で、この21章のメッセージを基盤としながら「世界を抱く教会、全人類に向かう宣教的共同体、そして霊的に牧養する強靭な共同体」をめざすべきだと力説してきました。教会の最終的な姿は、「愛によって羊を世話する牧養」と「諸国の民を対象とした積極的な伝道」がバランスよく調和するものです。このバランスを失うと、教会はどちらか一方に偏りがちです。すなわち、教会の内側にいる既存の信徒のケアだけに注力して外部に向かう「宣教の使命」をおろそかにする危険がある一方、「伝道」に偏りすぎてしまうと、教会内部の弱い肢体が傷つき放置されるような状況が生まれるかもしれません。ヨハネ21章はまさにこの二つをバランスよく包含しなければならないという事実を強調しているのです。イエスは弟子たちに「右側に網を投げよ」と命じることで「上から与えられる方向」に従う必要があることを教えられ、また「わたしの羊を飼いなさい」と命じることで牧養を同時に託されました。

このメッセージは、初代教会が置かれた歴史的文脈においても、また現代教会のビジョンや使命においても同様に適用されます。われわれがしばしば陥る問題は、「時とタイミングを自分のやり方で限定してしまう」ことです。主がすぐに来られると信じながらも、その再臨を準備する生き方とはかけ離れていることがあります。あるいは教会共同体が世から切り離され、自分の内側だけに閉じこもってしまうこともあります。しかし21章の御言葉は「主の時がいつであれ、あなたがたは委ねられた使命を全うしなさい」と一貫して教えます。その使命とは、すなわち、諸国の民を弟子とする宣教と、主の羊の群れを世話する牧養です。主の真の最終命令(「わたしの羊を飼いなさい」と「右側に網を投げなさい」の組み合わせ)は、一方だけでは教会を完全に建てることができないのです。

さらにここに付け加えて、歴史観と世界観についての言及も欠かせません。21章でペテロは七人の弟子の一人として再びガリラヤ湖に戻り、魚を捕っていましたが、結局は主の命令に従ったときに初めて豊かな実りを得ました。わたしたちはこの出来事から、「歴史とは、人間が自分の努力だけで切り開く場ではなく、神から与えられた使命に従うときに開かれていく舞台」であることを悟ります。神が主導される歴史の方向がどこに向かっているのかを深く探求し、世界が最終的にどのような結末(終末)へ進むのかを聖書の視点で理解するとき、わたしたちは揺らぐことなく、小市民的な利己心に陥ることもなく、カタツムリが殻に閉じこもるように自分の殻に閉じこもってしまうこともありません。したがって教会は若者や次世代に対して、聖書的世界観と歴史観を教える必要があります。人類の歴史は単に偶然や物質的な流れによって左右されるのではなく、神の摂理のうちで進められており、イエス・キリストの再臨とともに最終的な救いと裁きが成就することを明確に教える必要があるのです。

このように、ヨハネの福音書21章の核心メッセージは、「イエス・キリストの復活後、弟子たちが直面した現実の中で、いかに宣教的従順と牧養的責任を果たすか」という具体的方向性を提示しています。張ダビデ牧師はこの本文を「宣教と牧養の張り合いの中で教会が堅持すべき使命のエッセンス」と要約し、実際の例として教会開拓、学校設立、メディア宣教、文化宣教などを通じて全世界153地域(いわゆる「153ビジョン」)に福音を伝え、さまざまな魂を御言葉で養う働きにビジョンを抱くべきだと説いてきました。これは名簿上の「153匹の大きな魚」が象徴するように、究極的には全世界から神の民を集めるビジョンと重なるものです。

実際、教会が世の中で福音を伝えようとするとき、世はさまざまな手段で教会に圧力をかけたり、福音宣伝の方向性をぼかそうとしたりします。そのような中で教会が何よりもつかむべきは、「主が言われる右側」――すなわち「神が導かれる正しい方向性」です。張ダビデ牧師をはじめ世界宣教に志をもつ多くの指導者が、この原理によって各国に宣教師を派遣し、新たな社会的・文化的挑戦を教会が受け止めながらも、本質である福音を決して妥協せずに守るように説いています。神の言葉(網)は決して破れません。世に出て無数の魂を引き上げても、その網は十分に耐えうるのです。ただし教会が方向を見失い、別の側に網を投げようとするとき、あるいはそもそも投げようとしないときに問題が生じます。このメッセージを心に刻むことだけが、ヨハネ21章が伝える「豊かさ」と「命」を実際に体験する道となるのです。

復活されたイエスに気づかなかった弟子たちの目が再び開かれ、「主だ!」(ヨハネ21:7)という感動の告白につながる場面は、まさに今日の教会が復活祭以降の信仰生活でどのような姿勢を取るべきかを示唆します。イエスが復活されたことを「頭で知っている信仰」にとどまらず、実際の日常の中で出会ってくださる主を体験し、その方が示される道に従うことこそが真の復活信仰です。このとき「裸だったので、主だと聞いて上着をまとい、湖に飛び込んだ」というペテロの姿は実に情熱的です。神学者たちはこの姿を見て、「今やペテロはイエスへの熱い愛と回復の情熱を持つ存在へと生まれ変わった」と解釈します。イエスを否認した過去はあるものの、その失敗を乗り越え、主に向かって走っていく行為自体が「新しい始まり」を象徴しているのです。

結局、ヨハネの福音書21章は、20章まで展開した福音書の結論の後に置かれた「新たな始まり」に関する記録と言えます。イエスは復活によって死に打ち勝ち、その事実を弟子たちに示されました。これによって弟子たちは今まで予想もしなかった新しい時代を迎えました。すべてが変わったにもかかわらず、それでもなおガリラヤ湖での労苦と責任が彼らの前に残されていました。その務めとは、「福音を伝え、羊を飼う使命」でした。ペテロをはじめとする弟子たちが十字架と復活という決定的出来事の後に担わねばならなかった役割は、決して軽いものではありませんでした。しかし主は一度たりとも彼らをひとりにされず、相変わらず先に炭火と朝食を用意され、「右側に網を投げよ」と直接語ってくださいました。この内容を黙想する現代の教会もまた、時代が変わったからといって主の導きが変わるわけではないということを覚えます。むしろ終末に近づくほど、教会が守るべきことは「宣教と牧養、歴史と世界に対する明確な認識、そして次世代を責任ある形で育成すること」であると気づかされるのです。


2. 道と牧養の実践、そして世界への認識

張ダビデ牧師は、ヨハネ21章を説教する際、とりわけ「宣教と牧養」という二つの軸を強調します。彼はこの章を「伝道と牧養の章」と呼び、初代教会から現代教会に至るまで信仰共同体が必ずつかまなければならない核心課題だと何度も説いてきました。伝道とは、ガリラヤ湖で一晩中網を下ろしたのに何の実りも得られなかった弟子たちに、復活のイエスが与えられた言葉――「右側に投げよ」――に従うことで諸国の民へ踏み出すことです。一方、牧養とは、弟子たちの中でもとくにペテロを名指しして「わたしの羊を飼いなさい」と繰り返し三度も頼まれたイエスの愛と世話の義務を、教会の内外で実践していくことです。この二つは切り離せず、どちらか一方が過剰に強調されれば教会のバランスは崩れてしまいます。

まず宣教について見てみると、イエスが復活後、ガリラヤで弟子たちに会われたというのは福音書全体に共通する流れの一つです。マタイ28章でも、イエスはガリラヤの山で弟子たちに現れ、「あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい。父と子と聖霊の名によって彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)と命じられた「大宣教命令」の場面を記録します。「天と地のすべての権威がわたしに与えられた。それゆえ行きなさい」という宣言で、イエスは宣教の使命の根拠と結果の両方を示されます。使徒言行録1章8節でも、主は「聖霊があなたがたに下ると、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全地方、そして地の果てに至るまで、わたしの証人となるだろう」とおっしゃり、教会が止まることなく「諸国」へ向かっていくべきことを強調されます。

張ダビデ牧師はこのような福音書と使徒言行録の流れ、そしてヨハネ21章のメッセージを総合的に黙想し、「網が破れない」豊かな伝道の結実を得るためには、わたしたちが必ず「主が指し示す方向、すなわち右側に網を投げる従順」が必要だと力説します。実際、宣教の現場ではしばしば、人間的な戦略や統計、ノウハウに頼ってしまいがちです。しかし世代や文化圏ごとに状況は異なり、地域によって宣教アプローチの仕方は多様です。決定的なのは、教会が「主の声」を聞けていない、あるいは無視したまま、自分たちの計算や経験だけで宣教戦略を立ててしまうと、むしろ破れた網だけが残る可能性もあるということです。逆に、どんなに劣悪な環境であっても、主が許される方向と方法に従って福音を伝えるとき、わたしたちは初代教会が目撃した「驚くべきリバイバル」と「力強く生きた拡大」を体験することができるのです。

張ダビデ牧師は、こうした伝道と宣教が教会の本質的核心であることを繰り返し強調すると同時に、具体的に「世界宣教」を成し遂げるためのビジョンも提示してきました。153匹に対する象徴的解釈に基づいて「153ビジョン」を語ったり、教会同士が互いに連携して地球のあちこちに学校や神学校、病院、メディアセンターなどを建てて次世代を教育しケアし、それらを福音宣教の拠点とする計画を説明したりもします。それは単に「数字合わせ」を目指すのではなく、「神がわたしたちに与えてくださる網は決して破れない」という確信に基づく、積極的で具体的な宣教ビジョンです。人々は「どうして教会がこんな大きな働きを担えるのか」と反問するかもしれません。しかし本文の弟子たちも、153匹を一度に引き上げる前は「夜通し無駄に終わった」という経験しかありませんでした。けれども「主がおっしゃって右側に投げた網」は、想像を超える豊かさをもたらしました。この事実こそが「宣教は結局、神のみわざであり、神が直接導かれる方向にわたしたちが従うことが大切だ」というメッセージへと拡大していくのです。

さらに伝道の課題を担いつつ、教会は牧養にも励まなければなりません。イエスがペテロに三度問い、三度「わたしの羊を飼いなさい」と命じたのは、単なる愛の告白の回復にとどまらず、「これからはわたしがあなたに委ねる羊たちを責任もって世話しなさい」という厳粛な要求でした。教会の内で指導者は、羊を安全に導き、正しい御言葉と真理で養い、傷ついた魂を癒やす働きをしなければなりません。これが牧養です。ところがこの牧養が真に行われなければ、いくら伝道を通して人々を集めて増やしたとしても、結局は霊的なケアが欠如して成熟できなかったり、傷を負って離れていく人々が続出する可能性があります。宣教と牧養は常に同時に行われる必要があり、主がこの本文を通じてとくに「ペテロ=教会指導者=すべての信徒」に繰り返し語りかけられる御声は、「あなたはわたしを愛するか? そうなら、わたしの羊を飼いなさい」という強力な呼びかけです。

この牧養は教会内部にとどまらず、世を仕える姿へも拡張しうるものです。張ダビデ牧師も多くの説教と文書で、教会が世の貧しく孤立した魂を探し出して仕え、福音だけでなく教育や医療、文化的リソースを提供して実質的に助けることこそ、「イエスが示された愛の実践」だと説きます。かつて韓国教会が学校や病院を建てて社会の発展に寄与した事例があり、初代教会もローマ帝国の支配下で迫害されながらも、病人や孤児、未亡人のケアに率先しました。これは結局、「わたしの羊を飼いなさい」という主の命令を共同体の内側だけでなく、社会や世界の次元に拡張して適用したものです。そのためには教会がさらに広い歴史的・世界的視野をもち、自分の教会や民族の枠に閉じこもらずに、「あなたは自分の故郷や親族や父の家を出なさい」(創世記12:1)というアブラハムの召しを共有する必要があります。張ダビデ牧師はこうした世界観を強調し、「この時代の教会と信徒たちはもう一度2世代を立て上げ、彼らに聖書的歴史観を教え、諸国を夢見るよう導かなければならない」と説きます。

今日、多くの若者が「自分」を中心とする文化――すなわちポストモダン的思考――に慣れ、「世界がどこに向かうかはよく分からないが、自分の生活やキャリアが大事だ」と考えがちです。ですが聖書は「あなたがたは全世界に出て行き、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命じると同時に、「この時代の流れに倣ってはならない」(ローマ12:2)とも勧めます。これは個人の救いだけを目標にする信仰ではなく、「世界の救い」という神の大きなプランに参加せよ、という招きなのです。もし教会が2世代に対して、このような聖書的歴史観と世界観をしっかりと教えられなければ、次世代はますます世の中で自己満足と世俗的風潮に飲み込まれ、「魚を捕る使命」を見失いやすくなります。だからこそヨハネ21章の教訓――「右側に網を投げよ」と「わたしの羊を飼いなさい」という言葉――は、単に「弟子時代」や「教会指導者」に限定されるものではなく、すべての親や教育者、そして教会共同体全体が共につかむべき真理となるのです。

「主よ、一晩何も捕れませんでした。しかしお言葉ですので網をおろします」というペテロの以前の告白(ルカ5章)と同様に、たとえ現実では何の成果も得られなかったとしても、主が定められた時と方向に従えば、「153匹の大きな魚」のような実を得ることができます。これは経済的豊かさを超えて、魂の救いと世界宣教という意味でより真実な意味をもっています。張ダビデ牧師はヨハネ21章の説教の中で、この153匹を次のように解釈します。「これはわたしたちがつかんだ福音の網(net)の中に入ってくる神の子たちの総体であり、全世界から神の子どもとして召される人々の象徴である。網は神の御言葉だから決して破けることはない。ゆえに教会は、網が弱まらないかと心配するのではなく、どうすればもっと多くの魂がこの中へ入れるかを考えるべきなのだ」。このように「網が破れない」という宣言は、神の福音が堅固であり、その中に命の力が充満しているという告白でもあります。

結局、ヨハネ21章は宣教と牧養という同時的要求、そして終末論的認識の中で教会がどのような道を歩むべきかを明確に示しています。この本文は「教会共同体が果てしなく拡大しながらも、同時に内側では深くケアする働きが行われることを望む主のみこころ」を内包しています。教会の歴史は、実際にそうした流れの中で展開してきました。ローマ帝国時代、中世、宗教改革、近代や現代に至るまで、福音が伝わるところには必ず「釣り上げられた魂」と、彼らを牧養する「教会共同体」が建てられてきたのです。もちろん世の挑戦や誤りも多く、教会がその使命を誤解したり、実行する中で失敗したことも多々あります。しかし核心は今も変わりません。わたしたちは網を投げなければならず、羊を飼わなければなりません。そしてその過程で「主よ、いつ戻られるのですか」という好奇心や「時期計算」に没頭するのではなく、「時や時期はただ神に属する」という信仰をもって、与えられた今日の使命を全うすべきなのです。これこそが「それがあなたに何の関わりがあるのか」(21:23)というイエスの言葉にこめられた意味です。その言葉はイエスの再臨の時期をめぐって議論していた初代教会共同体にも、そこから2000年経った今の教会にも同じく当てはまります。信仰者としてわたしたちがなすべきは「再臨の日付を推測し計算すること」ではなく、「わたしが再び来るまで、この福音を忠実に宣べ伝え、互いに愛し合い、牧養を通じて教会を建て上げること」を行うことなのです。張ダビデ牧師は、「まさにこれがヨハネ21章が持つ終末論的かつ宣教的であり、同時に牧養的な招きだ」と説きます。そして毎年の総会や新しい教会活動を始めるときに、わたしたちはこの御言葉を思い起こし、「歴史と世界に対する神の壮大なご計画」の中で、個々人が担うべき役割をもう一度刻む必要があると強調します。

もし教会が内側だけを見つめ、自分の垣根に安住するならば、方向感覚を失い、左側や後ろ側に網を投げる失敗を犯しうるでしょう。少しでも世で豊かになれば、かえって神の召しと福音を忘れ、娯楽や享楽に溺れてしまうことも容易です。しかしイエスはヨハネ21章で明言されます。「右側に網を投げなさい。わたしの羊を飼いなさい。そして『時とタイミング』は神の領域なのだから、あなたは勝手に干渉せず、終末論的意識をもって福音を伝えなさい」。この命令は現代社会でも有効であり、教会が担う使命は「内にあっては互いにケアし養い(牧養)、外にあっては全世界に福音を伝えて弟子とする(宣教)」ことです。これこそ、毎年新たに出発する教会の働きや総会の方向を決定する「基準点」となるべきです。

教会がある地域に根を下ろすとき、その地域独特の文化や季節、環境のなかで人々は神を礼拝し、御言葉を学び、互いに世話し合います。ドーバーの美しい四季折々の変化、紅葉が色づく秋の風景や雪降る冬の景色がいっそう印象深く感じられるのは、そこに教会の活動と祈り、礼拝と交わりが宿っているからかもしれません。いま「建設の時代を迎えた」というのは、物理的な建築だけを指すのではなく、「わたしたちが心を引き締め、この地域と世界を見据えながら、新たな歴史の舞台を開いていこう」という決意を含んでいます。その出発点こそが「主が示される右側に網を投げること」であり、「羊を養うために必要な霊的・実践的準備を整えること」です。

張ダビデ牧師をはじめ、ヨハネ21章の御言葉に従って宣教と牧養を同時に夢見るすべての教会指導者と信徒たちは、まさにこの原理によって次世代を育てるための学校を建て、世界の各地に派遣された宣教センターを運営し、福音と愛を伝えようとしています。結局、このすべての教会の歩みは、ヨハネ21章の「153匹の大きな魚」と「わたしの羊を飼いなさい」という御言葉を現実の中で具現化することであり、「神の子どもたち(ベニ・ハ・エロヒム)」であるクリスチャン共同体を全世界に広げていく道でもあるのです。

したがってわたしたちはこの時代により明確に、「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか。それならわたしの羊を飼いなさい」という主の問いに耳を傾けなければなりません。もし神の子を信じて永遠の命を得たのならば、今度は世界の救いに向かって踏み出さなければなりません。主の時がいつなのか正確には分かりませんが、教会と信徒たちは目の前に与えられた宣教と牧養の機会をつかみ、懸命に労するべきです。その労苦の結果として、わたしたちが働く地域(ドーバーを含め世界中のどこでも)で神の国は拡大し、2世代は正しい歴史観と世界観を備えた信仰の世代へと育っていくでしょう。そして主が再び来られるときには、「よくやった、忠実な僕だ」とほめられて、主とともに喜びの宴に加わるのです。これこそヨハネ21章の結論であり、張ダビデ牧師が強調する「福音書全体のグランドフィナーレ」と言えます。

最終的にわたしたちは、ヨハネ20章の結びに続いて21章が「付録」のように存在するのは決して偶然ではないと悟ります。「イエスが神の子キリストであることを信じて永遠の命を得よ」(20章の結論)という明確な福音の核心宣言のあとに、その信仰を現実の中でどのように生きるべきかを示す具体的な指針が21章に含まれているのです。その指針とは、まさに「やがて再び来られる主を待ち望みつつも、時とタイミングに囚われることなく、あなたがたが歩むべき方向(右側)と果たすべき責任(わたしの羊を飼いなさい)を忠実に実践しなさい」という御言葉です。教会はこの御言葉を握って働く中で、最終的にヨハネの黙示録に予告された花婿なるイエスとの完全な結合を得ることになるでしょう。その日が訪れるまで、「153匹の魚」のように数多くの魂が教会へと加えられ、その網(神の御言葉)は決して破れないのです。

このように二つの核心――宣教と牧養――がヨハネ21章の前半と後半を通じて強調されます。そしてその背後には三つ目の重要な流れである「再臨と終末論的視点」が流れています。しかしヨハネ21章は「終末がいつ到来するか」を具体的には教えません。むしろ「彼が生き延びようがどうしようが、それがあなたと何の関係があるのか。あなたはわたしについて来なさい」といったかたちの御言葉を残します。わたしたちにとって重要なのは、主がすでに与えてくださった使命(宣教・牧養)を忠実に実践することであって、終末の時やタイミングを正確に計算したり、その論争に埋没したりすることではありません。初代教会も現代教会も、人間はしばしば「主よ、いつ来られますか」という好奇心にとらわれがちです。しかしイエスは「それがあなたに何の関わりがあるのか。あなたは行って、福音を伝え、羊を飼うと言わなかったか」と問い返されるのです。

では教会は具体的に何をすればいいのでしょうか。ヨハネ21章が示す道ははっきりしています。イエスを愛するゆえに羊を飼うように、教会の中で互いに世話しつつも、外にはガリラヤ湖に網を下ろすように福音を伝える――この二つを併行していくことです。そのように養育と宣教を両立するとき、世は最終的に神の栄光を目撃し、教会は「賛美」と「感謝」の共同体へと生まれ変わります。張ダビデ牧師は「これこそが今日の教会の存在理由であり、ヨハネ21章の核心精神を実践する道である」とまとめています。さらに教会が世の文化や教育、社会の隅々に福音を伝えるには、「歴史と世界に対する聖書的観点」を子どもたちにも植え付けなければならないと語ります。もし神の創造と贖い、そして終末のビジョンを理解できなければ、若者たちは世の誘惑や風潮に容易く同化してしまい、教会の使命も弱体化する可能性が高いのです。

ヨハネ21章は、福音書全体の結びのあとに与えられた追加の章であり、復活された主がティベリヤ湖で弟子たちに示された奇跡と愛の対話、そして使徒たちに授けられた究極的使命を記録しています。「わたしは魚を捕りに行く」と言ったペテロの日常的な告白が、逆説的に新たな始まりを開くきっかけとなりました。イエスは舟の右側に網を投げるよう指示されて豊漁を経験させ、炭火で魚とパンを焼いて弟子たちと食事をともにされました。そしてペテロに三度「あなたはわたしを愛するか」と問いかけ、その過去の失敗を回復すると同時に、真に必要な使命を与えられました。このくだりは、すなわち「教会指導者」だけでなく、すべての信徒に適用される「宣教と牧養」の共同召命です。つまり主の再臨を待つあいだ、教会が担うべき務めは「網を投げて諸国の民を救い、既に教会の中にいる羊を真摯に養うこと」なのです。

これこそがヨハネ21章が今のわたしたちに残すメッセージであり、張ダビデ牧師をはじめ全世界で福音を宣べ伝える多くの指導者たちがこの本文から受けとめている使命と言えます。ヨハネ21章の最後の数節に書かれているように、イエスの言葉は書ききれないほど豊かで尽きることがありません。しかしその豊かさの要点は「あなたはわたしを愛するか」という問い、そして「右側に網を投げよ」「わたしの羊を飼いなさい」という直接的な命令に集約されます。教会がこの命令に誠実に従うとき、わたしたちは個人の救いにとどまらず、歴史と世界に向けた神の大きく素晴らしい摂理をほんの少しでも共に実現していくことができるでしょう。そしてついに主がふたたび来られるその日、「あらゆる民族」の中から救いにあずかった多くの人々とともに永遠の命を味わうのです。その日を見つめつつ、わたしたち一人ひとりが「主が示されるその方向――右側」と「牧養」という務めを心に留め続けなければなりません。これがヨハネ21章が今日、そして明日の教会に投げかける挑戦であり招きであり、決して聞き流すことのできない最後の勧めなのです。

ヨハネ21章の本文の流れとその神学的・実践的意味を中心に、張ダビデ牧師の解釈と適用、そして教会共同体の課題(伝道と牧養、次世代教育、世界観の確立)を包含するとき、その核心的結論は「福音書の結びのあとに教会に委ねられた最も大切な使命は伝道と牧養であり、その方向と力は主がすでに備えておられるのだから、わたしたちは日々従順に歩まなければならない」ということになります。

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張ダビデ牧師 – 永遠を慕う心


1. 道者の書と知

張ダビデ牧師は、伝道者の書を「知恵文学」と分類し、聖書の中で非常に重要な位置を占めると強調している。彼が言うところの知恵文学としての伝道者の書は、人間の知恵が単なる「知識の蓄積」や「人生経験の蓄積」ではなく、究極的には神を知ることで得られる霊的な洞察であることを示している。特に伝道者の書と箴言が共に知恵文学という分類に属しつつ、それぞれが示す独特のメッセージについて、彼は次のように整理している。すなわち、箴言は具体的で現実的な生活の指針を「主を恐れること」という大きなテーマに基づいて提示し、一方の伝道者の書はより存在論的な問い、すなわち「人生とは何か」「すべてが空(むな)しいというが、その真意は何か」といった根本的で直截的なテーマを扱う、というわけである。

