パウロの証と福音の普遍性――張ダビデ牧師

1. 使徒行伝22章の歴史的背景と張ダビデ牧師の神学的解説

 張ダビデ牧師は使徒行伝22章を解説するにあたり、まずは使徒行伝21章の最後の節と22章の冒頭に示される歴史的背景を深く考察する。本箇所は、パウロがエルサレム神殿で逮捕された直後、千人隊長の前で自分に対して激怒するユダヤ人の群衆に対し、ヘブライ語(アラム語)で弁明する場面を描いている。張ダビデ牧師は、こうした言語的背景が単なる意思疎通の問題を超えて、当時のユダヤ社会やエルサレム神殿に集っていたディアスポラのユダヤ人、そして宗教的熱心に満ちた群衆に対して、心理的・情緒的な衝撃を与えただろうと強調する。パウロが自分は正統的ユダヤ教バリサイ派の出身であり、ガマリエルの門下生だったと明かした際、彼らが驚いた可能性が高いと指摘し、こうした言及を通じてパウロが自身の背景と正統性を先に弁明する、一種の序論を提示したのだと見なしている。

 続いて張ダビデ牧師は、エルサレムへと押し寄せた人々の怒りがなぜこれほどまでに大きかったのかに注目する。パウロが神殿に入るとき、異邦人を伴っていたと誤解されたことが直接的な原因ではあるが、より根本的には、パウロが異邦人にも福音が宣べ伝えられるべきだと主張したことが拒否感を引き起こしたのだという。当時のユダヤ人社会にはローマ帝国の支配に対する多様な反応が存在していた。サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派、熱心党(ゼロテ)が代表的な例である。張ダビデ牧師は、この四つの主要な潮流がそれぞれローマとの関係をどう結び、またいかに神の国を待望していたのかを解説する。サドカイ派は貴族階級と祭司を中心とし、ローマ権力とある程度協力関係を保っていた。パリサイ派は徹底的な律法遵守によって清さを保ち、罪のない生活により神の国が到来すると信じた。エッセネ派は荒野へ退き、世俗から分離された急進的な禁欲生活を営みながら、罪に満ちた世のただ中へ入るよりも共同体の純粋性と敬虔さを守ろうとした。熱心党は武力闘争を辞さずにローマの勢力を駆逐して神の国を早めようとする過激な集団だった。パウロはパリサイ派出身として自治と律法を重んじていたが、主の召しを受けた後には、異邦人にまで福音が宣べ伝えられるべきだという聖霊の導きに従うようになる。

 張ダビデ牧師は、このような宗派的・政治的背景をさらに深く照らし出しながら、当時の争いの中心にいたパウロがどのような論理と言証をもって自己を弁明していったかを丹念に辿る。パウロはまず、自分がユダヤ教でも高く尊敬される都市タルソスの出身であり、ガマリエルのもとで厳格に律法教育を受けたことを述べる。これは単なる異端的主張をもつ人物ではなく、ユダヤの伝統と律法教育を徹底的に受けた者であることを証明する意図的な発言だったと、張ダビデ牧師は解説する。さらにパウロは、ピリピ3章5節を想起させる形で、自分が八日目に割礼を受けた正統なユダヤ人であり、ベニヤミン族、ヘブライ人の中のヘブライ人、そして律法においてはパリサイ人であったと明言する。これはパウロがもつ資格を総動員し、自分が“背教者”や“異端の教祖”ではなく、むしろ誰よりも律法に熱心だったことを強調する文脈である。

 パウロは自らを弁明しつつ、「自分もかつてはあなたたちと同様、熱心に燃えていた」と告白する。かつてはイエスの道、すなわち「この道」に従う者たちを迫害し、殺すことさえ辞さなかった自分が、今はまったく異なる道を歩んでいると証言するのである。特にパウロがステパノの死に直接関わり、彼を殺す者たちの衣服を預かっていた点、エルサレムの大祭司と長老たちの公文書を受けてダマスコまで人々を捕らえに行こうとしていた事実が、パウロ自身の口から改めて語られる。張ダビデ牧師によれば、これによりパウロがいかに徹底的にイエスの共同体を撲滅しようとしていたかが明らかにされるという。ユダヤ人聴衆もこの点はよく知っていたため、容易には反論できなかったに違いない。