伝道者の書において代表的なキーワードは「空しさ(ヘブル語での‘헛됨’)」である。張ダビデ牧師は、この「空しさ(허무)」という言葉を、しばしば英語の聖書で訳される “meaningless” と比較しながら、その意味が単に「すべてが意義や価値を持たない」というレベルにとどまらず、人間の実存がもつ「無(nothingness)へ回帰する運命的属性」を指摘するものだと説明する。ここで「無へ帰る」という事実は、伝道者の書の冒頭と結末で同様に宣言されており、著者である「伝道者(伝道者の書の執筆者)」が人生の本質について悲観的で荒涼とした洞察を語っているかのように見える。しかし張ダビデ牧師は、この悲観的な結論こそが、むしろ霊的な意味を最も深くあらわにする装置だと説く。伝道者の書は、人間が知的能力(伝道者の書1章)と肉体的快楽や財産(同2章)をいくら享受しても、結局はすべてが空しさに帰結すると繰り返し強調する。ここでいう「空しさ」は、時を所有する人間が最後には死と共にすべてを手放さねばならない「有限性」を示すと同時に、神がおられないならば真の意味や永遠の価値を見いだしがたいことを暴露するのである。

したがって伝道者の書は、知恵文学として、人間が容易に見落としがちな2つの前提を想起させる。ひとつは「人間は死ぬ」という事実である。ヘブル人への手紙9章27節の「人間には、一度死ぬことと、その後にさばきを受けることが定められている」という聖書の教えは、すべての人類に変わらず与えられた原理だと、張ダビデ牧師は繰り返し述べる。これは伝道者の書が語る「すべては空しい」というテーマと正確に重なっている。人間が持つ時間、才能、物質、それらはいずれも死後には何一つ持っていけないという事実は、私たちに霊的根本を省みさせる契機となる。もうひとつは、人間の内には「永遠を慕う心」(伝道者の書3章11節)がすでに与えられているということだ。張ダビデ牧師は、動物は自分の死後の世界や本質的な目的について思索しないのに対し、人間は誰もが「死の先には何があるのか」「人生の意味とは何か」を疑問に思う点を挙げ、これこそ神が与えてくださった永遠への渇望だと主張する。

張ダビデ牧師は、伝道者の書が「人生は空しい」という宣言で始まり、最後の12章に至って「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12章1節)という勧告へとつながる展開が、知恵文学の特徴を圧縮していると見る。このように、自分の存在が結局は空しさに終わる事実を知っているならば、私たちが生きている「若い日」――ここでは単に年齢の問題だけでなく、心の純粋さと信仰の熱意が最も生き生きと発揮される時期を象徴している――に創造主なる神を覚えてしっかりととらえることこそ、真の知恵につながるのだというのである。伝道者の書12章8節「空の空、すべては空である」という結論もまた、人生のすべて(所有、知識、名誉など)が最後には空しさに帰することを再確認させ、それを反面教師として、人間の霊的本質を深く呼び覚ますための役割を果たす。

こうした文脈で、箴言の核心命題が「主を恐れることが知識(あるいは知恵)のはじめ」である点に注目すべきだと張ダビデ牧師は強調する。人間の知識がどれほど優れていようと、学問がいくら発展しようと、「主を恐れること」という霊的基礎がなければ、その知識は結局制限的で暫定的なものにとどまり、伝道者の書が語る「空しさ」の範疇に呑みこまれてしまうというのだ。結局、「伝道者の書と箴言」という知恵文学の対は、恐れ(箴言)と空しさ(伝道者の書)という相反するように見える概念が緊張感とバランスを保ちながら、人間の実存と信仰を洞察する手助けをしている。張ダビデ牧師は、このような知恵文学の教えを、各時代や世代に合わせて適用する必要性を説き、若者はもちろんのこと、すべての年齢層が人生のむなしさを直視せずにおくのではなく、その自覚を通していっそう神を恐れるように、という伝道者のメッセージに耳を傾けるべきだと強調している。

さらに、伝道者の書3章1節と3章11節を結びつけて読むことが重要だ、と彼は言う。「すべてのことには季節があり、この世のすべてのわざには時がある」(伝道者の書3章1節)、「神はすべてを時にかなって美しく造り、人の心に永遠を思う思いを与えられた。しかし神が行われるみわざの始めから終わりまでを、人は見きわめることができないようにされた」(同3章11節)という2つの本文はどちらも、人間の有限な時間と神の永遠性、そして人間が直面する神秘と畏敬の念を語る。「時」という言葉は、単に流れていく時間(Time)だけを示すのではなく、目的を成し遂げる特定の時点(Date)の到来をも含意する。張ダビデ牧師は、「私たちの内にある永遠を慕う心」が、この地上の一時的で有限な時間性を超えて、最終的には神の永遠のうちへ導いていく原動力になるのだと解説する。このように、伝道者の書は知恵の書としてキリスト教信仰者に対し、「自分の人生を洞察せよ、死を認識せよ、永遠を見よ」という直接的メッセージを届ける役割を担っている。

しかし、このメッセージを伝えるにあたり、若者であろうと高齢者であろうと、結局は誰も死を免れず、その前ではすべての所有、知識、名誉が無へと帰するという事実が共通に適用される。これは伝道者の書が宣言するように空しさではあるが、同時にその空しさを自覚した人々には天からの知恵が臨みうる好機でもある。張ダビデ牧師は、この点でむしろこのような空しさと死を意識することこそが、悲劇を超えていく道(beyond tragedy)を開くのだと語る。そして伝道者の書の文脈から一歩進んで、新約聖書に至ると、その悲劇を超えていく道の答えは「イエス・キリストを通じた永遠のいのちと天国」に行き着く。ゆえに伝道者の書が示す空しさの宣言は、人間が喉の渇きを覚えれば水を探し求めるように、霊的な渇きを自覚させてイエス・キリストを求めるに至らせ、そこで真のいのちの道を見いだすように導く仕掛けになっているというわけである。

ここで張ダビデ牧師は、科学者たちの視点にも注目する。多くの科学者たちが宇宙の精妙な秩序とその壮大さを前に畏敬の念を抱き、その畏敬心が結果的に神の存在を認める方向へ導くことがある、と指摘するのである。ローマ人への手紙1章20節「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、天地創造の時からこのかた、造られた物において知られはっきり認められるからで、彼らに弁解の余地はないのです」という御言葉が、これを裏付ける。複雑で精巧な自然界を見れば、その秩序を否定できず、その秩序を造り出された創造主への畏敬の念が湧かざるを得ない、というのである。最終的に伝道者の書が語る空しさは、人間存在の微弱さを想起させると同時に、神が造られた世界とそこに宿る永遠の摂理を認識するよう私たちを導く通路となる。人生の本質を悟りたいと願う知恵者の道は、まさに伝道者が強調する「死を認識し、創造主を覚える道」であるということを重ねて主張するのだ。

さらに張ダビデ牧師は、伝道者の書が「年老いる前に創造主を思い出せ」と宣言する場面に着目し、人間の具体的な老化過程(目がかすみ、耳が聞こえにくくなり、足が震え、歯が抜けるなど)を例示して、人生がいかに速く衰退していくかをストレートに示している点を強調する。多くの人々は人生の黄昏期にようやく人生の目的を考え始めるが、そのときはすでに身体も心も衰えて動きが困難な場合が多い。結局、神を信じて永遠を見つめる知恵は、若者の頃から、すなわち最も活力にあふれ熱情的な時期にこそ始めるべきだという聖書的勧告がここに示されている。つまり「空しさ」を知りつつも、その空しさに閉じこもって悲観に沈むのではなく、それを足がかりとして真のいのちの道を見つけることこそが、伝道者の書が与える究極の教えであり、これが張ダビデ牧師の核心メッセージだということである。

こうして伝道者の書が語る空しさ、死、そして「創造主を覚える」という構図は、若者から老年期に至るまで人生の全過程を貫く普遍的かつ強烈なテーマである。張ダビデ牧師はこのメッセージを繰り返し説き、教会内外のすべての人々が伝道者の書の「死への認識」と「永遠への渇望」を心の奥深くに刻むことを促している。特に教会は幼少期からこの真理を教え、成長する世代が幼いうちから人生の本質とその終わりを正しく認識できるよう導く必要があると強調する。なぜなら、人間は肉体だけでなく霊的存在であり、真理を慕うのは肉ではなく霊の望みによって成し遂げられるからだ。

ここで、箴言に代表される「主を恐れる道」と伝道者の書が提示する「人生の空しさと創造主を覚える道」は、本質的に同じ実を結ぶと張ダビデ牧師は主張する。知恵の核心は神を知ることであり、神を恐れ敬うことだ。その畏敬の念からすべての真の価値と意味が湧き出るので、人間の知識がいかに偉大であっても、神がおられない知識は結局部分的洞察や一時的な有益性を超えて、永遠の価値(eternal value)に昇華されることはない、というのである。

張ダビデ牧師が伝道者の書を重視しながら伝えたい要点は、「人間は有限であり、死の前にすべてを下ろすほかなく、その中で真の知恵とは創造主を覚え、永遠をつかむことだ」ということに要約される。彼はこれを様々なたとえや聖書の例を用いて説き、教会共同体の内外を問わず伝道者の書のメッセージが有効であると力説する。もし私たちがこの悟りを見失って生きるならば、一生懸命積み上げたものがある瞬間、空しく消え去る過程に直面し、魂の渇きを満たせないままに終わってしまう。しかし伝道者の書が語る真の知恵を握るならば、私たちの人生は神が定めた時(Time)と目的(Date)に向けて開かれ、そこにおいてようやく私たちは「永遠を慕う心」の真の意味を味わいながら生きることができる、と張ダビデ牧師は教えている。


2. 人間の有限性と永遠

張ダビデ牧師が伝道者の書を通して投げかける核心的な問いは、「なぜ人間の人生は空しいのか?」、そして「その空しさを超える道は何か?」である。これは、人間の有限性と神が与える永遠の希望を対比させることでいっそう鮮明になる。彼の言う有限性とは、時間的・空間的制約の中にある人間の本性を指す。どれほど高い知識を積み、財産を集め、快楽を享受しても、人生の終わりにやってくる死を免れないという事実は変わらない。伝道者の書はこれを「空しさ(허무)」という言葉で繰り返し強調しており、張ダビデ牧師はその「空しさ」を聖書的な言葉で「無(無)への回帰」あるいは「究極的消滅」と表現することもできると説明する。

それでは、なぜ神は人間にこのような「空しさ」を与えられたのか。これに対する答えとして、張ダビデ牧師は伝道者の書3章11節「神はすべてを時にかなって美しく造り、人の心に永遠を思う思いを与えられた」という節を中心に据える。人間の内にある永遠への渇望こそが、私たちを神へと導く最も強力な動因だというのである。動物は自分自身の存在意義について思索したり、死後の状態について考えたりはしない。だが人間だけは、なぜ存在し、なぜ死ななければならず、死後には何が待っているのかを常に気にする。こうした霊的な渇望こそ、伝道者の書が語る「永遠を慕う心」なのである。張ダビデ牧師は、これを一種の「内面化された信仰本能」と見なすこともできると強調する。誰かが意識的に信仰を学ばなくとも、宇宙的な驚異や生命の神秘を悟る瞬間に、神的存在を自然に問いかけるようになるからだ。

しかし人間は、その渇望を時には世俗的な快楽や財産、権力で満たそうと試みる、と張ダビデ牧師は指摘する。伝道者の書1~2章において伝道者(コヘレト)は、この世に存在するあらゆる喜びや楽しみを味わい尽くしてみたものの、それが皆一瞬の春の夢のごとく消え失せ、また空しかったと告白している。これは現代においても同様である。現代社会が提供する様々な物質的豊かさや娯楽、情報の洪水は、人間の霊的渇望を十分に満たしてはくれない。むしろその渇望はますます大きな渇きへとつながるだけである。ここで張ダビデ牧師は「神なき人間の人生は、ただやみくもに『努力』と『蓄積』を続けるが、死の前ですべてが無用の長物となる現実に結局は直面する」と語る。こうしたときに、伝道者の書が宣言する「すべては空しい」という結論が改めて立ち上がってくるわけだ。

しかし張ダビデ牧師によれば、これは「終わり」ではなく「始まり」なのだという。「空しさ」を自覚したということは、その自覚を通して真理なる神に向かう機会が開かれたことを意味するからである。人間が限界を悟ったとき、私たちの目は自動的に「限界を超える存在」へと向かうようになる。これは知的な啓蒙や道徳的完璧主義では解決できない問題であり、ただ創造主なる神が与える霊的解決策によってのみ克服されると、張ダビデ牧師は言う。具体的には、新約聖書が伝えるところの、イエス・キリストの十字架と復活によって罪と死の権威が打ち破られ、「永遠のいのち」を得られるという福音こそ、伝道者の書が提示した空しさの問題に対する最終的な解答だというのである。

この点で張ダビデ牧師は、「人生を生きるのか、それとも死へ向かっているのか」という問いを投げかける。人間は刻一刻と死に近づいている悲劇的な実存である。だが、この悲劇を超えていく道(beyond tragedy)は、イエス・キリストが約束された「永遠のいのち」と「天国」の希望をつかむ以外にない。そうするとき、伝道者の書が指摘した空しさの深淵を通り抜け、むしろ真の意味と価値を発見する転換が起こる。張ダビデ牧師はこれを2つの視点で説明する。第一に、「私たちの内にすでに、より尊いものがある」ということ。これは使徒の働き3章6節でペテロが語った「銀や金は私にはないが、私にあるものをあなたにあげよう」という言葉に着目したものである。すなわち、物質的所有や世俗的権力がなくとも、イエス・キリストを所有している者は、すでに真に永遠の価値を手にしているという意味だ。第二に、「現在が永遠とつながっている」ということ。私たちの刹那的な生が断絶しているのではなく、永遠の視点において絶えずつながっている、という認識である。信仰のうちに一歩一歩を踏み出す瞬間自体が、神の国の一部となる。神学者たちが言う「永遠の今(eternal now)」という概念がこれに該当する。結局、人間が経験するあらゆる悲劇も、神の約束のうちでは新たな意味を持ち得るようになり、その悲劇的現実が永遠へと向けて変換されうる、というのである。

張ダビデ牧師は、このような観点を語りながら、教会共同体が世の中でどのように生きるべきかを具体的に示唆する。人間の本質を悟った信仰者は、所有の奴隷になるべきではないと彼は言う。イエス様が弟子たちを招く際に「人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4章19節)とおっしゃり、昇天される前には「地の果てまでわたしの証人となりなさい」(使徒1章8節)と命じられた。いわゆる「大宣教命令(Great Commission)」である。しかし所有に縛られ、物質的安逸ばかりを追い求めていれば、それは「盲人が盲人を導く」状態にすぎない、と指摘する。張ダビデ牧師がキリスト教信仰者へのメッセージとして「所有を克服せよ」とまとめる理由はここにある。現実的には、私たちは必要のために労働し、財を稼ぎながら生きることは不可避だが、それを人生の「目的」としてはならず、もっと大きな価値――すなわち「神の国とその義」(マタイ6章33節)――を追い求めるときにこそ、真の満足と喜びを得ることができると強調する。そして、それこそ「この地上の期限付きの人生」を生きながらも、「永遠なる神の視点」を心に抱いて生きる姿だというのである。

張ダビデ牧師は、教会が共同体としてこのような真理を実践するには、ガラテヤ6章2節「互いの重荷を負い合いなさい。そうしてキリストの律法を全うしなさい」という御言葉に従うべきだと説く。信仰のうちに互いの重荷を負い合う態度こそが「キリストの律法」であり、この律法が守られるとき、教会は世の中と異なる愛と仕え合いの文化を形づくることができる。しかし人々がしばしば陥る勘違いは「つらい重荷を他人に押しつけようとする」ことだ、とも指摘する。張ダビデ牧師はむしろ、イエス様の模範こそが「私たちのためにご自分の命さえ差し出された犠牲的な愛」だったことを思い起こし、私たちも互いにそうやって犠牲し、献身的な態度を示すときこそ、教会共同体が真の意味で宣教と伝道を担うことができるのだ、と主張する。

そしてこのとき、張ダビデ牧師は歴史的文脈にも視野を広げる。教会が主から与えられた使命を果たすためには、具体的な組織やシステムが必要だというのである。イエス様は「地の果てまで福音を宣べ伝えよ」と命じ、また「すべての国民を弟子とせよ」(マタイ28章19~20節)と言われた。それゆえ、実際に宣教や伝道の基盤を整える本部(センター)や施設、さらには文化的理解が不可欠であると強調する。ある人々は、教会に財政的・組織的基盤が整うことを「所有の蓄積」と批判するかもしれないが、張ダビデ牧師は与えられた目的を成し遂げるために必要な「道具」として、これらのすべてを適切に用いるべきだと説く。大切なのは、その所有を神の国のために使うのか、それとも個人的野心を満たすために握ってしまうのかという態度にかかっているのだ、と指摘する。

実際に張ダビデ牧師は、自身が属した、あるいは導いてきた共同体の歴史において、何もなかった時代から走ってきた28年の過程(あるいはそれ以上の年月)をしばしば語り及ぶ。彼は「初めは何もないとき、ハバクク3章17~18節の御言葉を握り、『何もなくとも救いの神にあって喜ぼう』という賛美を歌った」と証しする。しかし時が経ち、神の恵みにより多様な土台が与えられたとき、すべては単なる付加物ではなく「人々をケアし、文化圏ごとに福音を分かち合い、全世界に向けて宣教するための道具」であることを明確にすべきだと語る。伝道者の書から学ぶ人間の人生の空しさ、その空しさの前で、私たちは必死にすがるべき存在が神しかいないという悟りを失わないならば、何かを所有したときにもへりくだってそれを神の目的に沿って用いることができるのだという。

張ダビデ牧師は、人間が有限である事実を直視するならば、人生において何がより重要かを正しく仕分けできるようになると強調する。伝道者の書12章が語る「銀の紐が解け、金の鉢が砕ける」場面や「ちりは元の土に帰り、霊は神に帰る」(伝道者の書12章7節)という御言葉は、いずれ誰にでも避けられない最期が訪れることを思い起こさせる。そしてまさにこの終末認識こそが、私たちのうちにある高慢や欲望を捨てさせ、真の価値である「霊的なもの」をつかむきっかけとなるのだ。張ダビデ牧師は、伝道者の書12章全体が示す老化過程の描写(目がかすんで耳が遠くなり、歯が抜け、アーモンドの花が咲くほど真っ白になる髪を象徴)を通して、私たち一人ひとりが最終的に老いて衰えていく現実を受け入れるとき、人生の目的は神の国とその義を求め、周りの人を生かし、愛することに向かうべきだと深く悟るようになる、と解説している。

このように張ダビデ牧師が力説するポイントは、伝道者の書が語る「空しさ」が決してニヒリズムを教義化したものではないということである。むしろそれは、信仰者を成長させる洞察の媒介なのである。死を知る人は、人生の価値をより切実に悟り、所有や権力に執着する愚かさを避けることができる。また他者の霊的必要を見て、ガラテヤ6章2節の御言葉の通りに互いの重荷を負い合い、キリストの律法を全うしようとする動機付けとなる。張ダビデ牧師は、教会が主の到来を待ち望む降臨節(クリスマス)といった行事のたびに、このメッセージをいっそう強く宣べ伝える必要があると強調する。イエス・キリストの誕生を記念するとは、すなわち「神が人の身体を取ってこの地上に来てくださり、私たちを永遠へと招かれた」という事実を改めて思い返すことだ。人間の有限性を超えて、神が与えてくださる永遠の世界、すなわち天の御国の市民権を得たという知らせこそがクリスマスの真の喜びであるから、これを正しく認識して祝うべきだ、と彼は言う。

さらに彼は、「人生は矢のように過ぎ去る」という認識を持つとき、私たちは今やるべきことを先延ばしにしなくなる、と強調する。伝道者の書3章が語る「すべてに時がある、すべての目的を成し遂げるときがある」という原理は、信仰者であればさらに厳粛に受け止めるべきだという。いわゆる「やるべきことがあるなら今日やれ。今日できることを明日へ延ばすな」という警句が、霊的次元での真理となるわけだ。張ダビデ牧師は、これを教会の働きや宣教戦略にも適用している。イエス様のお言葉に従い「人間をとる漁師」となるためには、与えられた時と機会を賢く活用しなければならない。教会共同体が若者への伝道を優先するのもこのためだという。まだ人生の重大な決定を下す前で、比較的心が開かれており、世俗的経験に深く染まっていない若者が福音を受け入れるとき、その実りが大きいと考えるのである。もちろんすべての年齢層が対象ではあるが、伝道者の書12章1節「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という御言葉のように、最も活力ある時期に神と出会うことの重要性を繰り返し訴えるわけだ。

このように張ダビデ牧師が伝道者の書を通して語るメッセージは、結局「人間は死ぬ。しかし永遠を慕う心を持ち、その永遠を与える方は神である」という核心的なまとめに行き着く。人間の有限性を見ないふりをしたり、意図的に否定したりして生きるならば、結局はむなしい欲望や無目的な活動に満ちた人生を送ることになり、最後には空しさで終わってしまう。だが、自分の有限性を正直に受け止め、そこに神が与えてくださった永遠のいのちをつかむ者は、人生の意味と目的をはっきりさせ、隣人を生かし福音を伝える道を歩むことになる。これが張ダビデ牧師の言う真の知恵の道であり、「すべては空しい」という伝道者の書の宣言が私たちにもたらす逆説的な贈り物なのである。

張ダビデ牧師は、伝道者の書と箴言が共に示す知恵文学の洞察を通して、教会と信徒たちに「空しさ」を恐れたり回避したりせず向き合うべきだと呼びかける。まさにその「空しさ」と向き合う瞬間にこそ、神の存在、天国、そして永遠という希望がどれほど尊いものかを自覚できるからである。そしてこの自覚こそ、イエス・キリストの降誕と死と復活、さらに「地の果てまで福音を宣べ伝えよ」との大宣教命令の意味を正しく悟らせる最大の動機となるのだ。死の前では空しさを免れないはずの人間は、神のうちで永遠へとつながり、究極的な勝利を得ることができる。人生を本当に意味あるものとして生きる道は、まさにこの永遠への渇望と信仰的確信をつかむことにある、と張ダビデ牧師は強く語る。そして教会共同体は、このメッセージを日々宣べ伝え、信じていない人々にまで「永遠を慕う心」を呼び覚ますために召されている存在であるという。こうした認識のうちに、ようやく若者も中高年も高齢者も、自身の生涯が決して偶然の旅路ではなく、神のすばらしいご計画のうちにある摂理の一部だと悟り、伝道者の書が語る「時にかなって美しくしてくださる」神の主権をほめたたえるようになるのだ。

張ダビデ牧師は最終的に、私たちがこの地上でどんなに立派な業績を残しても、自分の命を自ら保てる者は誰一人いないということを改めて喚起する。聖書全体が証言するように、人間はアダムの子孫として必然的に死に至る。ゆえに「永遠を慕う心」は、私たちに一時的で朽ちる価値を超えて、霊的真理へ近づく道筋を示してくれる。もしこの心がなければ、人はすぐに自分勝手な基準(norm)を立て、他人の基準と衝突し、空しいまま人生を終えることになる。しかし神が造られたこの世界の秩序を認め、人間の有限性を受け入れ、イエス・キリストによって与えられる救いの恵みをつかむならば、クリスチャンは絶望の代わりに希望をもって生きることができる。伝道者の書が語る空しさは、最終的に私たちを真理なる神へ導く通路となるのであり、この洞察を与える知恵文学の教えはあらゆる世代を生かす力強い御言葉であることを、張ダビデ牧師は最後まで強調する。ゆえに教会は、伝道者の書が語る永遠への渇望と、箴言が示す主を恐れる原理を常にあわせて教え、羊たちがこの真理を学び、実践できるよう導かねばならないのだ。

張ダビデ牧師が伝道者の書を解き明かす方法は、人生の有限性と永遠の間に横たわる隔たりを深く見つめさせる。伝道者の書が宣言する「空の空、すべては空」という繰り返しの告白は、私たちに「人生とは、神の恵みをとらえてこそ真の意味を持つ」ということを喚起する。その恵みは旧約の時代における伝道者の嘆きで終わらず、新約の時代におけるイエス・キリストの福音によって完成される。それは信仰において決して選択肢などではなく、絶対的な真理であるという点が、張ダビデ牧師の核心的主張だ。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12章1節)という勧告に込められた切迫感と尊さ、そして「すべてのことには時がある」(同3章1節)という時間的有限性の警告により、私たちは今息をしているこの瞬間が、どれほど貴重な霊的機会であるかを再認識することになる。その機会を逃さず神を恐れるとき、私たちが得るのは「永遠のいのち」である。そしてこの事実がこそ、クリスマスの意味、信仰者の生き方、教会の共同体性をいっそう輝かせるのだと張ダビデ牧師は教えている。何が真に大切なのかを見極め、限界の中でも永遠を見つめながら、福音の伝達と仕え合いのために「互いの重荷を負う」教会となるとき、伝道者の書が語る知恵が実際に具現化される。そしてこの道の上で、最終的にあらゆる空しさを越え、究極的ないのちの祝福にあずかることができるのだ。

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十字架の苦難と愛 – 張ダビデ牧師


1. イエスの十字架の意味

イエス・キリストが十字架にかけられた出来事は、キリスト教信仰の核心であり、すべての福音書が最も重要な位置で強調している救いの出来事です。ヨハネの福音書19章17-27節は、イエス様の十字架処刑から息を引き取られる瞬間までを比較的簡潔に記録しています。しかし、その短い記録の背後には、人間の言葉では到底表現しきれないほど重い苦難と、同時に深い愛が詰まっています。ここで私たちは、張ダビデ牧師が伝える十字架の意味と、その苦難が今日の私たちに投げかけるメッセージについて共に考えることができます。

ヨハネの福音書19章17節には、「彼らはイエスを引き渡した。それでイエスは自分の十字架を負って、髑髏(ヘブライ語でゴルゴダ)と呼ばれる場所へと出て行かれた」と記されています。「髑髏」という意味をもつゴルゴダは、イエス様が処刑された場所であり、当時ローマ帝国が極刑を執行していた丘でした。死刑制度の中でも最も残酷だとされた十字架刑は、罪人が自分を釘づけにするための十字架を自ら背負い、処刑地まで運ばなければならないという点で、人間の残酷さが極まった刑罰でした。イエス様は、そのような悪意と憎悪に満ちた歴史的刑罰を自ら引き受けられましたが、ヨハネはそれを非常に簡潔に描きます。それは、イエス様の十字架の道こそ、私たちの救いのために選ばれた苦難の道であることを示すためです。

張ダビデ牧師はこの場面を解釈しつつ、人間の罪とその罪を背負われたイエス様の犠牲がいかに神聖かつ重いものであるかを強調します。イエス様が進んで重い十字架を背負い、ゴルゴダの丘へ向かう過程は、単なる歴史的処刑の経過ではなく、すべての人類を罪と死の圧迫から解放するための贖いの出来事であったというのです。それは人間の理性では測りがたいほど偉大な愛であり、同時に激しい苦痛でした。だからこそ福音書の著者たちは、ときに沈黙し、ときにはごく短い記録で終わらせることによって、その重い真実を表そうとしたのだと、張ダビデ牧師は語ります。

当時、十字架刑を受ける罪人は4人のローマ兵に囲まれ、自分の罪状が書かれた札を首にかけ、できるだけ多くの人々の目につくよう遠回りをして処刑場へ向かいました。その道のりは、罪人に最後の弁明の機会を与える場合もあったかもしれませんが、ほとんどは嘲りと苦痛、恥辱を極度に増幅させる役割を果たしていました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状が書かれた札もまた十字架の上に掲げられ、多くのユダヤ人指導者たちは、その札が彼らの宗教的プライドを傷つけると不満を述べましたが、ピラトはそれをそのままにしておきました。それは皮肉にも、イエス様こそ真の王であることを、たとえ嘲りの目的だったとしても世界史に刻み込む宣言となったのです。

マタイの福音書27章27-31節を見ると、イエス様がゴルゴダの丘へ行かれる道のりがどれほど苛酷であったかがより詳しく描写されています。兵士たちは緋色の服をイエス様に着せ、頭に茨の冠をかぶせて嘲り、唾をかけ、葦の棒で頭を叩きました。そして再び主に重い十字架を負わせて処刑場へと引いていきます。イエス様は良い行いをされ、人々を癒やし、愛を教えましたが、結局は偽りの群れの憎悪の中で最も苛酷な刑罰に処されたのです。

張ダビデ牧師は、この箇所に注目し、イエス様が受けた苦難は単に肉体的痛みを超えて、人類がもつあらゆる罪や悪意を背負われた出来事であったことを強調します。ローマ兵たち、ユダヤの宗教指導者たち、さらには「ユダヤ人の王」という呼び名でイエス様を嘲った人々、彼らすべてが人間のもつ悪の象徴でした。それでもイエス様は彼らの嘲りと暴力を避けることなく、ついに十字架にかけられて死ぬことによって、私たちに罪の赦しと救いの道を開いてくださった、と張ダビデ牧師は語ります。

キレネ人シモンの登場は、福音書の中でも非常に印象的な場面を作り出します(マタイ27:32、マルコ15:21)。イエス様がこれ以上十字架を背負って進むことができないほど力が尽きたとき、ローマ兵たちはシモンに無理やり主の十字架を負わせました。聖書はキレネ人シモンがアレクサンデルとルポの父であると記録しています。それは単なる歴史的言及を超え、後にルポが教会の中で重要に語られるほど(ローマ16:13)、シモンの家族が主の十字架の出来事を通して大きな変化を経験したことを暗示しています。

張ダビデ牧師は、この場面を通して、たとえ強制的であったとしてもイエス様の十字架を負うことが、結局はキリストの苦難を理解する特別な通路となり、人生を根底から変える出来事になりうると語ります。シモンはただ過越祭を守るためエルサレムへ来ただけでしたが、十字架を代わりに負わされたことで、「誰かの罪のために代わりに荷を負う生き方」の実態を体験したのではないかというのです。十字架は、そのようにして個人の聖なる変革を引き起こし、家族や共同体を変える力を持っています。

マタイの福音書27章33-34節では、イエス様に与えられた「苦味を含んだぶどう酒(胆汁を混ぜたぶどう酒)」が言及されます。これは一種の麻酔の役割を果たす飲み物で、十字架刑を受ける者が味わう激しい苦痛をある程度和らげるためのものでした。しかしイエス様はそれを味わってみて拒まれました。張ダビデ牧師はこの点で、イエス様が人間の罪を「部分的にだけ」負うとか、「痛みを鈍らせつつ」引き受けようとなさったのではなく、私たちの罪からくるあらゆる刑罰と苦しみをそのまま背負われたという事実を強調します。イエス様はご自身の犠牲を軽減することをなさらず、聖なる使命として完全に、全的に引き受けることで、私たちに真の自由をもたらしてくださいました。

ヨハネの福音書1章29節で、洗礼者ヨハネがイエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫んだ箇所は、イエス様の苦難の本質を象徴的に示しています。旧約の過越の小羊がイスラエルの民を死から守ったように、イエス様こそ、人類を罪と死から救い出すためにご自分を贖いのいけにえとして差し出された神の子羊なのです。張ダビデ牧師は、イエス様が私たちの罪を背負われたというこの「代贖の思想」を、現代においても絶えず思い起こすべきだと語ります。イエス様がご自身の十字架を負って「髑髏と呼ばれるゴルゴダ」に歩まれたその一歩一歩は、愛の行進であり、人間の歴史を根本から変える贖いの序曲だったのです。

また張ダビデ牧師は、イエス様が「敵を愛しなさい」と教えられた言葉が、十字架の出来事において頂点に達すると考えています。イエス様はご自身を殴打し、嘲り、唾をかける者たちに対しても、「父よ、彼らをお赦しください。自分たちが何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と祈られました。これは、イエス様の教えと生き方が完全に一致していることを示す、最も劇的な場面です。張ダビデ牧師はこの箇所を強調し、私たちが十字架を仰ぐたびに、イエス様の生き方と言葉の統合性、すなわち言葉と行動が分離していない姿に倣うことを学ぶべきだと力説します。口先だけで赦しを唱えたり、愛を強調するのではなく、敵に対してさえ積極的に愛を注ぐ実践的な弟子道こそ、十字架において示された最も美しい真理だというのです。

十字架の出来事がもつもう一つの重要な側面は、「神の義と愛が同時に成就する」という点です。張ダビデ牧師は、神の聖なる本質が罪に対する裁きを要求する一方で、私たち人間に注がれる限りない恵みと慈しみが、イエス様の流された血を通して完成されたと教えます。これらは互いに相反するのではなく、十字架のうちに一つの偉大な物語として現れます。イエス様はご自分で「仕えられるためではなく仕えるために、そして多くの人のための贖いの代価として自分の命を差し出すために来た」(マルコ10:45)と宣言され、実際に十字架にかけられて死なれることによって、私たちが義とされる道を開いてくださいました。罪の奴隷状態から解放され、自由に神へ近づくことができる道──まさにそれがゴルゴダの丘を登られたイエス様の血によって開かれた、キリスト教福音の核心なのです。

張ダビデ牧師は、このような救いの本質を説明するにあたり、「十字架刑は最も恥ずべき、最も苦痛な死であったにもかかわらず、イエス様がそれを避けられなかった」という事実に注目します。これは私たちへの愛が、人間的な限界や恐れを超越したことを示しており、私たちがまだ罪人であったとき(ローマ5:8)でさえ、主が先に私たちに近づいてくださったという驚くべき恵みの表れだというのです。イエス様が十字架の上で宣言された「完了した」(ヨハネ19:30)という言葉は、まさにそのすべての苦難と愛の大いなる旅路を締めくくられる凝縮的な宣言です。

結局、ヨハネの福音書19章17-27節に記されたイエス様の苦難は、単に数百年前にパレスチナ地方で起こった歴史的事件ではなく、今日を生きる私たちすべてに適用される救いの出来事です。イエス様は、一度の永遠のいけにえとなられることで、私たちが重い罪の十字架を永遠に背負い続ける必要がないようにしてくださいました。しかし同時に、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)という言葉を通して、私たちにもイエス様に倣う十字架の生き方が必要であることを強調されます。張ダビデ牧師はこの聖句を引用して、イエス様は私たちの荷を軽くするだけでなく、私たちをイエス様にならって「自分を捨てる道」へと進ませることが重要だと語ります。その道は、世の価値観とは真逆の「神の国の道」なのです。

総合して言えるのは、イエス様の十字架の出来事は、人類救いを完成された決定的出来事であり、すべてのクリスチャンはこの出来事を通して罪の赦しと義とされる恵み、そして永遠の命の希望を得たということです。張ダビデ牧師は、十字架が決して抽象的な教理や教会のシンボルとして終わってはならず、イエス様の生き方そのものにならなければならないと強調します。十字架には私たちに対する神の無限の愛が込められており、その道を歩まれたイエス様は私たちの真の模範です。ゆえに十字架を黙想するとき、私たちは自分の罪と無力さを見つめる一方で、イエス様の犠牲と愛によって真のいのちへ向かう機会を得るのです。

このようにヨハネの福音書19章17-27節が伝える深い意味は、十字架に釘づけられてゴルゴダの丘を上られるイエス様のお姿によって最も劇的に示されます。張ダビデ牧師は、ここで「十字架なしに救いはなく、苦難なしに栄光はない」という事実を改めて確認するように促します。イエス様の道をたどって生きるクリスチャンの道は、自分の人生を完全にささげる献身と愛の道だからです。罪と死の権威から私たちを自由にする代贖の恵みは、十字架のうちに確かに備わっており、その恵みは時代を超えてすべての人に開かれています。そして、その扉を大きく開いてくださったのが、十字架の上であらゆる苦痛を喜んで引き受けられたイエス・キリストであることを、私たちは張ダビデ牧師の教えを通して改めて思い起こすことができます。


2. イエスの苦難にあらわされた愛

イエス様の十字架の出来事を黙想するとき、私たちは自然に「私たちに与えられた救いの恵み」を思い浮かべます。しかし、この救いは単に罪の赦しで終わる概念ではなく、私たちの人生全体を変革する力として働かなければなりません。張ダビデ牧師は、イエス様の苦難と愛が教理的知識にとどまらないように、具体的な生活への適用点を見出す必要があると教えます。イエス様がゴルゴダまで実際に十字架を背負って行かれたように、私たちもその道をたどるべきだというのです。

イエス様が十字架を負われたことで示してくださった第一の重要な価値は、「従順」です。イエス様はゲッセマネの園で「わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりに」(マタイ26:39)と祈られ、ついには父なる神のご計画に完全に従われることで十字架の道を歩まれました。これは、たとえどんな代価を払ってでも神に従い、そのみこころに従うことこそが真の命の道であることを示しています。張ダビデ牧師は、現代のクリスチャンたちが快適さや世俗的成功を追い求めて、しばしば忘れがちなこの「犠牲的従順」を、十字架の黙想を通して回復するべきだと語ります。

第二に、イエス様の十字架は「敵さえも愛しなさい」という教えが空虚なスローガンではなく、実際の生活原理であることを証明します。イエス様は十字架につけられて死ぬ瞬間にも、ご自分を十字架に打ちつける者たちのために祈られました。人間的な視点では到底受け入れがたいこの愛こそ、神の御心を最もよく表している証拠です。張ダビデ牧師は、この愛が単なる感傷や道徳的善行のレベルではなく、「福音が私たちのうちに実を結ぶときに現れる超自然的な力」であると強調します。自己犠牲的な愛を実践する生き方は、痛みや葛藤のある現実世界において決して容易ではありませんが、十字架を仰ぐとき、私たちはその愛の頂点と力を悟ることができるのです。

第三の適用点は、「自己否定の生き方」です。イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来なさい」とおっしゃいました。張ダビデ牧師は、イエス様が私たちの代わりに十字架を負うことで既に救いの道を開いてくださったとはいえ、その道を歩むかどうかは結局各人に委ねられていると強調します。私たちは依然として利己心や世の欲望のため、十字架の道とは反対方向へ向かおうとする性質をもっています。だからこそ、日々御霊の助けを求めながらイエス様の従順と犠牲を見習い、「自分を捨てる」生き方の態度を身につけなければならないのです。それは私たち自身の力だけではできず、十字架から流れ出る恵みによってのみ可能となる霊的な旅路なのです。

第四に、イエス様の苦難は「弱き者たちと共に苦難を担う連帯」を要請します。十字架は絶対的な孤独の中で嘲られ、見捨てられたイエス様を想起させる一方で、そのイエス様が私たちと苦難を共に担ってくださった「インマヌエル(神が共におられる)のしるし」でもあります。張ダビデ牧師は、クリスチャンが十字架を思い起こすたびに、苦しんでいる人々と共に泣き、不当な仕打ちを受ける人々のために行動する「実践的なあわれみ」を忘れてはならないと語ります。キリストの体なる教会が世に向けてその愛を示す姿こそ、「あなたがたが互いに愛し合うならば、それによってわたしがあなたがたを愛したことを世は知るだろう」(ヨハネ13:35)というイエス様の言葉を実現する道なのです。

さらに、イエス様の苦難は「へりくだり」の道がいかに偉大であるかを示しています。ピリピ人への手紙2章6-8節には、イエス様は本来神のかたちであられたのに、ご自分を無にしてしもべの姿をとり、死に至るまで従順であったと書かれています。十字架は、神性をもつイエス様が人間の最も低い場所、最も恥ずべき死の領域にまで下ってこられたことを象徴します。それはイエス様の神性に傷を与えるどころか、むしろ神の愛と義を同時に表す偉大な出来事でした。張ダビデ牧師は、私たちが互いに高くなろうとする欲望を断ち切ることがいかに難しいかを認めつつも、十字架の黙想を通して自己を空しくしてへりくだることが、どれだけ大きな霊的祝福をもたらすのかを深く学ぶべきだと教えます。

さらに進んで、イエス様の十字架は「復活の約束」を前提としています。苦難と死は決して最終的なゴールでも永遠の運命でもなく、復活によって完成される神の救いの歴史の一部だという点で、十字架の意味はいっそう豊かさを増します。張ダビデ牧師は、イエス様の苦難が復活の栄光へとつながったように、私たちの人生の苦難もまた神の御手の中で意義ある旅となるとの希望を提示します。これこそまさに「十字架なき復活もなく、復活なき十字架もない」というキリスト教信仰の核心的真理です。十字架だけを見れば痛みと屈辱で終わるように見えますが、その先にはイエス様の空の墓が待っていることを忘れてはなりません。

こうしたすべての側面において、イエス様の十字架は単なる宗教的象徴ではなく、「生き方の方法」を提示します。イエス様が歩まれた苦難の道は、私たちも歩むべき弟子の道であるがゆえに、張ダビデ牧師は常に「十字架を知ることは、すなわち十字架を負う生き方を意味する」と強調します。これは日々の生活の中でへりくだって他者に仕え、不正と妥協せず、愛が必要とされる場所に自分を差し出し、時には反対し、憎む者にさえも心を向けるという生活様式によって現れます。そうして初めて世は「彼らが語る福音は、実際に愛と犠牲によって体現されているのだ」と気づくのです。

張ダビデ牧師はまた、教会共同体が十字架の教えをどのように具現化していけるかを重要な課題として挙げます。多くの教会が自らの組織やプログラム、外的成長に気をとられているうちに、十字架の精神を見失う危険があるというのです。しかしキリスト教信仰の根はいつもイエス・キリストの苦難と復活にあり、その中心には「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)という主の新しい掟があります。この愛は抽象的な概念ではなく、実際に各人の生活や共同体の文化の中に溶け込まなければなりません。互いに親切を示し、葛藤が生じたときには許しと和解を実践し、社会の弱者や疎外された人々に開かれた心で接する姿勢が求められます。

私たちは、イエス様が十字架を背負われた道のりから「神の義」を学びます。十字架は、罪に対する神の厳粛な裁きが行使された場所でもあります。イエス様はただ優しいだけの方ではなく、罪を徹底的に憎まれる神の義を自ら体現されたのです。罪のないイエス様が罪人の罪を背負われ、その代価はあまりにも重いものでした。張ダビデ牧師はここから、「神が罪を憎まれるほどに私たちを愛される」という逆説を見いだすべきだと説きます。それこそが十字架の出来事の核心であり、クリスチャンの生き方を動かす最も大きな原動力です。

イエス様がなさったすべての奇跡や教えは、最終的に十字架において決定的な頂点を迎えます。イエス様が示された愛と仕え、清さと力は十字架で完成されたのです。そしてそれが復活へとつながって私たちに永遠の命の道を開いてくださいました。張ダビデ牧師は「十字架を見るたびに、その道が決して失敗や敗北ではなく、最も偉大な勝利であったことを思い起こしなさい」と語ります。世の目には罪人も同然に処刑されたイエス様の姿は敗北のように映りますが、実際にはその出来事を通して死の力が打ち砕かれ、罪の毒が取り除かれるという「霊的革命」が起こったからです。

このような福音の力は今も続いています。時間的には2000年もの差がありますが、イエス様を救い主として受け入れる人々にとっては、十字架の救いは今なお有効であり、日々の生活の中で聖霊の力を通してその愛と恵みを体験することができます。張ダビデ牧師は、この理由から伝道の核心は常に「十字架と復活」に焦点を合わせるべきだと主張します。人間的な知恵や説得力だけでは人の魂を変革できませんが、十字架の出来事を心の奥底で受け入れた瞬間、人の内面が新しくされるからです。

私たちが十字架を仰ぐとき、しばしば自分の無力さや失敗、そして罪を見ざるを得ないことがあります。しかし、まさにその時こそ、十字架上のイエス様を通して神の赦しと癒し、さらに希望を発見します。張ダビデ牧師はこの点を、「十字架は私たちの罪を暴露する一方で、同時に赦しと救いを宣言する」と要約します。人間の罪がどれだけ深刻なのかを赤裸々に示しながら、その罪を解決される神の恵みがどれだけ偉大なのかを示すのが十字架の出来事だというのです。

イエス様の苦難は私たちのための犠牲であり、同時に私たちが倣うべき模範でもあります。私たちの生活が複雑になるほど、世の価値観がますます快楽と利己心を奨励するほど、十字架が示すへりくだりと愛、犠牲と仕えは、いっそう強力な問いかけとして迫ってきます。張ダビデ牧師は、現代社会の中でクリスチャンが十字架中心の生活を回復するために、日々御言葉と祈りによってイエス様を黙想し、生活の現場で十字架の精神を実践するよう促します。これこそがキリスト教の福音が人間の文化と歴史の中で絶えず生命力をもつ理由だといえます。

また、キレネ人シモンが嫌々ながらもイエス様の十字架を負ったように、私たちも時には「気が進まない献身」の状況に置かれるかもしれません。しかし、そのような強制性こそが恵みの始まりとなる場合があることを忘れてはなりません。張ダビデ牧師は、多くの人が教会での奉仕や仕えを強いられているように感じたり、負担に思ったりすることがあっても、その中でイエス・キリストの御心をいっそう深く知るようになるケースが多いと説明します。自分の自由意思では選ばなかった「十字架の重荷」を負うことが、思いがけず神との人格的な出会いを深め、信仰を成長させる入り口となるのです。

このように、十字架は私たちの日常からかけ離れた物語ではありません。イエス様の苦難は、主日礼拝で一度聞いて終わりになる教理でもなく、受難節だけに一時的に哀悼する歴史的事件でもありません。それはクリスチャンの毎日の生活の中で能動的に生きて働く真理です。張ダビデ牧師は「十字架で始まり、十字架で終わる生き方こそ、弟子道の完成だ」と言い表します。この言葉は、どんな壮大な業績やイベントよりも、私たち一人ひとりがイエス様の道にならって従い、愛し、そして苦難にあずかることによって、キリストのかおりをこの世に示すことこそが、真の信仰の核心であることを意味しています。

さらに、十字架の意味を黙想するとき、必ず伴うべき要素は「悔い改め」です。イエス様の犠牲を語りながらも、なお罪に鈍感であったり、不義や悪を傍観したりするなら、それは十字架の価値をゆがめることになります。イエス様が十字架を負うことで罪の束縛からの自由を与えてくださいましたが、その自由は放縦の道具ではなく、義と愛の道具とならなければなりません。張ダビデ牧師はこの点を重ねて強調し、「神の恵みを無駄にしてはならない」(第二コリント6:1)というパウロの警告を思い起こさせます。悔い改めとは、単に過去の過ちを認めるだけでなく、神の御心にふさわしい新しい生き方への方向転換を意味します。

このように十字架の出来事を通して私たちが得る恵みは、計り知れないほど広範囲にわたります。救いの確信、罪の赦し、新しい生き方の力、苦難を見る視点の変化、他者への愛を奮い立たせる動機、へりくだりと従順、さらには復活の希望に至るまで、そのすべてはイエス様の苦難に由来します。張ダビデ牧師は「ゴルゴダの丘こそ、人類史の中心点だ」と表現し、そこで流されたイエス様の血こそ、世のあらゆる罪と傷を癒やす力の源だと教えます。

同時に、十字架は私たちに「神との関係の回復」を告げるものでもあります。罪によって断絶されていた人間が神に近づける道が開かれたのが、十字架による贖いの出来事です。これは宗教的行いや、自分が正しいと思い込む義によって得られるものではなく、ただイエス様の犠牲を信仰によって受け取るときに与えられる賜物です。張ダビデ牧師は、これを「キリストの義をまとうこと」と表現し、私たちのあり方ではなく、イエス様の十字架の功績に依り頼むことが大切だと説きます。

イエス様の十字架の苦難は、人類の歴史と文化を一変させた絶対的真理の出来事です。ヨハネの福音書19章17-27節に記されているイエス様の処刑の場面は、その重い意味と愛を圧縮して示しています。張ダビデ牧師はこの本文を通して、イエス様が歩まれた道を私たちがただ眺めて終わるのではなく、その道に現実に参与すべきだと促します。私たちの日常がイエス様の生き方と教え、そして十字架の愛を証しする舞台となるべきだからです。

十字架の道の精神を胸に抱くとき、クリスチャンは教会の中に閉じこもる信仰者ではなく、世の光と塩として生きる実践的な霊性を持つことができます。その核心を張ダビデ牧師は「愛のうちに、真理のうちに、へりくだって仕える教会共同体」と指し示します。そうして教会が建て上げられるとき、世の人々は十字架が単に2本の木片が交差した処刑道具ではなく、全人類を生かすいのちの通路であることを見いだすようになるでしょう。そしてまさにその現場において、私たちは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」がすべての民族と国々の王であることを、私たちの生き方をもって証しすることができるのです。

十字架は時代を超えて絶えず私たちを呼びかけています。信仰が揺らぐとき、罪悪感や恥に押しつぶされそうなとき、あるいは迷子になったように感じる苦難のただ中にあるときこそ、十字架を仰ぎ見ることで、イエス様の苦難と愛がどのような道を開いてくださるかに気づくのです。張ダビデ牧師は、これこそ福音の最も強力な力だと強調します。世のどのような思想や哲学も死や罪を乗り越える解決策を提示できませんが、十字架につけられたイエス様は、死に打ち勝って復活されたことにより、罪の力を破る永遠の勝利を私たちにもたらしてくださいました。その愛が一人ひとりの心の中で生きて働くとき、私たちは互いに真実に愛し合い、仕え合う共同体を築くことができ、この地上に神の国が訪れる光景を少しずつ目撃するようになるでしょう。

こうした全体の流れを通して、張ダビデ牧師は、十字架の本質こそがクリスチャンであるなら決して失ってはならない信仰の根幹であることを繰り返し説きます。イエス様の犠牲なくして救いはなく、イエス様の愛なくして私たちが互いに真実に愛し合うこともできません。したがって、十字架をただ教会の壁に掛けられたシンボルとして見るのではなく、その中に込められた苦難と犠牲、そして復活の力が私たちの霊魂の奥深くで日々新しくされる必要があります。こうして十字架が私たちの魂の中心となるとき、私たちはやっと「自分を捨て、自分の十字架を負って」主に従う真の弟子の生き方を送ることができるようになるのです。