 張ダビデ牧師は、パウロがダマスコ途上で主の声を聞いた出来事を非常に重要視する。そこでの「大いなる光」がパウロの存在と思考を根底から揺さぶり、そのとき地に倒れたパウロに「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という主の厳しい声が直接に響いた点を強調する。パウロは誰を迫害していたのか。まさに「ナザレのイエス」である。これが決定的な転機となり、パウロは三日間視力を失い、深い悔い改めと沈黙の時を過ごす。その後、アナニアから洗礼を受けることで回復し、自身の使命を明確に自覚する。ここで張ダビデ牧師は、選びと啓示に関する神学を同時に提示する。神は罪深く邪悪な者であっても回心の対象とされる――それは福音の神秘であり、「罪の増すところに恵みもいよいよ増し加わる」という、後にパウロがローマ書で説いた真理がすでに内包されているという。

 アナニアの勧告である「兄弟サウロよ、再び見よ」という言葉は、単なる視力の回復を超えた信仰的視野の大転換を意味する。さらに「躊躇せずに主の名を呼び、洗礼を受けて罪を清めよ」という呼びかけは、従来のユダヤ教的儀式とは本質的に異なる、イエス・キリストを中心とした信仰告白を前提としている。パウロはこうして自分の回心過程を会衆の前で事細かに語ることを通じ、ローマ帝国の支配下でサンヘドリン(ユダヤ最高法院)の宗教裁判権を行使していた当時のユダヤ指導者たちの性質を浮き彫りにするとともに、パウロ自身がいかに正統性をもった人物であるかを示そうとしたのだ。張ダビデ牧師は、パウロの証が単なる自己防御ではなく、「誰であってもイエス・キリストの光によって根本的な回心が可能だ」という福音の本質を宣言する伝道的行為でもあったと評価する。

 また張ダビデ牧師は、パウロがエルサレム神殿に戻った後に見た幻のエピソードを特に重視する。神殿で祈っている中、「急いでエルサレムを去れ。彼らはおまえの証を受け入れないだろう」という主の声を聞いたとパウロは語る。ここでパウロは、エルサレムでの福音宣教が極めて困難になることを悟った。しかし、パウロにとってエルサレムはもっとも宣教したい場所であり、同胞やかつての仲間に新しい道を示したいという強い願いを抱く場所でもある。ゆえに「なぜ自分が迫害していたイエスを今こうして伝えるのか」をはっきり説得したかったはずだと張ダビデ牧師は推察する。ところが主は「わたしはあなたを遠く異邦人へ遣わす」と宣言し、これがユダヤ人の聴衆の怒りを爆発させる決定打となった。彼らは、パウロが異邦人に福音を伝えるという発想そのものが先民思想と根本的に衝突するとみなし、「こんな男は生かしておけない」と叫んで暴徒化してしまう。張ダビデ牧師は、これこそ歴史的残虐さと宗教的排他意識が結びついた典型例だと指摘する。結局、パウロはローマ市民権を明かすことで違法な拷問や鞭打ちを逃れることができる。世俗帝国の法が宗教的過激主義からパウロを守る結果になったのはなんとも皮肉だと張ダビデ牧師は解説する。

2. パウロの証と選びの教理に関する張ダビデ牧師の解説

 張ダビデ牧師は、本箇所に示されるパウロの証を中心に、選びの教理がもつ神学的意義を掘り下げて説く。パウロはダマスコ途上で経験した劇的な回心をありのままに証言するが、かつての彼は熱心な宗教人ではあったものの、その熱心さは自分の民と伝統を守るための暴力へと結実していた。エルサレムの大祭司と長老たちからの公文書を受け取り、「この道」に属する人々を逮捕・投獄し、さらにステパノを石打ちにする際に先頭に立つほどであった。ところが「大いなる光」と呼ばれる神の介入によって彼はイエス・キリストと直接出会い、三日間視力を失う中で自分の罪深い行いを悔い改め、新しい一歩を踏み出すこととなる。