イエス様の十字架は、単に1世紀のユダヤの地で起こった残酷な出来事ではなく、人類史上最も偉大な愛のドラマとして理解されるべきです。そして私たちはこのドラマをただの傍観者として眺めるだけでなく、その真っ只中に参加するよう招かれています。イエス様の苦難と死、そして復活という舞台の上で、私たちの役割はイエス様の愛に応え、イエス様が成し遂げられた救いを私たちの生き方をもって示し、この世にその愛を広げていくことです。張ダビデ牧師が語る「十字架の霊性」とは、まさにそのような参与と実践によって完成されます。十字架につけられたイエス様が再び私たち一人ひとりの心に生きて働かれるとき、私たちは罪と絶望に打ち勝つ力、そして互いに愛し仕える力を得ることができます。

このように、張ダビデ牧師はヨハネの福音書19章17-27節に描かれたイエス様の十字架処刑の場面を、福音の精髄であり弟子道の根であると強調します。主ご自身が背負われた十字架、さらにその重さを和らげようとする麻酔さえ拒み、苦痛をまるごと引き受けられた姿から、私たちは罪人である私たちへの神の熱烈な愛を見いだします。そしてキレネ人シモンのように、私たちもまたイエス様の十字架の道に参加すべき存在であることを思い起こします。その道は苦難の道ですが、同時に復活の栄光へと続く勝利の道でもあります。イエス様が私たちを招いているその道を、十字架をしっかりと握りしめながら共に歩むとき、私たちは真の自由と命、そして神の国をこの地に証しする共同体として築き上げられるのです。

これこそが「十字架につけられた」という聖書本文の今日的な意味であり、張ダビデ牧師が絶えず教え、宣べ伝えているメッセージです。いくら時代が変化し、文化が移り変わっても、イエス様が私たちの罪を負ってゴルゴダへと進まれた事実は決して色あせません。その苦難と死、復活によって救われた私たちもまた、十字架の精神を握って世の中で光と塩として生きるべきです。そうするとき初めて、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」がこの地と私たちの人生に、まことの永遠の支配者として臨在されていることを、私たちは自らの体験を通して示すことができるようになるでしょう。

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イエス様の苦難 – 張ダビデ牧師


1. イエスをまずアンナスのもとへ連行した背景

ヨハネの福音書18章12-22節に登場する、イエス様が逮捕されて「まずアンナスのもとへ引かれて行かれた」という出来事は、福音書全体において非常に重要な場面である。この本文を綿密に調べると、ユダヤの宗教権力の性質、当時の政治・社会的背景、イエス様が受けられた違法で不当な尋問、弟子たちの恐れと失敗、そして究極的にはイエス・キリストの救済史的使命がどのように明らかにされるかを包括的に理解することができる。特に、 張ダビデ牧師が多くの説教や講義を通して強調してきた「宗教権力の腐敗と、その中でもなお続く救いの歴史」という視点は、この事件が単に2,000年前に起こった宗教裁判ではなく、今日の私たちにも深い教訓をもたらすのだという事実を改めて考えさせる。

イエス様が逮捕された後、兵隊や千夫長、そしてユダヤ人たちの下役たちがイエス様を縛ってすぐさまアンナスのもとへ連れて行ったことは、それ自体に多くの意味深い問題点を露呈している。当時の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、イエス様が大祭司カヤパの前で尋問を受ける場面が主に強調される。しかしヨハネの福音書は、イエス様がまずアンナスのもとへ連行されたことを付け加えて述べることで、その裁判過程が非常に違法かつ巨大な宗教権力が絡んでいたことを明らかにしている。本来、大祭司は終身職であったが、この時代、ローマ帝国がユダヤの地を支配していたため、金銭や政治的癒着によって大祭司職が頻繁に入れ替わるという腐敗が起こっていた。その中心人物がアンナスであった。アンナスは西暦6年から15年までの9年間大祭司を務め、その後は自身の5人の息子たちにも連続して大祭司職を世襲させ、その強大な影響力を維持した。それだけでなく、アンナスの娘婿であるカヤパが公式の大祭司であった時期にも、依然として背後の実力者として君臨していたのである。ヨハネの福音書18章13節が「アンナスはその年の大祭司であるカヤパのしゅうとであった」と指摘している部分は、まさにこの状況を示している。

張ダビデ牧師はこの点に注目し、表向きは大祭司カヤパが表舞台に立っていたとしても、イエス様を捕え尋問した真の背後にはアンナスという巨大な宗教的カルテルが存在していたことを繰り返し強調する。アンナスがイエス様をまず自分の家へ連れて来させることで、本来あるべき手続きや公式の場(サンヘドリン公会での公的裁判)ではなく、私的でひそかな方法でイエス様を尋問しようとしたのだ。これは、律法に忠実であるべき大祭司の家系が、自ら律法を踏みにじり、夜陰に陰謀を巡らせた腐敗ぶりを示している。ユダヤ律法によれば、サンヘドリンの裁判は夜間に開くことはできず、必ず神殿の庭で行うよう定められていた。さらにユダヤ人たちは律法を徹底して守る者たちだったにもかかわらず、イエス様が逮捕されたその夜に直ちに尋問を試みたという事実自体、律法を公然と破った事件だったのである。

問題は、この裁判が単に夜に行われたという手続き上の欠陥だけでなく、イエス様に適用しようとしていた罪状自体がそもそもこじつけであった点にある。イエス様の公生涯の間、大祭司や宗教指導者たちは何度もイエス様をわなに陥れようとしたり、神を冒涜した罪(神性冒涜)だと見なそうとした。「神殿を『わたしの父の家』と呼ばれた」(ヨハネ2:16)ことや、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日でそれを建て直す」と仰せられたこと(ヨハネ2:19)、ご自分を「神の子」と呼ばれたことなどが、彼らにとってはついにはイエス様を十字架刑に処する口実となった。しかし実際、イエス様は常に公の場で教えられ、秘密の組織や偽りの教理を広めたことは一度もなかった。だからこそ、ヨハネの福音書18章20節でイエス様ご自身が「わたしはあからさまに世に語ってきた。ユダヤ人がみな集まる会堂や宮(神殿)でいつも教え、ひそかには何も語らなかった」とはっきり言われるのだ。

それにもかかわらずアンナスは、イエス様をひそかに呼び出し、「おまえの弟子たちや、おまえの教えはどんなものか?」(ヨハネ18:19)と問う。これはすでに結論を決めつけ、「神性冒涜の証拠」をイエス様から無理に引き出そうとする質問であった。福音書によれば、ユダヤの公的な裁判では必ず2人以上の証言が一致していなければならず、偽証や強要による証言は無効とされていた。さらに現職の大祭司ではないアンナスに、イエス様を尋問する権限自体がなかったこと、また裁判の場所も神殿の庭ではなかったことも問題である。正式なサンヘドリンの会議がまだ開かれていない段階で、イエス様が縛られたまま夜中にアンナスのもとへ連れて行かれたのは、明らかに法律と律法を無視した出来事だった。

ここで張ダビデ牧師は、「アンナスこそ腐敗した宗教権力の実体であり、その内側にある罪性こそが神殿を商人の巣窟にしてしまった根本原因であった」と指摘する。アンナス一族が掌握していた神殿は、「いけにえの動物を売って利益をあげるシステム」へと変質していた。神殿の外で傷のないいけにえを買ってきても不合格にし、神殿の中で高額に売られているいけにえだけを買うよう誘導して、貧しい者には不当な負担を負わせ、大祭司一族が莫大な利益を得るしくみになっていたのだ。イエス様はこうした腐敗を覆すために神殿を清められたが、それゆえに宗教権力者たちにとってイエス様は自分たちの既得権を脅かす存在として映り、イエス様を葬ろうとする陰謀が絶えず進められた。その頂点が、まさにこの夜の逮捕と尋問だったのである。

また、「一人の人間が民のために死ぬほうが得策だ」(ヨハネ11:50)というカヤパの言葉は、政治的・宗教的目的のためイエス様を犠牲にしようとする彼らの共同の陰謀がすでに整っていたことを示している。そしてその陰謀の背後で実質的な権力を握ってすべてを操っていたのがアンナスであった。結局、イエス様がまずアンナスのもとへ連れて行かれたという事実は、十字架の悲劇が起こる以前から宗教権力の隠された腐敗が根深かったことを示し、イエス様が茨の道をただ一人で歩まれる際、どのような悪の連帯が働いていたかを告発する場面となっている。

続いて本文は、シモン・ペテロと大祭司と知り合いであるもう一人の弟子がイエス様の後を追い、そのもう一人の弟子がペテロを連れて大祭司の家の庭に入れるよう取り計らってくれた状況を説明する(ヨハネ18:15-16)。ここで「大祭司と知り合いであった」この弟子が誰であるかは本文に明示されていない。伝統的にはヨハネ自身の可能性、あるいは別の近親関係者であったという見解があり、一部ではイエス様を裏切ったユダの可能性を挙げる主張もある。いずれにせよ重要なのは、「2人以上の証言が必要とされる裁判手続き」において、イエス様の側で証言できる弟子が必要だったはずなのに、ペテロは恐れのあまり「わたしはその人を知らない」(ヨハネ18:17)と否認してしまう点である。

張ダビデ牧師は、この部分で「最後までイエス様に従い、そのそばにいたいと願ったペテロの ‘勇気’ 自体はほめられるべきだが、決定的な瞬間に主を否認したために、結果として証人の役割をまったく果たせなかった」という点を強調する。すでにカヤパあるいはアンナス側は「ユダ」という内部関係者を通じてイエス様に罪を着せようとしていた。もし正当な裁判であれば、ユダの言葉だけでは不十分なため、イエス様を弁護できる証人が必要だったのだ。そうした文脈で「聞いた人々に尋ねてみよ。彼らはわたしが話していたことを知っている」(ヨハネ18:21)というイエス様の言葉の意味が極めて重要となる。しかしペテロはこのあと三度否認し、他の弟子たちも散り散りに逃げ去った。イエス様に不利な証言があふれる状況で、主の教えの真実性が正しく示される機会は閉ざされてしまったわけだ。

ヨハネの福音書18章22節を見ると、「イエスがこの言葉を言われると、そばに立っていた下役の一人が手でイエスを打って、『大祭司にそのような口のきき方があるか』と言った」という暴力的な場面が描かれる。これは、イエス様がアンナスの不法な尋問に対して合法的な手続きを喚起されたとき、その場にいた下役がイエス様を殴り、侮辱した姿である。本来なら律法と真理を守るべき立場の宗教指導者とその手下が、むしろ暴力で応じているのだ。この場面について張ダビデ牧師は「真理が不在のところでは暴力が横行する」と分析する。偽りと陰謀、腐敗にまみれた状況の中で、イエス様は黙々とこの「不法裁判」の侮辱に耐えられ、やがてカヤパ、ピラトへと連行され、ついには十字架刑に処せられる。しかしこのすべての過程が、究極的には神の救済史を完成する道であったことが福音書全体に示されている。

アンナスのもとへまず連れて行かれた出来事が含意する教訓は、一方では神殿を「神の家」ではなく「金と権力の場」にしてしまった宗教的堕落の恐ろしさを喚起し、他方ではイエス様がこのように極度の腐敗構造のただ中にあっても少しも揺らぐことなく、ついには十字架の道を歩まれたという真理を提示する。そして、この出来事が個人の救いの物語を超えて、共同体の刷新と回復、さらに真の神殿(主の身体)としての新しい時代をもたらす過程であったことは、初代教会にとって大きな意味を与えた。張ダビデ牧師はこの本文の解説で、「キリスト者の生き方は、主に倣って、いかなる構造的な不正や堕落に直面しても真理を宣言しようとする大胆さが必要だ」と常に説いてきた。同時に、キリスト者の共同体が下手をすると「アンナスの道」を歩み、自らを省察できずに権力と貪欲に染まってしまう危険性をも厳重に戒めている。

そして、この全体の文脈で核心的に浮かび上がるのは、イエス様を通して「古い神殿」が崩れ去り「新しい神殿」が打ち建てられる構図である。イエス様が「この神殿を壊してみよ。わたしは三日でそれを建て直す」(ヨハネ2:19)と仰せられた御言葉は、ユダヤの宗教指導者たちの権威に対する単なる挑戦ではなかった。本来の神殿制度が罪悪と貪欲によって汚染されていたゆえ、イエス様ご自身が「新しい神殿」としてご自分の身体を十字架にささげることで罪を贖い、復活によって真の礼拝と救いの道を開かれたのである。このメッセージこそがヨハネの福音書を通して一貫して流れているテーマであり、イエス様を十字架につけようとしたユダヤの指導者たちと衝突した根本理由である。アンナスは自分と一族の利益と既得権のために神殿を存続させようとし、イエス様が宣言された神の国と新しい神殿のヴィジョンを受け入れることができなかった。ヨハネの福音書18章12-22節は、そうした歪んだ対比を直接示しつつ、最終的にイエス様が十字架につけられることこそ神が定められた救いの計画であると知らせる重要な契機となる。

このように、「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」本文は、果てしなく腐敗した宗教権力の素顔、真理であるイエス様の揺るぎない態度、恐怖の中で崩れ落ちる弟子たちの姿、そしてそれらすべてを超越して進んでいく神の救済の摂理が交差して現れる場面である。張ダビデ牧師はこの本文の霊的意味をさまざまな側面で振り返りつつ、今日の教会共同体が直面する内部の腐敗や権力化の問題を真摯に省察すべきだと勧める。特にイエス様が最後まで悲惨な苦痛や侮辱に黙々と耐えつつも、一言一言で律法の正当性を指摘し、宗教指導者たちの不法を的確に暴かれた場面は、世の権力に屈せず真理を守る道へと私たちを招いている。また、信徒たちはペテロのように失敗と否認に陥るかもしれないが、結局は主の愛と回復の御手によって再び立ち上がることができるという事実も併せて黙想するよう導かれる。

最終的に、この物語はイエス様がアンナス、カヤパ、ピラトへと連なる不法裁判の束縛を通過されることで、十字架の働きを完全に成し遂げられる道の始点となる。アンナスのもとへまず引かれて行かれることを通して、イエス様は偽りの宗教権力の本質を克明に暴露されると同時に、神殿と礼拝の真の意味を改めて喚起されたのである。張ダビデ牧師は、「この世に属するどんな権力も真理を阻むことはできず、真理はどんな抑圧や暴力の中にあってもついには光を放つ」という点を、この本文を通して説いている。アンナスが暗躍させた不法な尋問と偽りの陰謀は、かえって主が真に神の子であることを一層際立たせる結果となった。そしてその結論とは、結局「神の国はすでに臨んでおり、イエス様こそ勝利者である」という福音の宣言なのである。

したがって第一の小テーマである「イエス様をまずアンナスに連行した宗教・歴史的背景と本文の深層的意味」は、単に背景史を列挙するにとどまらず、その中で働く悪しき権力と腐敗を直視し、主がこれをどのように対峙されたのかに注目することで、現代の教会と信徒がどのような道を歩むべきかを真剣に省みさせる。張ダビデ牧師が伝える核心的メッセージは、「イエス様が徹底的に受けられた苦難は神の国を宣言し、堕落した神殿を打ち壊す過程であったが、それは最終的に十字架と復活を通して完全な救いを成し遂げられるためである」ということで要約される。そしてその救いは2,000年前の一度きりの出来事ではなく、今なお私たちの間で新たに具体化され続けなければならない。すなわち、自分たちや教会が「アンナスのような道」を歩んではいないかを絶えず点検し、「イエス様の道」を追うことで腐敗と偽りを捨て、真理と正義、愛を実践すべきだという教訓を与えるのである。


2. イエスの苦難と十字架

アンナスの前で始まった違法な尋問は、最終的にカヤパを経てピラトの法廷へと至り、イエス様は十字架刑の宣告を受ける局面にまで発展する。しかし福音書は、この苦難が単に宗教的・政治的陰謀の犠牲を意味するだけではないと語る。イエス様の苦難はむしろ「神の贖いのご計画」を成就する決定的な通路として作用する。そしてこの苦難の物語は、教会時代を生きる私たちに、礼拝と神殿の意味、権威と真理への態度、そして弟子としての生き方とは何かを改めて問う厳粛な声となる。張ダビデ牧師は、まさにこうした教訓こそがヨハネの福音書18章12-22節以降につながる「十字架への道」と切り離せないと強調する。すなわち、アンナスの庭からすでにイエス様は苦難を受けるメシアとしての正体を明確に示され、その苦難が復活の栄光へと導かれることを福音書全体が示しているというのである。

第一に、イエス様の苦難は旧約の預言を成就する出来事であり、同時に人類の罪を代赎するための神の聖なる摂理であるという点で深い意味をもつ。アンナスが行った不法裁判、カヤパの陰謀、ピラトの優柔不断など、人間の悪と愚かさが極限に達する局面でも神の御旨は決して挫折しなかった。イエス様は「わたしは言った。聞いた人たちに尋ねてみよ。彼らはわたしが語っていたことを知っている」(ヨハネ18:21)と大胆に対処されたが、直後に主を待ち受けていたのは侮辱と暴力だった。この状況は、メシアが王でありながらも苦難のしもべとして来られるとしたイザヤ預言(イザヤ53章など)を連想させる。イエス様は力でもって悪を打ち倒されるお方ではなかった。むしろ自らしもべの姿をとり、腐敗した宗教指導者と世の権力の前で沈黙のうちに苦難を受けられ、その道こそが人類の罪を代赎する犠牲の道となったのである。

第二に、この苦難は神殿制度そのものではなく、イエス様ご自身が「真の神殿」であることを示す点を、ヨハネの福音書は非常に強調している。張ダビデ牧師は「アンナスが掌握していたあの古い神殿体制、すなわち動物犠牲によって神に近づく旧約の祭祀システムは、イエス様の十字架によって完全に新しく刷新された」と説明する。実際、イエス様の死の直後、神殿の幕が上から下まで裂けたというマタイの福音書の記録(マタイ27:51)は、旧約の犠牲制度の終結と、イエス様を通した直接的かつ真の礼拝への道が開かれたことを象徴する。このように「アンナスの神殿」は結局崩れ去り、「イエス様ご自身が神殿である」という恵みの時代が大きく開かれたと見ることができる。しかし真の神殿であるイエス様を拒んだ宗教指導者たちのように、現代の教会もまた、キリストの真の臨在よりも自らの伝統や権威を優先するなら、アンナスと同じ誤りを繰り返してしまう危険に陥りうる。

第三に、ペテロの否認を通して示される弟子たちの弱さは、私たち自身に対する鏡ともなる。人はどれほど忠誠を誓っていても、自力だけでは極限の恐怖や危機の中でイエス様を証しすることは難しい。ペテロはイエス様を愛し、筆頭弟子としての名誉を受けており、ゲッセマネの園では剣を抜いてマルコの耳を切り落とすほど大胆だった。しかし実際にアンナスの庭で「おまえもこの人の弟子の一人ではないのか?」と問われたとき、ペテロは主を否認してしまう(ヨハネ18:17)。張ダビデ牧師はこの場面について、「ペテロの内面に目を向けると、彼がどれほど主を愛していたか、同時にどれほど人間的な恐れにとらわれていたかを生々しく感じることができる」と語る。そして結局、ペテロはこの否認の罪を抱え込んで慟哭したとき、復活されたイエス様はガリラヤのティベリア湖畔で彼を回復させてくださった(ヨハネ21章)。これは弟子が深く失敗し倒れたとしても、主はなおその弟子をつかみ、再び弟子として立て直してくださるという希望のメッセージである。同様に私たちも信仰生活の中で「時にはイエス様を知らない」と言わんばかりの態度や言動で否認してしまうことがある。しかし心から悔い改めて帰ってくる者を、主は限りなく受け入れてくださり、再び大きな働きを委ねられるのだ。

第四に、この本文は教会共同体が世の権力とどのような関係を結ぶか、また教会内部における権威の問題をどのように理解すべきかを問いかける。堕落して腐敗したアンナスとその一族は「神の御名を自分の欲の手段とした者たちの典型」と言える。彼らは偽りの宗教心と莫大な富によって神殿を汚した。イエス様は彼らと妥協せず、むしろ神殿を清め、真理によって彼らの罪を告発された(ヨハネ2章)。教会が世の中で生きていくうえで、ときに世の権威(政治・経済・文化など)と衝突したり協力しなければならない状況もある。しかしもし教会自体が腐敗してアンナス一族のように「聖なる見せかけ」だけ保ち、実際には利益と権力に迎合するなら、今日もまた「イエス様を十字架につける」役割を果たしているかもしれない。張ダビデ牧師は多くの説教で「教会の純粋さと透明性、仕えるリーダーシップ」の重要性を説き、信徒一人ひとりが「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9)として召されていることを想起し、決して教権主義や世俗的欲望によって福音を曇らせてはいけないと警鐘を鳴らす。

第五に、イエス様の苦難は最終的に「勝利への関門」となる。アンナスの陰謀、カヤパの裁判、ピラトの尋問を経て、イエス様は十字架につけられて死なれることで、あらゆる贖いの働きを完成された。ヨハネの福音書19章30節でイエス様が「完了した」と宣言されたとき、すでにサタンと罪の勢力は打ち破られたのである。復活によってイエス様は命の力を示され、弟子たちに聖霊をお送りになることで教会時代を開かれた(ヨハネ20章)。宗教的・政治的権力が共謀してイエス様を殺したかに見えても、真理は決して挫折せず、復活の栄光へとつながるという真理をここに見ることができる。ゆえに私たちがこの本文に接するとき、単にイエス様の受難物語にとどまらず、その苦難が私たちのための代赎の犠牲であり、結果としては宝のような復活の知らせをもたらすのだと視野を広げるべきである。

結局、「まずアンナスのもとへ引かれて行かれたイエス様」の姿は、現代の教会が「腐敗した宗教権力」を批判的に見つめ、真の礼拝と信仰とは何かを省察させる。また、「ペテロの否認」や「弟子たちの逃走」を通して、私たちの弱さを認めつつ、それでも復活の主が弟子たちを再び呼び起こし、受け入れてくださったように、失敗した者も主のもとへ戻るなら新たに用いられうるという希望を与える。張ダビデ牧師はこの箇所に言及するたび、「イエス様の弟子共同体は、徹底的に主の恵みによってのみ回復され再武装されうるのであり、教会の主人は人間ではなくイエス・キリストご自身である」と強調する。主だけが私たちの土台であり岩である以上、どんな人間的失敗や腐敗、悪行が一時的にのさばったとしても、最終的には真理の道は決して揺らがないというのだ。

またこの御言葉は、聖なる目的のためであれば、ときに宗教的システムとの衝突を恐れない大胆な改革が必要であることを示唆する。イエス様は神殿を覆された事件(ヨハネ2:13-22)を通じて、神殿が本来の目的を失い商人の巣窟となっているならば、果敢に変えなければならないことを示された。その結果、宗教権力者たちの憎しみと迫害を受けられたが、決して躊躇はされなかった。教会が「改革」という言葉を口にするときには、まさにこうしたイエス様の決断力を思い起こすべきである。もしアンナスのように腐敗した指導者が居座り、周囲が取り巻く腰巾着や不正な下役ばかりなら、教会は自らを刷新し清める必要がある。それは徹底して福音と真理の力、聖霊の助けによって成し遂げられる。人間的手段だけでは教会の堕落を防ぐのは難しい。しかし「主の御言葉と聖霊の力によって」改革が推し進められるとき、その道は困難で孤独に見えても、最終的には勝利へと帰結するのだ。

張ダビデ牧師はこうした文脈で、教会が世に福音の光を照らす使命を果たすためには、まず「内面からの改革」が必要だと説く。もし教会内部が堕落し、指導者が欲と権力欲にとらわれているなら、そこからイエス様の十字架の福音は変質しやすくなる。その結果、世は教会を指さして嘲り、福音宣教の門は閉ざされてしまう。アンナスに捕らえられたイエス様の姿を切実に黙想すれば、教会の腐敗がどれほど恐ろしい結末をもたらすかを思い知らされる。主ご自身がまさにトカゲの巣のような神殿既得権者の手に渡されたように、現代でも教会内に潜む欲望が教会を自滅させ、世に対する教会の善い影響力を深刻に傷つける。

それでは、この危機を逃れる道は何か。

  1. イエスの生き方と御言葉を最優先の規範とすること
    イエス様はどの大祭司や権威者にも妥協されず、ただ父の御旨を行うことに集中された(ヨハネ4:34)。もし現代の教会が伝統や人間指導者の指示ばかりに縛られ、聖書の本来の精神から逸れた道を歩んでいるなら、勇気をもって立ち返るべきである。
  2. きを慕い求め、共同体としての悔い改めが必要
    ペテロと弟子たちが復活のイエス様に出会い、ペンテコステで聖霊を受けて完全に変えられた姿(使徒2章)は、教会が生き生きと蘇る原動力が「聖霊の満たし」であることをよく示している。教会が人間的な計画やプログラムに頼るのではなく、聖霊の働きに敏感になり、罪を悔い改めつつ方向転換するとき、生命力にあふれる共同体として再び立ち上がれる。
  3. 互いを裁き合ったり傷つけ合ったりすることではなく、御言葉の理に基づく愛とケアを実践すること
    イエス様が十字架を負われる前、弟子たちの足を洗い(ヨハネ13章)、愛の新しい戒めを与えられたのは、教会共同体の本質が愛にあることを明確にされた行動である。アンナスのような圧政型リーダーシップとは正反対に、イエス様はしもべとなるリーダーシップの模範を示された。ゆえに教会内で権力を握り他者を支配しようとする態度は、イエス様の模範とは真逆である。
  4. 教会の財政や限構造など制度的側面で、透明性と責任を確保すること
    古代の神殿でいけにえを売買する行為を悪用していたアンナス一族は、不正な慣行を制度的に固定化して大きな利益を得ていた。教会も予算・財政を透明に運営しなければ、権力と富を求める者が容易に入り込み、結局内的腐敗を引き起こすことになる。

こうした制度的・霊的な改革を通して、教会は再び真の礼拝の場へと立ち返ることができる。イエス様が「ひそかに何も語らなかった」(ヨハネ18:20)と堂々と語られたように、教会も公正に行動し、光の中を歩まなければならない。そうすることで教会は世の非難や疑いの前でも大胆に福音を宣べ伝えられ、弟子たちが最終的に恐れを脱ぎ捨てペンテコステ以降大胆に福音を伝えたように、神の国を広げる真の器として用いられるのである。

ヨハネの福音書18章12-22節に描かれるイエス様の苦難の物語は、単に1世紀ユダヤ教の腐敗を責めて終わるものではない。アンナスが見せた腐敗と歪んだ宗教権力の動き方は、時代を超えて繰り返される人間の罪性の代表的な例である。教会史の暗い局面で何度も、そして現代でも世界各地の教会や宗教組織の内で「アンナス型の指導者」が繰り返し登場する。それゆえ私たちはこの御言葉を読むたび、「私自身も腐敗したシステムに加担してはいないか、イエス様の真理に忠実に立っているか」を吟味しなければならない。張ダビデ牧師は常々「教会は絶えず御言葉の前で自らのアイデンティティを確認し、外面的な成功や数的な成長ではなく、イエス様の道に従順であることを最優先の基準としなければならない」と力説している。

同時に信徒個人のレベルでは、「ペテロの否認」を通じて人間の弱さを深く痛感する。どれほど熱心に信仰生活をしていても、いざ不利益が迫るか命を脅かされるような状況になれば、イエス様を否認してしまう可能性が誰にでも潜んでいる。だからこそ私たちの力や決心だけでは、完全な弟子の道を歩むことはできない。ただ聖霊の助け、そして復活の主が与えてくださる回復の恵みに絶対的に依存しなければならない。この点でペテロは私たちの自画像であり、イエス様がティベリア湖畔でペテロをお赦しになり、再び使命を委ねられた場面(ヨハネ21:15-17)はキリスト者の希望そのものである。たとえ一度、二度、三度とイエス様を否認したとしても、心から罪を悔い改めて戻る者を、主は咎めるだけでなく新しい機会を与えてくださる方だからだ。

結論として、「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」(ヨハネ18:13)というこの御言葉は、イエス様の受難物語の始まりであると同時に、既得権を握る宗教権力の邪悪さとイエス様の真の権威が鮮やかに対比される決定的な場面である。張ダビデ牧師はこの箇所を洞察しつつ、教会と信徒がイエス様の道にならって構造的腐敗の前で沈黙せず真理を証しし、腐敗した姿を発見したときには神殿を清める思いで悔い改めと改革を断行すべきだと主張する。また、イエス様が示された苦難の従順こそ、世の罪を負う「神の小羊」(ヨハネ1:29)として使命を全うする道であり、この道は最終的に復活と勝利へとつながるという福音の希望を忘れてはならないと強調する。

このようにイエス様が不当な裁判を受けられる場面は、私たちに十字架事件全体を新たに見つめさせる。十字架は単なる処刑道具ではなく、神が罪を憎みながらも罪人を最後まで愛しておられるという絶対的な愛の象徴となった。そしてその愛は、いかなる人間の権力にも遮られることはなかった。張ダビデ牧師が再三強調してきたように、イエス様の十字架がなければキリスト教の救いのメッセージは完成せず、もし復活がなければ十字架の死は悲劇に終わっていたであろう。しかし十字架と復活は神の救済史の中心軸をなし、この出来事を通して人類は新しいいのちと永遠の希望を得ることができたのである。

今日、教会と信徒たちはアンナスのような腐敗した霊的リーダーシップを警戒し、イエス様の苦難にあずかりつつ十字架の福音を守り伝えるという重大な責務を負っている。不当な侮辱と苦痛の中でも微塵も譲歩せず真理を主張されたイエス様の場面を思い起こしながら、世との妥協や自己正当化を打ち砕き、聖霊のうちに大胆に福音を生き抜くべきだ。そして万一失敗したり恐れに負けて主を否認した者があっても、ペテロが再び立ち上がったように、悔い改めて主に立ち返るならば新しい出発が可能であるという希望を握ること、これこそが福音の力である。

ヨハネの福音書18章12-22節の出来事は、私たちに多面的な省察をもたらす。腐敗した宗教権力の実態、十字架へと至るイエス様の苦難と大胆さ、弱さを露呈する弟子たちの失敗と回復、そして「古い神殿」を壊して「新しい神殿」を開かれる神の救済の摂理が一つに織りなされたテクストだ。キリスト者はこの本文を通じて、教会とはただイエス様を頭(かしら)としなければならず、どのような人間の権威も真理の上に君臨できないことを改めて悟る。そして信仰生活において失敗や恥ずべき過去があっても、主の愛と聖霊の臨在によって再び起き上がることができるのだ。張ダビデ牧師は、「イエス様が歩まれた道は苦難の道であると同時に復活の道、私たちの救いを完成する道でもあるので、信徒と教会も真の神殿であるイエス様のうちにとどまり、あらゆる世俗的・宗教的腐敗を乗り越える霊的勝利を享受できる」と総括する。これこそが「まずアンナスのもとへ連れて行かれた」という本文が今なお私たちに生きたメッセージを語りかける理由である。その道にともに歩むすべての信徒たちは、主の苦難と復活を常に覚えつつ、この時代にあっても福音の光を輝かせ続けるべきなのだ。

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神の怒りと救いの必要性 – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 神の怒りと人間の不敬虔不義

ローマ書1章18-19節は、使徒パウロがローマ書の本論を始めるにあたって提示している、人間が陥っている罪の現実とそれに対する神の怒りを扱う中心的な一節である。張ダビデ牧師は多くの説教や講解を通して、この本文がローマ書全体の構造や救いの教理を理解する上で重要な基盤であると強調してきた。実際、ローマ書を読んでいると、福音が宣言される順序としてまず「罪」が登場し、その後に「救い」が具体的に紹介されることに気づく。これは単なる構造上の特徴ではなく、福音を正しく理解するためにはまず罪の実相が何であるか、そして人間がなぜ救われなければならない存在なのかを明確に認識しなければならないことを示している。

使徒パウロは、当時多くの異邦人が暮らしていたローマという都市に宛てて手紙を書き綴った。このローマという都市は、当時の文明と世俗的繁栄の象徴であると同時に、人間の罪が最も腐敗した様相で露わになっていた代表的な場所でもあった。ローマ人たちもまた、自分たちを罪人と認めることはなく、むしろきらびやかな文明や知恵、軍事力、富を誇りとして罪の意識など持たなかったかもしれない。彼らは「我々にどんな罪があるというのか? この輝かしいローマがいったい何を誤ったというのか? どうして救いなどが必要なのだ?」といった態度で、パウロのメッセージを不思議に思ったかもしれない。しかしパウロは、なぜ人間に救いが必要なのかを語るために、まず人間が神の前でいかに罪の中に陥っている存在であるかを非常に論理的に展開したのである。

張ダビデ牧師は、このローマ書1章18-19節の講解において、特に18節に示される神の怒りがすべての罪の結果であり、神と人間の間の不和状態を示す言葉であることを強調する。「神の怒り」という表現は、私たちが一般に想像する“神の激怒”や人間的感情の投影とは次元を異にする。神は完全で善なるお方であり、その怒りは単なる感情の爆発ではなく、聖と義に基づいて罪を裁かれる正当な反応なのである。神の前で「不敬虔と不義」の状態にある人間は、罪のゆえに神との関係が断絶しており、その結果、人間は本質上「怒りの子」となったとエペソ書2章3節も語っている。

ここで言われる「不敬虔」とは、神との垂直的な関係を踏みにじる罪を意味する。すなわち、神を恐れ敬ったり礼拝するのではなく、神を忘れたり心に留めることを嫌う態度を指す。一方「不義」は、人間同士の水平的な関係における罪の様相であり、互いを傷つけたり他者を抑圧したり、不正直や偽善、貪欲などによって明らかになるものである。使徒パウロはローマ書1章18節で「不義をもって真理を阻む人々」を名指ししているが、彼らは意図的に真理を妨げ、みことばを伝える者たちを抑圧しようとしたり、自分たちの内面にある本能的・良心的な神認識を意図的に無視すると指摘する。

実際、張ダビデ牧師が強調するように、大多数の人は罪の問題に直面することを恐れる。自分が罪人であることを認めることは、自分の限界や恥をさらけ出さねばならないことを意味するため、人は本能的に「なぜ私が罪人なのか」と反発するのである。だからこそ福音を伝える際、「救い」という言葉がもつ深い意味と喜びを知らせようとしても、まず「なぜ救いが必要なのか」がしっかりと説明されなければ、相手は「自分にはそんな救いなど必要ない」と思ってしまいがちだ。これに対しパウロは罪論を詳しく展開し、人間の実存が神の創造の秩序と義からどれほど離れているかを、段階を追って掘り下げる。

「神の怒りが、不義をもって真理を阻む人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、天から現れています」(ローマ1:18)というこの節は、罪がなぜ神の怒りを引き起こすのか、その理由を直接的には述べていないが、続く箇所(1章19-32節)で罪の本質と結果が徐々に説明されていく。特に張ダビデ牧師は、この本文を分析する際に、神の怒りは人間の犯す不敬虔と不義が結局は自滅へと至る道であるがゆえに、神がそれを放置なさらないことを示していると指摘する。ちょうど親が子どもを誤った道へ行くのを放置しないで、時には怒りや叱責によって正そうとするように、神の怒りは聖なる炎であり、愛から発せられる警告でもあるのだ。もちろん聖書は神が愛であることを語るが、その愛は、人間が罪を犯し続けて自らを破滅に追い込むのを許容し見過ごしにするような形の愛では決してない。神の愛は聖と切り離せないのであり、ゆえに神との基本的関係を破壊する罪に対しては、当然の裁きと怒りが伴うのである。

張ダビデ牧師は説教で、この点をよく引用する。神は人格的なお方であり、単なる哲学的概念の「無感情な神」ではない、と。古代ギリシアの哲学的神概念には、全知全能で冷徹な本質として、人間的感情とは無縁の存在として描かれた場合も多かった。しかし聖書の神は私たちの創造主であり父であり、人間が罪の中にあるときには嘆き、憤ることもある。エレミヤやホセアのような預言書を見ると、人間に対する神の嫉妬や悲しみ、怒りが入り混じっていることが分かる。これは絶対的主権者である神が愛の関係のうちで人間を見つめておられるがゆえであり、その愛の関係が破られたときに「怒る」というのは、神の聖なるご性質と愛の本質からくる必然的反応なのである。

「不敬虔と不義」に総括される人間の罪は、十戒で言うならば神に対する罪に要約される。どれほど世の中が進歩し科学文明が発達しても、人間は神との関係を離れては真の善と義を実現できない。ローマ帝国のように強力な法体系をもち、ストア哲学やエピクロス派など多様な倫理・哲学的伝統が発達していても、不敬虔と不義は極端な形で露呈した。堕落した人間は、いくら哲学的知識や道徳的鍛錬を積んでも根本的な問題を解決できない。罪は単に個人の逸脱の問題ではなく、神との関係が破れたことに由来する実存的堕落だからである。

パウロは続いて、この罪のせいで「神の怒りが天から現れる」と語る。張ダビデ牧師は説教の中で、「天から現れる」という表現が、人間の罪が積み重なって頂点に達したとき、神の裁きが不可避に下される瞬間があることを示すと強調する。神は長く忍耐され、多くの機会を与えられるが、結局は義をもって罪を裁かれ、そのうえでご自身の聖と正義を示される。旧約におけるノアの洪水やソドムとゴモラの滅亡、イスラエルの民の捕囚生活などは、罪に対する神の裁きが決して空虚な警告ではないことを証明している。新約においても、イエスが語られた終末の裁きの警告や、使徒行伝のアナニアとサッピラの事件などが、罪に対する神の厳粛な怒りをよく示している。

この「怒り」という概念を、現代の一部の信者たちは不快に思ったり、神の愛ばかりを強調して曲解してしまう場合がある。しかし罪に対する怒りがなければ、実際のところ神の愛もまた空虚な概念になってしまう。神が聖なるお方であり、罪が人間に破滅をもたらすというのが事実なら、罪を放置するのは愛ではない。張ダビデ牧師は説教で、これをしばしば親と子の関係にたとえて語る。子どもが危険な道を進んでいるのに、親が愛しているという名目でまったく叱責もしないで傍観するならば、それは真の愛ではない。その子に永遠の害が及ぶことが分かっていながら、何の処置も取らないからである。神もまた、罪のゆえに滅びに陥る人間に向かって「だめだ!」と断固たる言葉を発し、立ち返る機会をお与えになり、最終的には罪の結果に対する裁きを下される。これが神の怒りである。

パウロが語る「異邦人の罪」は、すなわち神を知らない世の罪一般を意味するが、そのなかでも焦点が当てられるのが「不敬虔」である。なぜなら、神との関係、すなわち垂直的関係の破綻こそが、水平的関係の破壊を招くからである。私たちが日常目にする社会的な不正や戦争、暴力、搾取、性的堕落などは、究極的には「不敬虔」から始まる。神がいないと思い込む生き方、あるいは神を恐れ敬わない生き方が、あらゆる悪行の根源となる。ローマ書1章後半を見ると、人々は神をあがめるどころか、偶像にひれ伏し、偽りのイメージやイデオロギーに献身し、自分の欲望を偶像化した結果としてあらゆる罪悪と腐敗がはびこると描かれている。

張ダビデ牧師は、このような文脈から、罪が明るみに出ることを教会や信徒が回避してはならないと語る。罪を直視して暴くときに初めて、その罪から離れ、救われる道が開かれるからだ。教会共同体の中でも罪が隠されたままだと、結局それが膿んで、より深刻な病へと発展する。個人もそうだし、国家や社会全体もそうである。罪を曖昧に覆い隠すのは愛の態度ではなく、むしろその罪の根をいっそう深くする結果をもたらす。神は罪を放置なさらず、時が来ると必ず怒りをもって裁かれることを、聖書全体を通じて繰り返し知らせておられる。

こうした罪論はローマ書1章18節から3章20節にかけて本格的に展開される。簡単に区分すると、パウロはまず1章18-32節で異邦人の罪を語り、次に2章1節-3章8節でユダヤ人の罪を告発し、最後に3章9-20節ではユダヤ人・異邦人を問わずすべての人間が罪のもとにあると宣言する。要するに、この世に義人はいない、一人もいないというのがパウロの結論なのである(ローマ3:10)。唯一イエス・キリストのみが罪から救う唯一の道であることを強調するための前提として、パウロは罪の普遍性を徹底的に掘り下げたわけだ。

そして、その罪に対する神の反応が「怒り」である。私たちは世の中でいろいろな形で「怒り」を経験するが、人間の怒りは多くの場合、罪から出る感情的で不完全な形である。それに対して神の怒りは、罪に対する公正な断罪であり、人間を救うための聖なる方策なのだ。張ダビデ牧師は、これこそがローマ書が冒頭から罪と怒りを扱う根本理由であると説く。人間が自分の罪を自覚し、怒りの下にあることを悟ってこそ、福音が「信じるすべての人を救う神の力」であることがどれほど貴重かが分かるからだ。

このように、18節が語る「神の怒り」は軽々しく見過ごせる部分ではない。パウロがローマ書の本論を始めながら提示する重要な主題の一つがまさにこの神の怒りであり、それが人間の不敬虔と不義、すなわち罪に対して下るということである。ローマ時代でも、人々は宗教的にも哲学的にも自分の生を正当化し、自分が罪人であることを認めたがらなかった。現代人も同様に、科学や技術、経済の発展などを誇りつつ「なぜ私たちが救われねばならないのか?」と問い返す。しかし、人間が本当に罪のうちにあることを知らなければ、救いの必要性もけっして痛感できない。ゆえに張ダビデ牧師は、このローマ書1章18節の御言葉、すなわちパウロの神の怒りの宣言が、現代においてもいかに重要であるかを絶えず喚起している。

こうした怒りの背景には、人々が「不義をもって真理を阻む」という具体的な罪がある。真理が宣言されるとき、人々はそれを歓迎するどころか、かえって敵視する場合が多い。真理の光が強く照らすほど罪が白日の下にさらされるため、罪を好む者は真理を伝える口をふさごうとするのである。教会の歴史を見ても、福音が伝えられるとき、それを弾圧する勢力は常に存在した。とはいえ、みことばは決して阻まれない。神が建てられたしもべたちと信仰の証人たちが絶えず福音を叫び続け、教会は多くの迫害の中でも真理を守り抜きつつ拡大してきた。それは「草は枯れ、花はしぼむ。だが私たちの神の言葉は永遠に立つ」(イザヤ40:8)という聖書の言葉通りに実現している。

一方で、パウロが伝えた神の怒りのメッセージは、決して人々を脅かしたり罪悪感だけに縛ることを目的としたものではなかった。究極的には「罪から離れよ」「神のもとへ来い」という招きの意味合いがより強い。人間が罪を自覚しなければ決して救いにあずかることはできないため、パウロは容赦なく罪を指摘するのである。教会が罪の指摘を回避したりうやむやにしてしまうと、人々は自分が罪人であることを深刻に考えなくなる。救いもまた個々人にとって切実にならず、福音は「良い話」の域を出ない無力なものになってしまう。だからこそパウロと初代教会は徹底した罪の認識を強調したのであり、これが今日の教会にもそのまま有効であると張ダビデ牧師は力説する。

結論として、ローマ書1章18節に示されている「神の怒り」は、福音において非常に重要な位置を占めている。神の愛と救いを正しく知るためには、まず人間が陥っている罪の実態と、その罪に対する神の正しい怒りを直視しなければならない。これを避けるならば、結局、福音の力と恵みを切実に悟る道は閉ざされてしまう。救いは罪からの救いであり、罪が何なのかを理解しない人は救いが何なのかを知ることもできないからだ。

このように「不敬虔と不義」が招いた「神の怒り」は、人間自身の力では解決できない本質的な問題である。罪の問題の前で、そして罪ゆえに臨む神の怒りの前で、人間はようやく悔い改めと信仰によって神に立ち返らねばならない必要を痛感する。ローマの華やかな文化や成功、繁栄もこの問題を覆い隠すことはできなかったし、現代のどんな世俗的安定や豊かさも、罪と怒りの問題を軽視することはできない。これこそパウロが示そうとした人間実存の切迫した現実であり、同時に福音が必要とされる理由なのである。


Ⅱ. 人間の面の神認識と救いの必要性

ローマ書1章19節は、人間の罪と神の怒りに言及する内容に続き、「それは、神を知ることが彼らのうちに示されているからです。神が彼らにそれを示されたのです」という言葉を述べている。驚くべきことに、パウロは不信者、つまりまだイエスを知らない異邦人にも「神を知りうるもの」がすでに与えられていると宣言する。これは、人間が創造主なる神といかに切り離しがたい関係のなかにあるかを示している。不敬虔と不義の中にありながらも、人間の内には依然として神を求め、その方を認識する可能性が残されているということだ。

張ダビデ牧師は説教で、この節が「人間は生まれながらにして本質的に神への渇望をもっており、たとえ罪によって堕落していても完全に壊れきった存在ではないこと」を示していると説明する。もちろん人間は罪のゆえに霊的に死ぬほかない状態だが、その内には神のかたちの破片ともいうべき理性、自由意志、道徳的感覚、宗教的本性などが残されている。だからこそ人類の歴史全般にわたって、絶え間なく“神”や“絶対者”を探し求める試みが続けられてきたのだ。

パウロが言う「知りうるもの」は二つの次元で語られていると考えられる。一つ目は、被造世界を通した一般啓示の次元である。ローマ書1章20節にも続くように、神が造られた自然と宇宙、この世の秩序を通して神の神性と力をある程度認識できるという内容だ。四季の移り変わり、秩序正しい自然の理、太陽や星の運行、生命の驚異などは、偶然や混沌の産物ではなく、創造主の摂理とご計画のもとに動いているということを直感的に示してくれる。多くの哲学者や科学者さえも、宇宙が無秩序な混沌ではなく精密な秩序で動いている点から、絶対者の存在を認めたりする。

二つ目は、人間の内面の良心と理性の次元である。張ダビデ牧師は、人間が本能的に罪悪感を覚え、善と悪を区別し、自らの存在目的を問い求める動きなどを通して、すでに神への渇望を表していると語る。実際、多くの人が生きていく中で「私は何者なのか? なぜ生きるのか?」という根本的問いにぶつかる。これは神を離れた人間が根源的に感じる霊的な空虚、あるいは不安から来るものだ。神を知ってこそ満たされるこの渇きこそ、人間の魂に刻まれた「神への本能的欲求」である。アウグスティヌスの『告白録』にあるように、「神のうちに安息するまで、人の魂は真の安息を得られない」という洞察は時代を超えて受け継がれてきた。

しかし問題になるのは、この「神を知りうるもの」を人々が正しく受け止めないという点である。パウロは「人々は神を知っていながら、神としてあがめもせず感謝もしなかった」(ローマ1:21)と続ける。つまり神を知るに足る証拠と内面の声があるにもかかわらず、人間は罪によって高ぶり、神を退ける。あるいは神を偶像で置き換え、真理よりも偽りに耳を傾け、自分を高めることに邁進する。その結果、不敬虔と不義は一層加速される。

張ダビデ牧師は説教で、人間が神を退けることによりもたらされる結果を「不安、孤独、虚無、絶望」などに要約する。罪を犯せば心は不安に陥り、世俗的な欲望で一時的な満足を得ようとしても根本的な虚しさは消えない。愛されないと感じるときに襲ってくる孤独感、将来の不透明さから生じる絶望感などは、結局、人間の霊魂が「神を失った状態」であることを自ら痛切に証言しているにほかならない。だからこそ不信者も、深い苦悩の瞬間には自分でも気づかないうちに“神”や“絶対者”を求めることがある。

とはいえ真理は明らかである。人間はいかなる道徳修練や哲学的思索だけで神に到達することはできない。それらは神を探す助けの道具にはなり得るが、罪の問題が根本的に解決されなければ、神と真に交わることは不可能である。これはパウロがローマ書全体で強調しているメッセージだ。罪は人間自身では解決できないものであり、イエス・キリストの十字架と復活によってのみ罪の赦しと義とされる道が与えられる。そして、その恵みに信仰をもってあずかることができると教えるのがローマ書の中心的な救済論である。

ゆえに、「神を知りうるもの」が人間の内面にあったとしても、その火種だけでは罪の問題を解決できない。結局、福音が必要なのだ。張ダビデ牧師は、罪から離れ真の自由と解放、そして魂の平安を得るためには、イエス・キリストの福音を受け入れることが避けられないと力説する。イエスもまた「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい」(マタイ11:28)と呼びかけ、「渇いている人はだれでも、わたしのところへ来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と招かれた。このようなイエスの招きは、宗教的儀式や功績を条件とはしない。ただ「神のもとに帰るだけでいい」というのが福音の核心なのである。

ところが、宗教さえも時に“商売人”の役割を果たし、人々が神へ近づく道を阻んでしまうことがある。救いの条件を規定し、さまざまな行為や儀式を強調することで、あたかも人間が自らある資格を整えなければ神に近づけないかのような誤解を招く。しかし、それは聖書の教えではない。ローマ書3章24節によれば、私たちはキリスト・イエスにある贖いによって「価なしに義とされる」のである。エペソ書2章8-9節でもはっきりと語られる。「あなたがたは恵みによって、信仰によって救われたのである。これは自分自身から出たことではなく、神の賜物である。行いによるのではない。それはだれも誇ることのないためである。」

張ダビデ牧師は、この部分を説教するとき、イエスが教えられた父と子の関係のたとえ(ルカ15章の放蕩息子のたとえ)をしばしば強調する。放蕩息子が「父のもとに帰ろう」と決心したとき、彼が何か条件を満たさなければならなかったわけではない。父は喜びのあまり走り寄ってその罪を赦し、息子の身分を回復させた。その過程にはどんな複雑な手続きや代価も介入しなかった。ただ帰ってくるだけでよかったのである。ところが人間は、罪悪感や高ぶり、あるいは世の歪んだ宗教観のせいなのか、自分が何かもっと準備しなければ神のもとへ行けないと思い込む。