 張ダビデ牧師は、パウロが自分の選びと召しを決して自分の意志や努力によって勝ち取ったものではなく、ただ神の恵みによるものであると常に強調してきた点に注目する。パウロは「神はあらかじめ知っておられた人々を召し、召した人々を義とされた」(ローマ8章)や、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのだ」(ヨハネ15章)などの聖句を引用しながら、自分の回心の神学的意義を再三明らかにしている。すなわち、パウロの回心は彼の内面の自覚や功績によるものではなく、まったく神の主権的介入と恵みに基づくものであったということである。

 この流れで張ダビデ牧師は「罪の増すところに恵みもいよいよ満ち溢れる」というパウロの有名な宣言を重ねて取り上げる。ステパノの殉教に積極的に関わり、多くのキリスト者を牢に閉じ込めようと躍起になっていたパウロこそ、当時の教会共同体にとっては恐るべき迫害者そのものだった。ところが、神はまさにそのパウロを「異邦人の使徒」としてお選びになった。これは人間の基準や道徳的資格をはるかに越える神の恵みの顕現であると解説する。アナニアもまた、当初はパウロに会うことをためらったが、「これはわたしの選んだ器である」という主の決定的宣告を受け、従わざるを得なかった。この出来事は、私たちがどんな罪や暗い過去を背負っていようと、主が選ばれたなら、その者を用いることがおできになるという福音の核心を示す。

 では、こうした“選び”がなぜパウロの“自発的”な部分と結びつくのか。張ダビデ牧師は、パウロが回心後すぐに祈りに入り、断食を続けたまま三日間を過ごした点を重要視する。これは単に肉体的な苦痛というより、神の前で自分の過去を振り返り、赦しを願い、今後の人生を明け渡す完全なる服従の時間だった。「主よ、私は何をすればよいのでしょうか」という問いこそ、選ばれた者が取るべき最も基本的な応答であり、そういう意味でパウロは神の召しに積極的に応じたといえる。張ダビデ牧師は、回心は従順へと続いていかなければならないと強調する。人間の努力によって救いを得ることはできないが、選ばれた者には聖なる責任と新しいアイデンティティが与えられるというわけだ。

 またパウロが自分を語るとき常に「私は罪人であり、イエスを迫害した者」であると繰り返すのは、この“恵みの選び”をより鮮明に示すためだと張ダビデ牧師は説明する。選びは傲慢を生むのではなく、むしろ自己を低くする謙遜と感謝をもたらすのだ。パウロはピリピ3章でも、世間的な経歴や律法的プライドを「ちりあくた(糞土)」とみなす。かつての地位や学問的名声、熱心では決して救いに達しない、ただイエス・キリストを知ることこそ最もすぐれているという結論に至ったからであり、その原点が使徒行伝22章におけるダマスコ途上体験とアナニアの導きによる洗礼・視力回復だったと張ダビデ牧師は説き明かす。

 まとめると、張ダビデ牧師はパウロの証が単なる個人的回心の物語にとどまらず、選びと恵みが歴史をどう変えるのかを示す重要な具体例だと強調する。かつて福音の最大の迫害者であったパウロが、最も力強い福音宣教者へと変貌していく過程は、聖霊が人を召し、変革し、福音の普遍性を告げ知らせる器として用いられる様子を鮮やかに示している。熱烈なユダヤ教徒であったパウロが、異邦人の使徒へと転身するこの劇的な逆転は、まさに「神の召しと選びが人を根底から変え、福音の普遍性をもたらす」ことをはっきりと示す。しかもそれは決してパウロだけの特別例にとどまらず、現代に至るまで生きた福音の力だと張ダビデ牧師は力説する。

3. エルサレムの葛藤、異邦人包容、そして福音の普遍性

 張ダビデ牧師は使徒行伝22章の後半部分、激しい怒りを爆発させるユダヤ人群衆の様子から、福音の普遍性に関する逆説的なメッセージを見いだす。「わたしはあなたを遠く異邦人へ遣わす」というパウロの言葉が口にされた瞬間、彼らはそれ以上パウロの話を聞かず、「こんな男は地上から取り除いてしまえ」と叫ぶ。これは単に異邦人との交わりの問題にとどまらず、神の支配と救いの範囲を一民族・一宗教共同体内に閉じ込めようとする独善が、いかに大きな反発と暴力をもたらすかを如実に示す。張ダビデ牧師は、彼らの怒りが彼らの“熱心”の裏返しでもあると解説する。それほどまでに先民の意識を守り、律法を至上とし、モーセの伝統を維持してきた人々にとって、異邦人も恵みの対象たり得るという宣言は受け入れ難い衝撃だったのである。