しかし、本文が語るように「神を知りうるもの」がすでに人間の内にある状態であっても、不信者であろうと神の前に出て叫べば、神は決してそれを無視されない。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)という言葉のように、神は先に人間を訪れて立ち返りを促される。私たちが心の扉を開くだけで、すぐに神の恵みが臨み、罪の赦しと救いのみわざが始まるのだ。

このように、私たちの魂が神なしには渇き、不安で虚しくなるというのは、人間存在が神に属していることを証明する別の表現でもある。どんな世俗的成功や娯楽も、この渇きを完全には癒せない。古代ローマの知識人たち、たとえばセネカやマルクス・アウレリウスなどの哲学者たちも人生の意味を探求し、ストア哲学を通して内面の平安を求めたが、結局、罪の問題自体を解決する道はなかった。パウロは彼らに対して、真の答えは神にあると強く訴えたのである。

張ダビデ牧師は「神がこれを彼らに示されたのです」というローマ書1章19節の言葉に触れながら、神が望んでおられるのは決して人間を知らん顔で放置することではないと示唆していると説明する。神は太初から今に至るまで、多様な方法で人間にご自分を啓示してこられた。自然を通して、良心を通して、歴史を通して、そして究極的にはイエス・キリストを通してご自分を示してこられた。問題は人間が「受け入れるのか、拒むのか」にかかっている。

受け入れない場合、神はその不敬虔と不義を責め、最終的には怒りをもって裁かれる(ローマ1:18)。受け入れる場合は、神と人間のあいだに「和解」という回復された関係が成り立つ(ローマ5章)。和解はすなわち救いであり、生まれ変わった人生が永遠のいのちにあずかる状態だ。神学的に言えば、罪によって壊された関係がキリストを通して再び結び合わされることである。だから張ダビデ牧師は「罪があることを正直に認め、神に立ち返るとき、私たちは本来神の子として創造された自分自身を取り戻すのです」と説教する。

これは単に宗教的所属を変えたり、礼拝の形式を整える次元の話ではない。「自分は本来何者で、どこから来てどこへ行くのか。人生の真の意味と目的は何なのか」という問題を根源的に悟る過程なのである。アウグスティヌスの有名な言葉、「神のうちに安息するまで私の魂は安らぎを得ないのです」という告白は、時代や文化を超えて人間実存の本質を突いている。人間は神に似せて創造されており、ただ神のうちでのみ真の平安と喜び、愛、そして意義を見いだすことができるのだ。

にもかかわらず、世はあらゆる代用品を提示し、神に代わり得ると誘惑する。金、権力、名誉、快楽、ありとあらゆる偶像的対象が「これがあなたを幸福にしてくれる」とささやくが、それらは結局、一時的な満足とさらに大きな渇望を呼び起こすにすぎない。こうして人間は絶えず魂の放浪を続けることになる。張ダビデ牧師は「信仰すること、イエスを信じることは本来の自分を回復する道だ」と力説する。それは特定の宗教に入会したり制度に所属する問題ではない。「自分は本来どんな存在なのか、どこから来てどこへ向かうのか、人生の真の意味と目的は何か」を根源的に悟っていく過程なのである。

人間はすでに「神を知りうるもの」を持っているから、いつでも神のもとへ帰る可能性は開かれている。世界のどんな地域や文化圏でも、人類は絶えず神を求める努力をやめてこなかった。しかし、その努力はしばしば歪められたり、偶像崇拝に流れたり、本物の神ではなく人間が自作した神概念に閉じ込められてしまったりした。だからこそパウロは一貫して「あなたたちがいま拝む無数の偶像や哲学の神、帝国神格化ではなく、唯一の創造主なる神に目を向けなさい」と叫ぶわけである。

結局、ローマ書1章19節は「神を知りうるものが彼らのうちに示されている」という宣言を通し、人間の内面の宗教的・霊的本質を再確認させてくれる。同時に1章18節にある「神の怒り」と並置されることで、人間の二重的な実存を明らかにしている。すなわち、一方では人間の内には神へ向かう渇望や良心があるが、他方では罪のゆえに神を拒む反発心も同時に存在する。これを神学的に言えば、「原罪と神のかたち」の混在とも言えるだろう。

張ダビデ牧師は説教で、だからこそキリスト者に必要なのは「罪を責めながらも、その中にある神への渇望と可能性を信じてあげるまなざしだ」と語る。世の人々にただ無造作に「あなたは地獄に行く罪人だ」と言うだけでは、彼らは耳を閉ざしてしまう。しかしパウロが示したように、罪を正確に指摘しつつも、それは「人間の中には神を発見しうる大切な能力があり、神に立ち返るなら変えられる」という希望を同時に伝えるためなのだ。人間には罪があるが同時に救いへ向かう可能性も開かれている。その可能性を現実のものにする道が、まさに福音である。

福音の本質は、人間がどんな資格も備える必要なく、そのままの姿で神の恵みの前に出ることにある。「だれでも主の名を呼ぶ者は救われる」(ローマ10:13)という御言葉のとおり、イエス・キリストの名を呼び、主として受け入れるとき、罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。放蕩息子が父のもとに帰るように、罪人である私たちも神のもとへ帰れば、神は私たちを真の息子・娘として回復してくださる。ローマ書はこの後、この救いを神学的に体系化し、義認と聖化、そして栄化へと続く救いの段階を説明する。しかしその出発点はいつも「罪を自覚し、神に立ち返る」心なのである。

一方で、これを伝える教会の使命は決して軽いものではない。教会自身が多くの誘惑や世俗化の危険にさらされており、教会の内側でさえ「神を知りうるもの」が歪められてしまうことが起こりうるからだ。張ダビデ牧師は、教会が「真理の光を照らすべき立場で商売をし、権力を振るう姿」を見せると、結局、福音の純粋性と力を失い、人々の心にある神への渇望を妨げることにもなりかねないと警告する。福音がもつ無条件・一方的な恵みを伝える代わりに、人間的な誇りや行為中心の信仰を強調すれば、魂たちは真の自由を体験しにくくなる。

だからこそ教会と信徒は常に自分を振り返る必要がある。パウロがローマ書2章で「あなたはユダヤ人として異邦人を裁くのか? あなたも同じだ」と宣言しているように、罪を指摘する教会自身が罪に陥っていたら偽善になってしまう。教会共同体が罪を曖昧に見逃したり、罪を指摘する際に愛なしに断罪だけするような極端な態度を取ってはならない。教会は罪を暴いて悔い改めへ導き、究極的には赦しと救いの道を開いてあげる福音の通路にならなければならない。

ローマ書1章19節は、結局「人間が心を開けばいつでも神を認識し、立ち返ることができる」という希望のメッセージを含んでいる。パウロは1章後半で、この希望を捨てて罪を楽しみ続ける者に対し、「神は彼らを放っておかれた」と述べている(ローマ1:24,26,28)。人間が最後まで拒むので、神もまた彼らの選択を尊重されるが、その結果がどんな破局をもたらすのかを当人たちが味わうことになるという意味である。自由意志を与えられた人間が神なしに自分の欲望に従って生きる道を選ぶなら、その破滅の責任も自分で負わざるを得ない。

ではその答えは何か。ローマ書3章以降でパウロは明らかにするのだが、イエス・キリストの贖いによってすべての罪人が義と認められ、神の怒りの下から抜け出して永遠のいのちの道に入れる道が提示されている。これこそ「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」である(ローマ1:16)。ローマ書1章18-19節が語る重苦しい罪論と怒りの宣言は、皮肉なことに福音の栄光に満ちた力をよりいっそう際立たせる。罪が大きく人間が絶望的であるほど、キリストの恵みがいかに驚くべきものかが一層明らかになるからだ。

張ダビデ牧師は、この点で「人間が神を知りうるものを持っている」としても、イエス・キリストを通しての福音を知らなければ、やはり救いに至ることはできないと明確に整理する。一般啓示や良心の働きだけでは罪の根本的な解決が不可能だからだ。それでも神がすでに私たちの心の内に「神への本能」を植えておられるという事実は、福音が宣べ伝えられるとき魂がその声に応答しうる霊的土壌が整えられていることを示している。だからこそ教会は大胆に福音を宣べ伝えなければならない。人々の心の奥深くには神への渇望があり、それは何らかの形で噴出する可能性があるのだ。

まとめると、ローマ書1章18節と19節は、神の怒りと人間の内面にある神認識の可能性を並行して示すことで、人間がなぜ救われねばならず、どうやって救いに至るのかを解く序論を提供している。「不敬虔と不義」によって要約される罪のゆえに、人間は怒りの下に置かれているが、同時に「神を知りうるもの」が人間の内にあるゆえに、だれでも心を入れ替えて福音を受け入れるなら救われる。そのことがまさしく使徒パウロがローマ書全体で展開する福音のエッセンスであり、現代に生きる私たちにも適用される永遠の真理だ。

私たちは、だれ一人として「私は罪と無関係だ」と言えず、神の怒りを免れることはできないと聖書を通して学ぶ。しかしその重みの中にも希望を持つ理由は、神がすでに私たちの存在の奥深くにご自身を求めるきっかけを埋め込んでくださっており、その道をイエス・キリストの福音によって完全に開いてくださったという驚くべき事実である。これを悟るとき、人は初めて「真の自分」を取り戻し、神との関係の回復によって人生の目的と意味を正しくつかめるようになる。

張ダビデ牧師は「福音はただ罪のもとにある者を生かす神の力」であり、「人間が罪を悟る道はすでに神が内面に埋め込んでくださった渇望と自然啓示を通して可能になる」と重ねて強調する。福音が宣べ伝えられるとき、人々は心の深いところで「ああ、自分がいつも渇望していたのはこれだったのだ」と気づいたり、あるいは心の奥に潜んでいた罪悪感が表に現れて悔い改めへ向かうこともある。こうした「立ち返り」と「主のもとへの歩み」こそ、ローマ書が語る救いの始まりである。

結局、ローマ書1章18-19節は、人間が神に背を向けていても、神はなお彼らを呼び続けるみ手をお収めにはならず、ただ人間がそれを拒絶し続けるなら罪に対する怒りを免れないことを宣言している。パウロの時代のローマだけでなく、すべての時代、すべての文化圏に等しく適用される御言葉だ。今日の私たちも、科学が進歩し物質的に豊かになったといっても、内面の深いところにある不安や虚しさは決して消えない。それは「神を知りうるもの」が潜在しているにもかかわらず、神なしで生きようとするところから生じる必然的な結果なのである。

しかしこの福音のメッセージを聞いて心を開くなら、もはや罪の奴隷として生きる必要はないと気づける。神の怒りから逃れ、その方の子どもとして回復される道が開かれている。教会はこの事実を伝えなければならず、世はそれを拒むことも、受け入れることもできる。そのどちらを選ぶかによって運命が分かれる。福音を受け入れ悔い改めて信仰へと向かう者には、罪の赦しと永遠のいのちが約束され、最後まで拒む者には神の怒りが臨むというのがローマ書全体が語る救いの論理である。

こうして見ると、ローマ書1章18-19節が語る神の怒りと人間内面の神認識の問題は、パウロ時代や特定の地域に限定される話ではまったくない。人間が存在する限り、そして罪がある限り、この問題は続くと同時に、福音の答えもまた続くのである。人間は本来神を求めるように造られており、その渇望を罪が覆い隠していて自力で道を見失っているが、神はイエス・キリストを通して救いの道を再び開いてくださった。教会と信徒には、まさにこの道を世に紹介し、人々をそこへ導く使命が与えられているのだ。

張ダビデ牧師がこの本文を講解するたびに核心的に投げかける問いは「あなたは真の自分を回復したのか?」「神の怒りの下にとどまり続けるのか、それとも罪を認めて悔い改め、救いの恵みにすがるのか?」である。これはローマ書がもたらす非常に直接的かつ個人的な問いでもある。福音は単なる知識ではなく、実存的決断を求めるからだ。私たちは、自分の内に「神を知りうるもの」があることを認め、これ以上罪を言い訳にしたり回避したりせず、へりくだって神に立ち返るべきだ。そうするとき、神の怒りは私たちを滅ぼす恐怖ではなく、罪から離れさせる「救いの機会」となる。

結局、ローマ書1章18-19節は罪と救い、怒りと恵みが交差する地点である。この御言葉を通して、神がどのようなお方であり、人間がどのような存在なのかをより明確に知ることができる。人間は神なしには決して真の自己も真の平和も見いだせない存在であり、同時に神を無視するとき罪の内にとどまるほかなく、その罪による神の怒りは避けられない。だからこそ福音が必要であり、福音こそが罪の赦しと永遠のいのち、神との和解に至る道なのである。

張ダビデ牧師が強調するように、教会がこのメッセージを見失わないとき、世の中で力強く福音を宣べ伝えられる。人間が本質的に神を知りうる存在であることを前提にすれば、罪を指摘するときにも同時にその回復を信じて待つことができる。また「神の怒り」を前提にすれば、福音がいかに切実かを骨の髄まで思い知らされる。もし教会が罪や怒りを回避してしまうなら、人間は自分が本当に罪人であることを自覚せず、救いも不要と思うだろう。逆に人間の内面の神認識を無視すれば、福音宣教において「相手はまったく望みがなく受け入れようもない」という敗北主義に陥る可能性がある。

したがって、両方の御言葉(ローマ1:18、1:19)が均衡を保ってこそ、私たちは罪と怒りの深刻さを直視しつつも、同時に悔い改めと救いの可能性を信じて福音を宣べ伝えることができる。教会は人々に「あなたの内にはすでに神を知りうる何かがあります。しかし罪によってそれを拒めば神の怒りのもとにあります。だからこそ一日も早く立ち返るべきです」と勧めることができる。この勧めを聞いて心を開き、神に立ち返る者にとって、福音は命と救いの力となるのだ。

結局、ローマ書は罪を指摘するだけで終わらない。罪が明るみに出てこそ救いにあずかれるので、パウロは1章後半と2-3章において人間の罪を徹底的に暴露した後、イエス・キリストの十字架の代償によって罪人が義と認められる「義認」の福音へと読者を導く。神の前に少しの義もない私たちが、キリストの血によって清められ義とされ、神の子どもとされる恵みが与えられる。これこそローマ書が示す偉大なる福音である。そして1章18-19節は、その偉大な福音の扉を開く出発点なのだ。

張ダビデ牧師は、この御言葉を通して信徒たちに「自分自身の罪を深く認めて悔い改め、すでに内面に与えられている神の声にいっそう敏感に耳を傾けなさい」と勧める。人間はだれもが神なしには生きられないよう創造されており、それゆえに罪のうちにあっても神を求め渇望するものだ。その渇望が結局人間を救いへ導く火種にもなる。しかし最後までその渇望を否定して真理を阻めば、怒りを免れない。逆に渇望を認め、福音を通して神のもとに立ち返るなら、罪の赦しと永遠のいのちを得る。

このようにローマ書1章18-19節は福音神学の重要な前提を短い二節の中にすべて内包している。人間は罪の中にあり神の怒りを避けられないが、同時に人間の内には神を知りうる種があって、福音を受け入れる可能性を宿している。現代においても、人々は科学、哲学、芸術、思想など多彩な手段を通じて人生の意味や目的を探し求めているが、真の解答はイエス・キリストの福音にこそある。教会はこの解答を手にする共同体として、罪を悟り悔い改める人々に喜んで恵みの道を案内する必要があるのだ。

張ダビデ牧師のローマ書講解が私たちに改めて思い起こさせるのは、人間が直面している霊的現実がいかに厳粛であり、しかもそれでもなお神が私たちに立ち返る道を用意してくださっているという驚くべき事実を同時に見つめよ、ということである。神の怒りは現実でありながら、その恵みと救いもまた現実である。人間は罪と死の権勢のもとにあるが、同時に神への渇望を内包している。これを正視しながら、「イエス・キリストを信じることによって救いを得よ」という福音の招きに全面的に応答すべきなのだ。

結局、「神の怒り」と「神を知りうるもの」という二つの軸を同時に見せてくれる本文(ローマ1:18-19)は、ローマ書全体の序論であると同時に福音の核心部分に相当する。パウロはこれを通して読者を罪の深淵へと連れ込みながらも、同時に神へ立ち返る希望の扉を開いてくれる。張ダビデ牧師をはじめ多くの牧会者や神学者がこの本文を深く講解する理由はここにある。罪が顕在化してこそ救いが見え、すでに私たちの内にある神への渇望を自覚してこそ福音が入り込む余地が生まれるのだ。

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聖化の義の道 – 張ダビデ牧師

ローマ書6章を中心とする「称義と聖化、そして神に捧げる義の武器」というテーマについて、張ダビデ牧師の牧会的強調点を反映させながら叙述しました。ローマ書6章がもつ神学的要素とともに、張牧師が提示する実践的な適用点を幅広く考察できることを期待しています。


1. 罪にして死に、キリストにあって生きるみの身分化(義)と張ダビデ牧師の救いの理解

張ダビデ牧師は、さまざまな説教や著書を通して、救いは単回的出来事としての「称義」(justification)と、継続的に変えられていく「聖化」(sanctification)、そして将来完成される「栄化」(glorification)の三段階にわけて明確に説きつつも、これら三つが互いに切り離せない一つの大きな旅路だと強調してきました。ローマ書6章を論じる際、彼は「罪に対して死に、神に捧げられた者となった」というパウロの宣言から、救いの確かさがどこに基礎を置くのかを再確認させます。つまり「称義」は一度きりで完結する出来事でありながら、それがすぐに聖化の全過程を自動的に成し遂げたという意味ではないし、同時に称義なくして聖化を語ることもできないと何度も強調するのです。

ローマ書6章1~2節でパウロは、「罪が増すところに恵みがいっそう満ちる」という前章(ローマ書5章)の宣言を聞いた人々が、誤解しかねない問いに答えを提示します。「では、恵みを増そうとするために、もっと罪を犯してもよいのか?」という問いに対して、パウロは毅然として「絶対にそんなことはありえない」と答えます。張ダビデ牧師は、この箇所で私たちが陥りやすい信仰上の錯覚を指摘します。すなわち、「神は愛であり、豊かな恵みをくださるのだから、自分勝手に生きても救われた事実は揺るがないのではないか」という放縦な考えです。しかしパウロが語るように、すでに罪に対して死んだ者(=称義)であるならば、どうして過去の罪の中に居続けることができるだろうか、というわけです。張ダビデ牧師はここで「救いとは始まったその瞬間に、人生全体が覆されてしまう霊的出来事」であると解説します。つまり「罪に対して死んだ者」という認識は単なる理論的・教理的な文言ではなく、私たちの「身分」が完全に変えられたことを意味すると説明するのです。

このように身分が変えられたということは、パウロが述べるように「新しいいのちにあって歩むためである」(ローマ6:4)という神の目的と意図が具体的に表されたことです。張ダビデ牧師がたびたび強調する「称義は身分の変化だ」という言葉には、もはや罪が私たちの正体を規定することはできないという真理が込められています。かつて「罪人」と定義されていた私たちは、今や「義とされた者」と呼ばれるようになり、それはすなわち私たちの存在がもはや罪の所有物ではないことを宣言するものです。これはローマ書6章7節の「死んだ者は罪から解放されて義とされている」という言葉とも重なります。

張ダビデ牧師は、この変化が「一度きりで完成された霊的宣言」であると同時に、「新たな責任と決断を要求する転換点」だと解釈します。すなわち、私たちのあらゆる罪を負い、十字架で死なれたイエス・キリストの功績によって、一度で私たちの罪の問題は清算され、その瞬間に私たちは義とされました。けれども、この「称義」という恵みの始点が私たちの人生の中で力強く働くには、その恵みを「浪費」する態度を捨て、全き感謝と畏敬をもって神に向かう方向転換が必要なのだと説くのです。

ローマ書6章3~5節で言及される「キリストの死にあずかるバプテスマを受けた」という表現も、張ダビデ牧師の説教でしばしば引き合いに出されます。彼は洗礼が単なる入会式や教派的伝統ではなく、「私たちがキリストと連合した」という信仰の実在を象徴するものであると教えます。洗礼とは一つの標徴であり儀式ですが、その中に秘められた霊的意味は「キリストにあって死に、再び生きること」です。パウロは洗礼によって私たちがイエスとともに葬られた(6:4)と語りますが、それは過去の罪深い本性、アダムのうちにあったいのちがキリストとともに十字架に付けられ、葬られたことを象徴します。そしてキリストの復活によって私たちもまた新しいいのちを得たことを宣言する装置なのです。

張ダビデ牧師は、この場面で「罪がすでに一度きりで清算された事実を恐れずに信じよ」としばしば説教します。実際、多くの信徒が信仰生活の中でつまずき、失敗し、「本当に自分は救われているのだろうか?」と疑いを抱くことがあります。しかしパウロの教えに倣い、張牧師は「救われているというアイデンティティは揺るがない」と強調します。私たちの感覚や感情、あるいは一時的な過ちや罪によって救いの地位が失われるのではなく、「原罪」の問題はすでにイエス・キリストの十字架によって完全に解決された事実を忘れてはならないというのです。

このように「罪に対して死んだ」という宣言は同時に、「神に対して生かされた」という逆説を内包しています。ローマ書6章8節でパウロは「もし私たちがキリストと共に死んだのなら、また共に生きることを信じます」と語ります。張ダビデ牧師は、この信仰告白こそキリスト教信仰の最も核心的な出発点だと強調します。罪に対して死んだということは、もはや罪の支配力のもとにはいないという意味であり、キリストと共に生きるということは、すなわちキリストのご支配のもとにある新しいいのちの体制に入ったことを意味します。イエスを信じるとは、ただ「死後、天国行きの切符を得る」ことだけではなく、この地上の生活の中でも既に神の支配のうちに入り、新しいいのちを生きるという積極的な意味を見失ってはならないと、張牧師は力説します。

結局、この第一の小主題において要となるのは、「罪に対して死んだ」という宣言が具体的にどのような結果をもたらすのかという点です。張ダビデ牧師は、救いを単回的な宣言であると同時に、未来への霊的召しと捉えつつ、私たちは日々この救いのアイデンティティを再確認しなければならないと説きます。アダムのうちにあった私たちが、今やイエス・キリストのうちへ移され、すでに神によって義と認められたという事実を私たちの生涯の土台としなければなりません。この救いの出来事が単なる神学知識や教理で終わるのではなく、私たちの身体をもってキリストの死と復活を実行に移す道が開かれたという認識につながることが重要です。そしてまさにここで、第二の小主題として扱う「聖化」のプロセス、すなわち私たちの身体を通して行われる霊的戦いと自己否定、そして「義の武器」となる具体的な歩みが始まっていくのです。


2. 身体を支配するための苛烈な聖化の過程と張ダビデ牧師の戦闘

ローマ書6章12節以下でパウロが焦点を当てる主題は、「すでに罪に対して死んだ者」がなぜいまだに罪の誘惑と戦わなければならないのか、そしてその戦いにどう勝利すればいいのか、という問題です。張ダビデ牧師はこの箇所を自身の説教で「キリストの恵みによって身分は変わったとしても、身体の弱さと罪の残滓が依然として残っているからだ」と解釈します。パウロの表現を借りると「罪が今なお私たちの死ぬべき身体を支配しようとしている」ということです(ローマ6:12)。身分自体はすでに神のものとなったとしても、私たちの状態(state)はまだ変化の過程をたどる必要があるのです。

張牧師は「今はすぐに天国へ行く段階ではなく、この地で『聖化』という人格的・霊的変革を成し遂げていく時期なのだ」と強調します。イエスを信じたからといって、すべての罪の習慣や悪しき誘惑が一瞬で消え去るわけではなく、むしろ救われた者として「罪」というサタンの巧妙な誘惑に、より敏感になるのです。パウロが「身体」に言及するのはこのためです。私たちの思考、感情、視線、言葉、行動など、すべてがこの「死ぬべき身体」の機能を通して表れますが、その身体をサタンが拠点として利用し、罪の欲望を煽って私たちを古い習慣へ引き戻そうとするからです。

張ダビデ牧師は、この苛烈な霊的戦闘を勝ち抜くための具体的手段を、数多くの説教や著書で論じてきました。第一に、彼は「真理のうちにとどまれ」と強調します。神のことば(真理)によらなければ、人間の身体から生じる本能的衝動を抑えうる霊的力を得ることはできないというのです。第二に、「繰り返しの訓練によって身体を治めよ」という原則を強調します。これは伝統的な禁欲主義や律法主義ではなく、「私たちのうちにおられる聖霊」の力により頼みながら、目や耳、口、手足を節制し、自発的な訓練を通して罪の支配力を弱めていくという意味です。

パウロが「あなたがたの肢体を不義の武器として罪に捧げることなく、義の武器として神に捧げなさい」(ローマ6:13)と宣言するのは、私たちの身体が中立的な通路ではなく、誰かの「道具(武器)」になりうるという事実を伝えています。罪が支配すれば私たちの身体は罪の道具となり、義が支配すれば私たちの身体は神の義を現す道具となるのです。張ダビデ牧師は、このイメージがきわめて具体的だと述べます。たとえば、礼拝や奉仕において私たちの「手足」が神の働きのために用いられるとき、その手足は「義の武器」となります。ところが、同じ手足が罪を犯す現場に使われるなら、それは罪のための武器となってしまうのです。つまり、道具自体の問題ではなく「誰がその道具を握っているか」が決定的な要素だというわけです。

ローマ書6章14節「罪はもはやあなたがたを支配しない。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にあるのだから」という言葉も、張ダビデ牧師の説教で繰り返し取り上げられるテーマです。彼は「自分が恵みの下にあると知るとき、私たちはもはや罪に従属しない尊い身分なのだと自覚できる」と力説します。律法の下にいるとき、人は罪を犯すことで罪定めを受ける恐れに縛られ、ある意味では罪が「自由」であるかのようにも見えます。しかし実際には、罪は私たちを隷属させて奴隷とし、ついには死に至らせるのです。それに対して、恵みの下に移された者、すなわちイエス・キリストのうちにいる者に対しては、罪がもはや「法的権利」としてその人を支配することはできません。すでに主人が変わっているので、サタンは不法な手段で私たちを乗っ取ろうとするだけで、合法的に私たちを所有する根拠は一切ないという解釈です。

だからこそ張ダビデ牧師は、「サタンが明白な不法占拠者であることを忘れないでほしい」と教えます。イエス・キリストの血潮によって私たちの所有権は神へ完全に移されました。私たちが弱くて失敗し、つまずいた瞬間を狙って、サタンは「おまえはまだ罪の奴隷じゃないのか」とささやくかもしれませんが、それは偽りです。この点について牧師は「信徒はそのたびに『私は恵みの下にいる。私の主はイエス・キリストだ』と宣言する必要がある」と語ります。つまり罪が私たちを罪定めしようとする際、私たちは「義とされた存在」という身分を積極的に主張し、同時に実際の生活においては罪を断固として退ける実践が伴わなければならないということです。

ローマ書6章15節以下でパウロは再び「私たちは恵みの下にあるのだから、罪を犯してもよいのだろうか?」という問いに対し、「断じてそんなことはあってはならない」と言い切ります。張ダビデ牧師は、この繰り返される教えこそ「私たちのうちにある矛盾した欲望に対する警戒のメッセージ」だと解説します。肉体の弱さを抱えた状態で「恵み」という祝福の知らせを聞くと、中には「それなら思いきり罪を犯しても大丈夫では?」と悪用しようとする者が出かねないからです。人間の高慢と怠惰、さらに聖霊の支配から逃れようとする本能が依然として残っており、天来の慈しみを自分に都合よく解釈しようとするわけです。しかしパウロの結論は明快です。私たちはすでに罪から解放されたのだから、再び罪に屈服するのは「みずから罪の奴隷になる愚かな選択」であるということです。

ローマ書6章16節でパウロは「自分自身を奴隷としてささげて誰に従うにせよ、その従う相手の奴隷となる」と語ります。張ダビデ牧師は、これを「選択の問題」だと説明します。日々の生活の中で、実際に自分は何を(誰を)主人として歩むのかが重要です。すでに主人は変わっていますが、自分の身体や心をどのように「ささげるか」によって、実際に体験する支配力は異なってくるのです。「心からの自発的な従順」を通して神の奴隷となる道は義へ向かう道であり、やがて永遠のいのちに導きます(17~18節)。一方で、再び古い情欲に自分で門を開いて罪の奴隷となるなら、その結末は死と滅びに至るというのが、パウロの宣言であり、張ダビデ牧師も深く共感する警告です。

張ダビデ牧師は特にローマ書6章19節の「あなたがたの肉の弱さのために、人間的にわかりやすく言っているのです」という表現に注目します。パウロが奴隷制度という比喩を用いたのは、当時のローマ社会に蔓延していた制度的背景があったからでもありますが、それだけでなく人間にとって分かりやすいように「奴隷」と「主人」の関係を取り上げたのだ、というのです。張牧師は「理解しやすいが、決して軽い比喩ではない」と評します。かつて私たちが罪の奴隷であったとき、不義と不法に身をささげ、惨めな結末を迎えざるをえなかったのですが、今や神に奴隷としてささげられ、聖潔に至る道を進むべきだ、というわけです。

ローマ書6章20~21節でパウロは、かつて罪の奴隷であったときに結んだ実を振り返るよう促します。あの頃私たちが結んでいた実は恥ずべきものであり、その終局は死に至りました。張ダビデ牧師は、これを「肉の欲に従って生きるとき、私たちの内に起こる破壊と荒廃」になぞらえます。罪は次々と罪を生み、霊的・精神的健全さをむしばんでいき、さらには社会的な関係まで崩壊させます。したがって、罪が広がる場所には決して持続的な平安や真の自由はありません。それに対してローマ書6章22節では、今や私たちは罪から解放されて神の奴隷となり、「聖潔に至る実」を結ぶようになったとパウロは宣言します。ここに張ダビデ牧師の核心メッセージが再度示されます。罪の道には死があり、義の道にはいのちがあるというパウロの対比です。そして義の道は、決してただ苦しいだけの道ではなく、ますます豊かな喜びと感謝に満ち、最終的ないのちへと導かれる道である、と彼は説くのです。

結局ローマ書6章23節でパウロは「罪の支払う報酬は死であり、神の賜物はキリスト・イエスにある永遠のいのちである」と結論づけ、「キリスト・イエスにあるいのち」という贈り物が、すべての信じる者が得る最終的な恵みであると明言します。張ダビデ牧師は「罪の報酬(ὀψώνια, opsōnia)」という言葉が、当時の兵士たちが汗を流して働いた対価として受け取った「給料」を指すことをしばしば紹介します。罪の奴隷として生きる者は、骨折って働いた末に「死」という絶望的な支払いを受けることになるが、神に奴隷としてささげた者には「賜物(χάρισμα, charisma)」すなわち無償で与えられる「天の下賜品」があるというわけです。この二つの道の対比から、「私たちは喜んで主の奴隷となる道を選ぶべきではないか」という結論に達します。

したがって、この第二の小主題の核心は、すでに称義された者であっても、罪と肉の弱さを乗り越えていく聖化の戦いが続くという点にあります。張ダビデ牧師は、パウロの教えを現代の信徒に適用しつつ、「日々みずからを義の武器としてささげる決断と訓練が不可欠だ」と重ねて強調します。これは律法的な強制ではなく、「聖霊のうちで主体的にささげる愛の従順」であり、その過程を通して徐々に「キリストのかたち」に似せられていくのだと教えています。


3. 義の武器として神にささげる生き方と張ダビデ牧師の共同体的使命の調

張ダビデ牧師は、ローマ書6章に流れるパウロの論理が単に個人的な内面の聖化にとどまらず、教会共同体や社会における「使命」へと拡張されねばならないと、繰り返し説いてきました。ローマ書6章13節の「あなたがたの肢体を義の武器として神にささげなさい」という言葉は、個人のレベルでは自分の身体を罪の道具に渡さず神にささげる命令ですが、最終的には「世のただ中で神の義をあかしする証人」として生きよ、という召しへとつながっていくのです。

張牧師はしばしばイエスの別れの説教(ヨハネ15章)を引用し、「私たちが主にとどまり、主が私たちのうちにとどまるなら、私たちは豊かな実を結ぶ」と説教します。ところが、この実は自分一人で結ぶものではなく、教会共同体の中でともに豊かになり、さらに信仰を持たない世に対しても「光」と「塩」として現れる実であるというのです。したがって、「義の武器となる」とは、自分のうちにある罪性を拒み、聖霊の力によって聖なる生き方を追い求めるだけにとどまりません。むしろ、その聖さが私たちの家庭や職場、教会、そして社会のあらゆる領域であらわれ、キリストの香りを放つ積極的な実践として広がっていく必要があると強調します。

ローマ書6章の文脈で、パウロは「死からいのちへ移された者たち」のアイデンティティを繰り返し強調します。「自分を罪には死んだ者、神には生きた者として考えなさい」(ローマ6:11)。張ダビデ牧師はこれを「一度死を通過して再び生きた者は、もはやこの世の欲望や恐れに縛られない」という考え方にまで広げて解釈します。一度死を体験した者は、新しい次元の生き方を生き、魂のうちに大胆な自由があるというのです。そして、この大胆な自由こそ「罪の欺瞞的な約束」にもはや振り回されず、「義の道へ進むための推進力」を与えてくれます。そしてこの推進力が、最終的に教会共同体において「共に歩む信仰の旅路」として具体化される、と張牧師は言います。

特に張牧師は、韓国教会や世界の宣教現場において、個人の救いだけを強調するあまり「義の武器としての使命」を忘れてしまった例が多いことを指摘してきました。彼は「神にささげられた者」たちが教会の内外でどのような役割を果たすべきかを具体的に提示します。たとえば奉仕や宣教、救済や分かち合いの生活は、私たちの身体が「義の武器」となって神の国を広げる働きに用いられる代表的な例です。これは困窮し苦しむ人々を支える具体的行動や、居場所のない社会的弱者を助ける実践、そして真理を知らない人々に福音を伝える使命など、多岐にわたって表れます。

張ダビデ牧師はここで非常に重要な原則を示します。「私たちが既に義とされたのは、まったくの恵みの賜物によるが、それを享受するだけで終わるのではなく、神のご性質に似た姿へ変えられていく人生の実を必ず結ばなければならない。」 ローマ書6章でパウロが言う「聖潔に至る実」(ローマ6:22)は、個人の道徳的純潔や敬虔さだけを意味するのではなく、教会や社会の中で神の正義と愛を広げる生きた実践のことを指す、というのです。そうして結ばれた実が教会共同体の中で互いに励まし合い、私たちの身体を義の武器として神にささげる生き方を継続的に訓練し、広げていくことになるのです。

このとき張牧師は、「決して過去の失敗や罪責感に縛られてはならない」と力説します。すでに私たちは罪に対して死んだ存在であり、キリストにあって生かされた者なのだから、過去を抱えて嘆き続けたり、罪悪感に苦しみ続ける生き方は聖徒の歩みではない、というのです。むしろパウロが言うように(ローマ6:4)「新しいいのちにあって歩むべき」であり、「救いを成し遂げていく聖化の道」を大胆に歩む必要があります。これを実行するために、教会共同体のなかで互いに祈り合い、罪の習慣を断ち切り、善なる性質を養うためのさまざまな養育プログラムや弟子訓練、社会的奉仕や分かち合いの活動などを積極的に展開していくよう勧めています。

結局、ローマ書6章全体を通してパウロが示そうとしている核心的メッセージは、「罪の奴隷状態から解放され、神の奴隷となった私たち――キリスト・イエスと結ばれバプテスマを受け、新しいいのちへと召された私たちは、今どう生きるべきか」という問いへの答えだと言えます。張ダビデ牧師の教えも同じ文脈に沿っており、称義と聖化を明確に区別しながらも、この二つをけっして切り離してはならないと説きます。私たちは一度きりで決定的な出来事としての称義により救いの身分を得て、その恵みによって肉の欲と戦いながら聖霊の助けのうちに漸進的な聖化をなし、教会共同体とともに義の武器として神の国を実現する道を歩むのです。

そして最終的な結論は、パウロがローマ書6章23節で提示するように、「罪の報酬は死だが、神の賜物は永遠のいのちである」という絶対的で永遠の対比です。張ダビデ牧師は「結局、私たちが握る希望は永遠のいのちであり、それはキリスト・イエスにあって無償で与えられる恵みの賜物なのだ」とまとめます。まさにこの永遠のいのちを見据える信仰が、いまここにある苛烈な人生を生き抜く原動力であり、「義の武器として神にささげる」喜びと感謝の源泉だと語るのです。


以上の三つの小主題を通して、ローマ書6章の講解をパウロの本文解釈とあわせ、張ダビデ牧師の主な教えと視点を組み合わせて整理しました。要約すると次のようになります。

  1. 罪にして死に、キリストにあって生きるみの身分化(義)
    • 罪と死の法則の下にあった私たちが、恵みによって「称義」を得て、まったく新しい身分を手に入れた。これはキリストの死と復活にあずかったことを洗礼を通して象徴的に確認するもの。
    • 張ダビデ牧師は、称義を「身分の変化」と説き、過去の罪に対する完全な解決であり、もはや罪が私たちの運命を決定しえないことを意味すると強調。
  2. 身体を支配するための苛烈な聖化の過程(戦闘)と、みの下にあるという自
    • 救われた信徒であっても「死ぬべき身体」を通して罪の誘惑が入り、サタンは不法に私たちを占拠しようとする。
    • 張ダビデ牧師は、真理のうちにとどまり、聖霊の力によって身体の欲望を治める訓練を絶えず行うよう訴える。自分が「恵みの下にある」と確信するとき、罪が私たちを支配する法的根拠は消え失せ、具体的な生活の現場で罪を退け、義の武器として用いられる道が開かれると説く。
  3. 義の武器として神にささげる生き方と共同体的使命
    • 単に個人の敬虔さや倫理的清さにとどまらず、教会共同体と社会で神の義と愛を示す積極的な奉仕や行動へ広がっていく。
    • 張ダビデ牧師は、私たちがすでに「義の奴隷」であるという事実をしっかりと握りしめ、神の所有としてこの地に神の御心を実現していく献身こそ「新しいいのちにあって歩む道」だと説く。
    • 罪の報酬は死だが、キリストにあって受け取る神の賜物は永遠のいのちであり、最終的に私たちが歩む聖なる生き方の方向性と究極的な希望を決定づける核心的真理であると結論づけている。

張ダビデ牧師は、この全プロセスを「イエス・キリストの十字架から始まり、永遠へと続く救いの大河ドラマ」になぞらえながら、はじめから終わりまで神の全き恵みと愛が私たちを支えてくださるが、その間における人間の責任ある決断と従順もまた実際に働かなければならないと、繰り返し語ってきました。ローマ書6章は、この長い旅路の中心にあって「死からいのちへ、罪の奴隷から義の奴隷へ移された」私たちの霊的な秘密を宣言する、極めて重要な章なのです。

結論として、ローマ書6章全体から浮かび上がる中心的メッセージは次のように要約できます。
神はイエスキリストの死と復活によって罪の支配から解放された私たちを、二度と昔の奴隷態にらせないために召されました。そして私たちの身体と人生を余すところなく神にささげ、聖潔と善きを結ぶよう導こうとしておられます。 張ダビデ牧師は、これを「救われた者の特権であり使命」と呼び、私たちの存在理由、人生の目的は「義の武器となって世を変えていくこと」にあるのだと、改めて思い起こさせます。そしてこの道を歩むとき、かつて罪と死が支配していた世界とは根本的に異なる次元の輝かしい未来、すなわち「永遠のいのち」という賜物を享受するようになるのだ、と確信をもって勧めるのです。

このように、張ダビデ牧師のローマ書6章の解説は、称義と聖化がいかに有機的につながっているかを示すと同時に、キリストの死と復活にあずかった信徒が、実際に身体をもって神に仕える生き方をするとき、どのような実を結ぶのかを細やかに描き出しています。ローマ書6章はパウロの福音の要約書とも言うべき章であり、張牧師の解説もまた、それを豊かに理解するための牧会的・実践的なガイドの役割を果たしていると言えるでしょう。

救いの恵み – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 人間の罪と神の

張ダビデ牧師は、エペソ書2章の中心テーマを説明する前に、まずエペソ書1章でパウロが記している賛美と感謝の理由を強調する。エペソ書1章でパウロは「天にあるもの、地にあるものすべてをキリストにあって一つにまとめようとしておられる」(エペソ1:10)と語るが、これは単なる個人救済を超えた「歴史の大いなる方向性」を示す箇所だと説き明かす。張ダビデ牧師は、歴史がB.C(紀元前)とA.D(紀元後)に区分されるという事実自体が、キリストの到来が歴史の核心的出来事であることを意味すると解釈する。歴史は「キリストにあって一つにまとめられていく壮大な過程をたどっている」のであり、これこそが「終末論的ビジョン」であり「新しい始まり」を意味するのだ。

こうした歴史の大きな流れの中で、張ダビデ牧師は教会に初めて来た人々に対して、通常「創造-罪-キリスト-救い」で要約される“四霊理(사영리)”を教えるが、そこに「神の国」を付け加え、「創造-罪-キリストによる救い-神の国」と拡張して紹介する。聖書全体が結局は神の国を回復し完成へと導く方向で展開しているからである。彼によれば、神の国はイエス・キリストの初臨と十字架の贖いを通して始まり、現在もなお拡大し、最終的に完成へと至る。そのためキリスト教の信仰は、単なる個人救済にとどまらず、「歴史の救い」という広大な次元の中で、究極的に神の国が到来することを見据えるよう促すのだという。

張ダビデ牧師は、エペソ書1章においてパウロが「賛美すべき理由」があったと述べるように、救いの恵みを受けた者には自然と賛美と祈りがあふれると解説する。実際、エペソ書1章は賛美と祈りに満ちている。そして「私たちが何を願って祈るべきかを示す模範的な祈りが、まさにパウロの祈りである」とし、とりわけエペソ書1章後半に見られるパウロの祈りの内容に注目する。その祈りは表面的な願望ではなく、神の救いの計画と統治、そして人間の霊的な知恵と啓示の霊を求める高度な要請である。つまりパウロは「あなたがたの心の目を開いてくださるように」という表現を通して、単なる知識ではなく、「心の覚醒」を通した神の御心の理解を願っている。

この文脈の中で、張ダビデ牧師は自然と人間の堕落と罪の問題へと視線を移す。本来、神は美しい世界を創造され、特に人間を神のかたちとして造り「極めて良かった」と評価されたにもかかわらず、人間は罪によって堕落し、神との関係が断絶し、無秩序と混沌の中に陥ってしまったというのだ。これはサムエル記上15章23節でサムエルがサウルに対して「王が主の言葉を捨てたので、主も王を捨てられた」と告げた言葉と並行して考えられ、人間が「自分から神を捨てたこと」が根本原因だと説く。張ダビデ牧師は「これこそ聖書が教える深い世界」であるとし、人々は神から離れて罪を犯しつつも、むしろ神に捨てられたと思いがちな傾向を指摘する。だが実際は人間が先に神に背を向け、それゆえに御怒りのもとに置かれる存在となったのだという。

にもかかわらず、罪人に対する神のあわれみと愛は尽きることがなく、神は罪の中にある人間を生かすために御子を送り、「独り子を与えられた」(ヨハネ3:16)という福音へと人類を招かれた。張ダビデ牧師は、イエス・キリストの十字架の出来事が「贖い(Redemption)」の出来事であることを強調する。古代の背景(奴隷を身代金を払って買い取り、自由を与える概念)をもつ「贖う」という言葉のように、イエス様がご自分の命という最も尊い代価を支払うことによって、罪の奴隷状態にあった人間を解放してくださったというのだ。こうして張ダビデ牧師は「創造-罪-キリスト-救い」という典型的な四霊理に加え、聖書全体が「最終的に神の国へ帰結する」という大前提を提示し、エペソ書が示す「キリストにあって万物を一つにされる」神の救いの御業がいかに壮大で明確であるかを説き示す。

その結果、エペソ書1章の結論は「賛美」と「祈り」で要約される。パウロの告白が示すように、罪人である人間が神の恵みによって救われたのだから、心の奥底からあふれる賛美が湧き出し、さらにその恵みをいっそう大きく悟り体験することを願う「聖なる祈り」が自然に続くという解釈である。張ダビデ牧師はこのように「恵みに対する認識」が深まるほど、人間の祈りは神の国と歴史の救いを見据える広い視野を獲得すると説明する。この点こそ、エペソ書がもつ独特のスケール感、すなわち「歴史と救い」を同時に貫く書簡の特徴でもあるのだ。


Ⅱ. 過ちと罪、そして救いの確かさ

続いて張ダビデ牧師はエペソ書2章に入り、2章1節に登場する「過ちと罪のゆえに死んでいたあなたがたを生かしてくださった」という宣言がもたらす劇的な逆転を強調する。パウロはすでにエペソ書1章の最後で「歴史は究極的にキリストにあって一つにまとめられる」と宣言していたが、2章に至って、その統合の過程がいかに「死から命へ移される変化」であるかをありのままに示すからである。

まず2章1節で語られる「過ち(παράπτωμα, パラプトーマ)」と「罪(ἁμαρτία, ハマルティア)」の区別に注目する。張ダビデ牧師によると、「過ち」は「軌道を逸脱する(fall away)」という意味をもち、人間には本来歩むべき道(軌道)があったにもかかわらず、それを外れてしまった点を示すのだという。宇宙万物は太陽を中心にそれぞれの公転軌道をもち、自然界や動植物ですら与えられた法則に従って動いているのに、こと人間だけが、自分に与えられた創造の秩序と道を逸脱してしまったというわけだ。一方「罪(ハマルティア)」は「的を外す(missing the mark)」という語源をもち、的の中心を射止められないことによってすべてがこじれてしまう状態、すなわち無秩序と混乱を意味する。

張ダビデ牧師は「かつてはその中を歩き、この世の流れに従い、空中の権威をもつ支配者に従っていた…」(エペソ2:2)という節が示すのは、人間が単に個人的な罪性に留まるのでなく、「空中の権威をもつ者(サタン)」が支配する世の流れに流されて生きる構造的な罪悪を示唆している、と解説する。つまり人々は罪という存在を神と無関係のもの、あるいは自分たちの間だけの問題だと考えることもあるが、聖書はその背後に空中の権威をもつ悪しき霊がいて、その勢力が世の風潮(イデオロギー、文化、価値観など)を支配することで「罪の潮流」を極大化させるのだと言うのだ。エペソ教会があったエペソの町は、大きな女神アルテミス神殿を中心に性的退廃と偶像崇拝が盛んだった。張ダビデ牧師はその点を指摘し、当時の人々が「偶像崇拝と淫乱、堕落した文化に染まりきって生きていた」ことを理解すべきだと語る。そう考えると、エペソ書で言われる「世の流れに従い、空中の権威をもつ者に従う姿」は、決して抽象的な話ではなく、当時きわめて現実的な問題であったことがわかる。

さらに張ダビデ牧師は、エペソ書2章3節の「本来、生まれながらにして怒りを受けるべき子ら」という表現が、ローマ書1章でパウロが「不義によって真理を覆い隠している人々に対して神の怒りが下る」と語った流れと一致すると指摘する。現代人は「神の怒り」と聞くと、しばしば「神の愛」と相反する概念だと誤解しがちである。だが張ダビデ牧師によれば、神が怒られる理由は「人間が神を捨て、自ら不義と偶像崇拝を行い、互いを傷つける罪の中に落ち込んだから」である。つまり神の怒りは、愛の反対というよりも、聖なる神が罪を憎まれる本質的な態度であり、回復のための「正しい裁き」なのだ。人間はみずから軌道を逸脱して生まれながらに御怒りの対象となったが、それと同時に神は人間をあわれみ、ふたたび救う道を備えてくださる――これがエペソ書2章が告げる逆転のメッセージだ。

「しかしあわれみに富んでおられる神は、私たちを愛してくださったその大きな愛によって、罪のゆえに死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました…」(エペソ2:4-5)という節において、張ダビデ牧師は救いが神の恵みによることを重ねて強調する。人間が神から離れたのにもかかわらず、神は人類を見捨てることなく、ついには御子をさし出すほどの極端な犠牲をもって罪人に永遠の命を許してくださったというのだ。だからこそエペソ書2章8-9節で「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのです。これは自分たちから出たことではなく神の賜物です。行いから出たのではありません。だれも誇ることのないためです」とはっきり語られる。ここで張ダビデ牧師は「私たちが救われたのは完全に神の賜物であって、私たちの行いや功績、義によって受けるものでは決してない」という点を忘れてはならないと力説する。

救いの本質が「行いに先立つ恵み」であることを示すために、張ダビデ牧師は「Sola Gratia(恩恵のみ)」を引き合いに出し、宗教改革の時代から強調されてきた「恵み」と「信仰」の関係を喚起する。まず恵みがあり、その恵みを受け取る通路が「信仰」なのだから、私たちがどれほど正しい行いを積もうと、それが先になることはできないのだ。パウロも「それゆえだれも誇ることはできない」(エペソ2:9)と断言する。張ダビデ牧師はこれを「ぶどう酒に水を混ぜることはできないように、決して恵みに行いや功績を混ぜてはならない」とたとえ、救いの絶対性こそクリスチャン信仰の基盤だと強調する。

さらに「私たちは神の作品である」という表現(エペソ2:10)のギリシャ語「ポイエーマ(ποίημα)」を分析し、「キリストにあって新しく創造された存在」という意味を深く掘り下げて語る。張ダビデ牧師はここで「新しい創造物」(第二コリント5:17)になったことをあらためて述べ、救いとは単なる罪の赦しや刑罰の免除にとどまらず、存在自体が新しく造りかえられる根本的な再創造だと捉える。そして救いの目的を「良い行いをするために造られた者」(エペソ2:10)という言葉につなげていく。つまり、恵みによって救われた者たちは、神があらかじめ備えてくださった「良い行いをする生き方」を歩むよう召されているということだ。張ダビデ牧師はこの箇所を通して、クリスチャンが世の中でどのような姿勢で生きるべきかがはっきり示されると語る。信仰によって恵みにより救われた者は、「結局、善を行ない、世で光と塩となり、神が用意しておられる道を喜んで歩む人々になるべきだ」というのだ。

このようにエペソ書2章1-10節の「死から命への転換」は、過ちと罪によって軌道を外れ、的を外していた人間を、主が「キリストにあってもう一度呼び起こしてくださった」という一言に要約される。張ダビデ牧師はこれこそ「私たちが生涯感謝し賛美すべき福音の核心」だと力を込めて語る。すべてが絶望的で無意味に見えた罪びとの人生に、神の深いあわれみと愛が注がれて「ともに生かし、ともに起こし、ともに天上に座らせてくださる」栄光にあずからせてくださったのだから、私たちの人生全体が感謝の歌となりうる、というわけである。


Ⅲ. 「神の」を目指す確信

張ダビデ牧師は、エペソ書1~2章を貫く主題を「歴史の終わりであり新しい始まりでもあるイエス・キリストの到来」とまとめる。エペソ書1章10節で「天にあるものも地にあるものもすべてキリストにあって一つにまとめようとしておられる」と語るとき、それはすなわち歴史がどこへ向かうのか、その終着点が何であるのかを明らかにする御言葉であるというのだ。イエス・キリストは旧約の結論であり新約の始まりであり、「アルファでありオメガである」という黙示録の宣言のように、歴史の起点であり完成点として存在する。張ダビデ牧師はテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)の「オメガポイント」の概念を引き合いに出し、「旧約のオメガポイントがイエス・キリストであるなら、新約のオメガポイントは神の国である」と語る。結局、終末とは「古い歴史が終わり、新しい歴史が始まる時点」であり、それはイエス・キリストの初臨によってすでに始まったのだとみなす。

こうして歴史は、ただ流れ去って消えていくだけの無意味な川の流れではなく、「キリストにあって神の国へと収束」していく計画された旅路なのである。張ダビデ牧師は、この確信のもとでパウロが使徒の働き28章に至って「神の国とイエス・キリスト」を伝えたと記録されていることを思い起こさせる(使徒28:31)。さらにイエスが復活して昇天される前、弟子たちが「イスラエルの国を回復してくださるのはこのときですか」(使徒1:6)と問いかけた中にも「国の回復、すなわち神の国の完成を待ち望む思い」が込められていたと解説する。新約の時代を生きるクリスチャンにとっても同様に、この国はすでに始まっているが、まだ完成していない状態でなお広がり続けており、祈りの場で「御国が来ますように」と願うのは、まさにこの「終末論的確信と現在的参加」を意味するのだ。

結局、エペソ書でパウロが語る「古い罪の歴史は十字架によって終末を迎え、新しい命の歴史が始まった」という宣言は、現代の教会が「どのような歴史観を抱いて生きるべきか」を示すものでもある。張ダビデ牧師は「歴史がどこへ向かっているかわからなければ、自分の船がどちらを目指しているかもわからないまま漂流することになる」というたとえを用いて、クリスチャンは「はっきりした目的地」、すなわち「神の国の完成」を見据えて生きるべきだと力説する。つまり、キリストにあって私たちの人生と働きは「歴史の大きな流れ」に参加する行為であり、私たちが置かれた世のただ中にあっても、この国はからし種のように少しずつ成長し、パン種のように粉全体を膨らませるように影響力を広げていくのだ(マタイ13:31-33)。

張ダビデ牧師は、このように歴史の救いと神の国の到来を確信する者たちから自然にあふれ出る霊的態度こそが「賛美と感謝」だという。エペソ書1章でパウロが自分の生をそのまま賛美として告白しているように、それは「賛美せざるを得ない理由を明確に認識していた」からだと見る。この賛美の理由は、単なる心理的慰めのレベルではなく、罪に陥って死んでいた者を「恵みによって救い出してくださった」救いの出来事に対する感激からくる。すべての人は「本来、怒りを受けるべき子ども」だったが、世の流れと空中の権威をもつ者にとらえられてもがき、自力では決して救いに至れなかった。しかしイエス・キリストが十字架で「差し出される」ことによって、人間は「ただで」救いを受け、結果として罪と死の権威を打ち破る力強い命へと再び起こされた。これへの感謝が賛美となるのである。

さらにこの恵みを経験した者たちは、感謝の姿勢で世に仕えていく。張ダビデ牧師はエペソ書2章10節の「良い行いをするために造られた」という部分に言及し、感謝と賛美は決して口先だけではなく「行動として結実すべきである」と解釈する。「罪人の頭」であったパウロがその恵みを悟って、生涯をかけて福音を伝えたように、現代を生きる信徒たちもまた「かつての罪から救われた恵みに感謝して、今は善を行ない、神の国の拡大に寄与する生き方」をしていかなければならないというのだ。それは私たちの力によるのではなく、「キリストとともに」天上に座らされ、「キリストとともに」権威を与えられたことを悟るとき初めて可能になる生き方である。だからこそ張ダビデ牧師は「私たちを救われた目的とは、究極的に神があらかじめ備えておられる道に従って善を行わせることであり、その中で神の栄光が現れるのだ」と結論づける。

結局、エペソ書2章は私たちに尽きない感謝と賛美を呼び起こす「恵みの章」である。私たちがどれほど自分は生きていると思っていても、神の視点から見れば罪のために死んだ状態であったのが、いまはキリストにあって真のいのちを得たのだから「新しく生きるのが当然だ」という教訓を与える。張ダビデ牧師は、これこそ「エペソ書が伝えてくれる福音の宣言」であり、また「壮大かつ深遠な神の救いの御計画を実践的に理解する鍵」だとまとめる。かつて罪によって軌道を外し死んでいた者たちが、今やキリストにあって新しい創造物として造られ、良い行いへと召されているという事実に、すべてのクリスチャンの存在理由と召命が明らかにされるのだ。そしてこの事実を握るとき、私たちが生きる現実がいかに暗く見え、サタンの権威が大きく見えようとも、歴史はすでに「キリストにあって決定された未来」へ向かっていることを確信できるのである。

このように張ダビデ牧師はエペソ書2章を通して、「過ちと罪のゆえに死んでいた者がイエス・キリストとともに生かされ、天上に座らされるに至った」という福音こそ、私たちの「永遠の歌と祈り」となるべきだと強調する。その賛美と感謝は教会共同体をさらに霊的に健やかにし、ひいては世に対して善い影響を及ぼし、究極的に「神の国の回復」というゴールに向かって歩ませる原動力になるというのだ。彼はいつもこのメッセージを伝えつつ、「私たちが乗っている船の終着点は明らかだ。それは神の国である。イエス・キリストにあってすべては一つに集められ、古い歴史はキリストの十字架と復活によって終わりを告げ、新しい歴史はすでに始まっている。ゆえに揺らぐことなく歩みなさい。恵みによって救われたあなたがたは、善を行ない、賛美し、感謝する者となりなさい」と結論づけて勧める。

張ダビデ牧師が語るエペソ書2章のメッセージは、まさに教会のアイデンティティとクリスチャンのアイデンティティをあらためて喚起する営みでもある。「あなたがたはかつて死んでいたが、今は生きる者となった。キリストとともに生かされ、最終的には神の国を望みつつ、この地上で善を行なうよう召されている」という事実を握ることこそ信仰の核心だというのだ。そして、その核心から生まれる感謝と賛美、そして確信が、私たちの人生全体を新たにし、さらに神が備えておられる道の上で世に対する福音の証しとなる、と張ダビデ牧師は繰り返し強調する。そういう意味で、エペソ書2章はイエス・キリストにあって展開された「死から命へ、怒りから恵みへ」と移されたすべての人の告白であり証しでもある。そしてその最終目的地は「神の国」であるという揺るぎないビジョンだ。キリストによって救われた私たちは皆、この壮大な歴史の行進に参加する特権を与えられ、それゆえ賛美と感謝がふさわしいという結論が、張ダビデ牧師が示すエペソ書2章における最も本質的なメッセージなのである。

パウロの証と福音の普遍性――張ダビデ牧師

1. 使徒行伝22章の歴史的背景と張ダビデ牧師の神学的解説

 張ダビデ牧師は使徒行伝22章を解説するにあたり、まずは使徒行伝21章の最後の節と22章の冒頭に示される歴史的背景を深く考察する。本箇所は、パウロがエルサレム神殿で逮捕された直後、千人隊長の前で自分に対して激怒するユダヤ人の群衆に対し、ヘブライ語(アラム語)で弁明する場面を描いている。張ダビデ牧師は、こうした言語的背景が単なる意思疎通の問題を超えて、当時のユダヤ社会やエルサレム神殿に集っていたディアスポラのユダヤ人、そして宗教的熱心に満ちた群衆に対して、心理的・情緒的な衝撃を与えただろうと強調する。パウロが自分は正統的ユダヤ教バリサイ派の出身であり、ガマリエルの門下生だったと明かした際、彼らが驚いた可能性が高いと指摘し、こうした言及を通じてパウロが自身の背景と正統性を先に弁明する、一種の序論を提示したのだと見なしている。

 続いて張ダビデ牧師は、エルサレムへと押し寄せた人々の怒りがなぜこれほどまでに大きかったのかに注目する。パウロが神殿に入るとき、異邦人を伴っていたと誤解されたことが直接的な原因ではあるが、より根本的には、パウロが異邦人にも福音が宣べ伝えられるべきだと主張したことが拒否感を引き起こしたのだという。当時のユダヤ人社会にはローマ帝国の支配に対する多様な反応が存在していた。サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派、熱心党(ゼロテ)が代表的な例である。張ダビデ牧師は、この四つの主要な潮流がそれぞれローマとの関係をどう結び、またいかに神の国を待望していたのかを解説する。サドカイ派は貴族階級と祭司を中心とし、ローマ権力とある程度協力関係を保っていた。パリサイ派は徹底的な律法遵守によって清さを保ち、罪のない生活により神の国が到来すると信じた。エッセネ派は荒野へ退き、世俗から分離された急進的な禁欲生活を営みながら、罪に満ちた世のただ中へ入るよりも共同体の純粋性と敬虔さを守ろうとした。熱心党は武力闘争を辞さずにローマの勢力を駆逐して神の国を早めようとする過激な集団だった。パウロはパリサイ派出身として自治と律法を重んじていたが、主の召しを受けた後には、異邦人にまで福音が宣べ伝えられるべきだという聖霊の導きに従うようになる。

 張ダビデ牧師は、このような宗派的・政治的背景をさらに深く照らし出しながら、当時の争いの中心にいたパウロがどのような論理と言証をもって自己を弁明していったかを丹念に辿る。パウロはまず、自分がユダヤ教でも高く尊敬される都市タルソスの出身であり、ガマリエルのもとで厳格に律法教育を受けたことを述べる。これは単なる異端的主張をもつ人物ではなく、ユダヤの伝統と律法教育を徹底的に受けた者であることを証明する意図的な発言だったと、張ダビデ牧師は解説する。さらにパウロは、ピリピ3章5節を想起させる形で、自分が八日目に割礼を受けた正統なユダヤ人であり、ベニヤミン族、ヘブライ人の中のヘブライ人、そして律法においてはパリサイ人であったと明言する。これはパウロがもつ資格を総動員し、自分が“背教者”や“異端の教祖”ではなく、むしろ誰よりも律法に熱心だったことを強調する文脈である。

 パウロは自らを弁明しつつ、「自分もかつてはあなたたちと同様、熱心に燃えていた」と告白する。かつてはイエスの道、すなわち「この道」に従う者たちを迫害し、殺すことさえ辞さなかった自分が、今はまったく異なる道を歩んでいると証言するのである。特にパウロがステパノの死に直接関わり、彼を殺す者たちの衣服を預かっていた点、エルサレムの大祭司と長老たちの公文書を受けてダマスコまで人々を捕らえに行こうとしていた事実が、パウロ自身の口から改めて語られる。張ダビデ牧師によれば、これによりパウロがいかに徹底的にイエスの共同体を撲滅しようとしていたかが明らかにされるという。ユダヤ人聴衆もこの点はよく知っていたため、容易には反論できなかったに違いない。

 張ダビデ牧師は、パウロがダマスコ途上で主の声を聞いた出来事を非常に重要視する。そこでの「大いなる光」がパウロの存在と思考を根底から揺さぶり、そのとき地に倒れたパウロに「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という主の厳しい声が直接に響いた点を強調する。パウロは誰を迫害していたのか。まさに「ナザレのイエス」である。これが決定的な転機となり、パウロは三日間視力を失い、深い悔い改めと沈黙の時を過ごす。その後、アナニアから洗礼を受けることで回復し、自身の使命を明確に自覚する。ここで張ダビデ牧師は、選びと啓示に関する神学を同時に提示する。神は罪深く邪悪な者であっても回心の対象とされる――それは福音の神秘であり、「罪の増すところに恵みもいよいよ増し加わる」という、後にパウロがローマ書で説いた真理がすでに内包されているという。

 アナニアの勧告である「兄弟サウロよ、再び見よ」という言葉は、単なる視力の回復を超えた信仰的視野の大転換を意味する。さらに「躊躇せずに主の名を呼び、洗礼を受けて罪を清めよ」という呼びかけは、従来のユダヤ教的儀式とは本質的に異なる、イエス・キリストを中心とした信仰告白を前提としている。パウロはこうして自分の回心過程を会衆の前で事細かに語ることを通じ、ローマ帝国の支配下でサンヘドリン(ユダヤ最高法院)の宗教裁判権を行使していた当時のユダヤ指導者たちの性質を浮き彫りにするとともに、パウロ自身がいかに正統性をもった人物であるかを示そうとしたのだ。張ダビデ牧師は、パウロの証が単なる自己防御ではなく、「誰であってもイエス・キリストの光によって根本的な回心が可能だ」という福音の本質を宣言する伝道的行為でもあったと評価する。

 また張ダビデ牧師は、パウロがエルサレム神殿に戻った後に見た幻のエピソードを特に重視する。神殿で祈っている中、「急いでエルサレムを去れ。彼らはおまえの証を受け入れないだろう」という主の声を聞いたとパウロは語る。ここでパウロは、エルサレムでの福音宣教が極めて困難になることを悟った。しかし、パウロにとってエルサレムはもっとも宣教したい場所であり、同胞やかつての仲間に新しい道を示したいという強い願いを抱く場所でもある。ゆえに「なぜ自分が迫害していたイエスを今こうして伝えるのか」をはっきり説得したかったはずだと張ダビデ牧師は推察する。ところが主は「わたしはあなたを遠く異邦人へ遣わす」と宣言し、これがユダヤ人の聴衆の怒りを爆発させる決定打となった。彼らは、パウロが異邦人に福音を伝えるという発想そのものが先民思想と根本的に衝突するとみなし、「こんな男は生かしておけない」と叫んで暴徒化してしまう。張ダビデ牧師は、これこそ歴史的残虐さと宗教的排他意識が結びついた典型例だと指摘する。結局、パウロはローマ市民権を明かすことで違法な拷問や鞭打ちを逃れることができる。世俗帝国の法が宗教的過激主義からパウロを守る結果になったのはなんとも皮肉だと張ダビデ牧師は解説する。

2. パウロの証と選びの教理に関する張ダビデ牧師の解説

 張ダビデ牧師は、本箇所に示されるパウロの証を中心に、選びの教理がもつ神学的意義を掘り下げて説く。パウロはダマスコ途上で経験した劇的な回心をありのままに証言するが、かつての彼は熱心な宗教人ではあったものの、その熱心さは自分の民と伝統を守るための暴力へと結実していた。エルサレムの大祭司と長老たちからの公文書を受け取り、「この道」に属する人々を逮捕・投獄し、さらにステパノを石打ちにする際に先頭に立つほどであった。ところが「大いなる光」と呼ばれる神の介入によって彼はイエス・キリストと直接出会い、三日間視力を失う中で自分の罪深い行いを悔い改め、新しい一歩を踏み出すこととなる。

 張ダビデ牧師は、パウロが自分の選びと召しを決して自分の意志や努力によって勝ち取ったものではなく、ただ神の恵みによるものであると常に強調してきた点に注目する。パウロは「神はあらかじめ知っておられた人々を召し、召した人々を義とされた」(ローマ8章)や、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのだ」(ヨハネ15章)などの聖句を引用しながら、自分の回心の神学的意義を再三明らかにしている。すなわち、パウロの回心は彼の内面の自覚や功績によるものではなく、まったく神の主権的介入と恵みに基づくものであったということである。

 この流れで張ダビデ牧師は「罪の増すところに恵みもいよいよ満ち溢れる」というパウロの有名な宣言を重ねて取り上げる。ステパノの殉教に積極的に関わり、多くのキリスト者を牢に閉じ込めようと躍起になっていたパウロこそ、当時の教会共同体にとっては恐るべき迫害者そのものだった。ところが、神はまさにそのパウロを「異邦人の使徒」としてお選びになった。これは人間の基準や道徳的資格をはるかに越える神の恵みの顕現であると解説する。アナニアもまた、当初はパウロに会うことをためらったが、「これはわたしの選んだ器である」という主の決定的宣告を受け、従わざるを得なかった。この出来事は、私たちがどんな罪や暗い過去を背負っていようと、主が選ばれたなら、その者を用いることがおできになるという福音の核心を示す。

 では、こうした“選び”がなぜパウロの“自発的”な部分と結びつくのか。張ダビデ牧師は、パウロが回心後すぐに祈りに入り、断食を続けたまま三日間を過ごした点を重要視する。これは単に肉体的な苦痛というより、神の前で自分の過去を振り返り、赦しを願い、今後の人生を明け渡す完全なる服従の時間だった。「主よ、私は何をすればよいのでしょうか」という問いこそ、選ばれた者が取るべき最も基本的な応答であり、そういう意味でパウロは神の召しに積極的に応じたといえる。張ダビデ牧師は、回心は従順へと続いていかなければならないと強調する。人間の努力によって救いを得ることはできないが、選ばれた者には聖なる責任と新しいアイデンティティが与えられるというわけだ。

 またパウロが自分を語るとき常に「私は罪人であり、イエスを迫害した者」であると繰り返すのは、この“恵みの選び”をより鮮明に示すためだと張ダビデ牧師は説明する。選びは傲慢を生むのではなく、むしろ自己を低くする謙遜と感謝をもたらすのだ。パウロはピリピ3章でも、世間的な経歴や律法的プライドを「ちりあくた(糞土)」とみなす。かつての地位や学問的名声、熱心では決して救いに達しない、ただイエス・キリストを知ることこそ最もすぐれているという結論に至ったからであり、その原点が使徒行伝22章におけるダマスコ途上体験とアナニアの導きによる洗礼・視力回復だったと張ダビデ牧師は説き明かす。

 まとめると、張ダビデ牧師はパウロの証が単なる個人的回心の物語にとどまらず、選びと恵みが歴史をどう変えるのかを示す重要な具体例だと強調する。かつて福音の最大の迫害者であったパウロが、最も力強い福音宣教者へと変貌していく過程は、聖霊が人を召し、変革し、福音の普遍性を告げ知らせる器として用いられる様子を鮮やかに示している。熱烈なユダヤ教徒であったパウロが、異邦人の使徒へと転身するこの劇的な逆転は、まさに「神の召しと選びが人を根底から変え、福音の普遍性をもたらす」ことをはっきりと示す。しかもそれは決してパウロだけの特別例にとどまらず、現代に至るまで生きた福音の力だと張ダビデ牧師は力説する。

3. エルサレムの葛藤、異邦人包容、そして福音の普遍性

 張ダビデ牧師は使徒行伝22章の後半部分、激しい怒りを爆発させるユダヤ人群衆の様子から、福音の普遍性に関する逆説的なメッセージを見いだす。「わたしはあなたを遠く異邦人へ遣わす」というパウロの言葉が口にされた瞬間、彼らはそれ以上パウロの話を聞かず、「こんな男は地上から取り除いてしまえ」と叫ぶ。これは単に異邦人との交わりの問題にとどまらず、神の支配と救いの範囲を一民族・一宗教共同体内に閉じ込めようとする独善が、いかに大きな反発と暴力をもたらすかを如実に示す。張ダビデ牧師は、彼らの怒りが彼らの“熱心”の裏返しでもあると解説する。それほどまでに先民の意識を守り、律法を至上とし、モーセの伝統を維持してきた人々にとって、異邦人も恵みの対象たり得るという宣言は受け入れ難い衝撃だったのである。

 ところが皮肉にも、この場面でユダヤ人指導者や群衆の手に捕らえられ、苦境に立たされたパウロを守ったのはローマ帝国の法律であった。千人隊長はパウロがローマ市民権を持つと知り、適切な手続きなしに鞭打ちできないことに気づいて恐れを抱く。張ダビデ牧師は、ここに「いったいどちらが文明で、どちらが野蛮なのか」という根源的な疑問が浮かび上がると指摘する。当時、最も整備された法制度を誇ったローマが“異端者”とみなされた福音宣教者を保護し、逆に神の律法を守るのに熱心だったユダヤ人たちは排他的かつ暴力的な姿をさらけ出した。これは人間の制度や民族的出自が自動的に正しい信仰や真理を保証するものではないことを強く示している。さらに先民としての誇りが、すでに排他性と暴力性へ歪められてしまった事例ともいえる、と張ダビデ牧師は批判的に論じる。

 そして張ダビデ牧師は、本箇所から教会が“新しい民”を目指さねばならない理由を次のような神学的視点で説明する。神がアブラハムの子孫を選ばれたのは、彼らを通して地上のあらゆる民族に祝福をもたらすためだった。しかし、しばしば彼らはその区別を隣人に仕え、真理を伝える通路ではなく、自分たちの宗教的優位性を誇る根拠としてしまう。それが極端な形で露わになったのが、使徒行伝22章後半における集団的暴力と怒りの場面だ。一方、福音はイエス・キリストの十字架と復活を通じて民族や言語、階層の壁を打ち破る普遍的性質を帯びている。パウロがローマ市民権を明かした際、ローマ当局者が彼を保護したという事実は、「福音がユダヤ人のみならず異邦人やローマ帝国の支配下にある人々にも開かれた機会である」ことを象徴的に示すと解釈することができる。

 やがてパウロは、この法的保護を得てローマへ赴き、皇帝の前でまで自らの使命を証言するに至る。これは歴史上どれほどの反発や葛藤があろうとも、福音が最終的に「地の果てにまで」(使徒1:8)宣べ伝えられるという御言葉が成就していくことを意味する。神は帝国の制度、軍隊、行政の仕組みさえも逆説的に用いて福音宣教を前進させるのである。ゆえに張ダビデ牧師は、教会が世俗権力そのものを絶対善と見なすことはできないが、ときとして神がその権力構造を通路とし、選ばれた器を守り、福音の宣教をより広範囲に促進されることがある点を認識すべきだと説く。

 さらに張ダビデ牧師は、現代の教会が本箇所を読む際、エルサレム群衆の暴力性と偏狭さを「他人事」とみなしてはならないと警告する。今日においても、宗教的排他主義や民族優越思想、教派間の対立が教会内外で争いを生み、福音そのものを歪める危険があるからだ。パウロが受けた「遠く異邦人へ遣わす」という神の召しこそが、実際の宣教史のスタート地点であり、教会が継続して取り組むべき普遍的使命であることを決して忘れてはならないと強調する。ユダヤ神殿の垣根を越えて異邦世界へと拡張していく福音は、「誰でもこの福音を聞いて信じるなら救われる」という普遍的約束を示している。その歩みを導くキーパーソンこそパウロであり、彼を召されたのがイエス・キリストである。この事実こそキリスト教信仰の核心であり、教会の存在理由だと張ダビデ牧師は結論づける。

 総合すれば、張ダビデ牧師が使徒行伝22章を通して伝えようとするメッセージは大きく三点に集約される。第一に、宗教的熱心と律法的厳格さがそのまま真の信仰を意味するわけではないこと。第二に、パウロの劇的な回心は神の絶対的主権と恵みの象徴であり、誰もが自分の功績によって救いに至ることはできないということ。第三に、福音は特定の民族・文化に限定されるものではなく、異邦人までも含む普遍性をもって拡大されるべきだという点である。エルサレムの群衆がこれを拒絶したとき、逆にローマの法制度がパウロを保護するに至ったという逆説は、神の摂理が政治・社会・歴史の構造さえも揺るがして福音を完成へと導くという驚くべき真理を示している。最終的に使徒行伝22章を読む読者は、「自分たちの内側にも偏狭さは潜んでいないか。神の普遍的救いの計画を妨げる要因にはなっていないか」という問いを突きつけられることになる。張ダビデ牧師は、この問いかけを通して教会が“新しい民”として生まれ変わるための内省と従順を促すのだ。そうした意味で使徒行伝22章は、教会と信徒がいつの時代も覚醒し続けるべき使命を再認識させる箇所であり、現代においてもその意義は決して小さくないと力説している。