 ところが皮肉にも、この場面でユダヤ人指導者や群衆の手に捕らえられ、苦境に立たされたパウロを守ったのはローマ帝国の法律であった。千人隊長はパウロがローマ市民権を持つと知り、適切な手続きなしに鞭打ちできないことに気づいて恐れを抱く。張ダビデ牧師は、ここに「いったいどちらが文明で、どちらが野蛮なのか」という根源的な疑問が浮かび上がると指摘する。当時、最も整備された法制度を誇ったローマが“異端者”とみなされた福音宣教者を保護し、逆に神の律法を守るのに熱心だったユダヤ人たちは排他的かつ暴力的な姿をさらけ出した。これは人間の制度や民族的出自が自動的に正しい信仰や真理を保証するものではないことを強く示している。さらに先民としての誇りが、すでに排他性と暴力性へ歪められてしまった事例ともいえる、と張ダビデ牧師は批判的に論じる。

 そして張ダビデ牧師は、本箇所から教会が“新しい民”を目指さねばならない理由を次のような神学的視点で説明する。神がアブラハムの子孫を選ばれたのは、彼らを通して地上のあらゆる民族に祝福をもたらすためだった。しかし、しばしば彼らはその区別を隣人に仕え、真理を伝える通路ではなく、自分たちの宗教的優位性を誇る根拠としてしまう。それが極端な形で露わになったのが、使徒行伝22章後半における集団的暴力と怒りの場面だ。一方、福音はイエス・キリストの十字架と復活を通じて民族や言語、階層の壁を打ち破る普遍的性質を帯びている。パウロがローマ市民権を明かした際、ローマ当局者が彼を保護したという事実は、「福音がユダヤ人のみならず異邦人やローマ帝国の支配下にある人々にも開かれた機会である」ことを象徴的に示すと解釈することができる。

 やがてパウロは、この法的保護を得てローマへ赴き、皇帝の前でまで自らの使命を証言するに至る。これは歴史上どれほどの反発や葛藤があろうとも、福音が最終的に「地の果てにまで」(使徒1:8)宣べ伝えられるという御言葉が成就していくことを意味する。神は帝国の制度、軍隊、行政の仕組みさえも逆説的に用いて福音宣教を前進させるのである。ゆえに張ダビデ牧師は、教会が世俗権力そのものを絶対善と見なすことはできないが、ときとして神がその権力構造を通路とし、選ばれた器を守り、福音の宣教をより広範囲に促進されることがある点を認識すべきだと説く。

 さらに張ダビデ牧師は、現代の教会が本箇所を読む際、エルサレム群衆の暴力性と偏狭さを「他人事」とみなしてはならないと警告する。今日においても、宗教的排他主義や民族優越思想、教派間の対立が教会内外で争いを生み、福音そのものを歪める危険があるからだ。パウロが受けた「遠く異邦人へ遣わす」という神の召しこそが、実際の宣教史のスタート地点であり、教会が継続して取り組むべき普遍的使命であることを決して忘れてはならないと強調する。ユダヤ神殿の垣根を越えて異邦世界へと拡張していく福音は、「誰でもこの福音を聞いて信じるなら救われる」という普遍的約束を示している。その歩みを導くキーパーソンこそパウロであり、彼を召されたのがイエス・キリストである。この事実こそキリスト教信仰の核心であり、教会の存在理由だと張ダビデ牧師は結論づける。

 総合すれば、張ダビデ牧師が使徒行伝22章を通して伝えようとするメッセージは大きく三点に集約される。第一に、宗教的熱心と律法的厳格さがそのまま真の信仰を意味するわけではないこと。第二に、パウロの劇的な回心は神の絶対的主権と恵みの象徴であり、誰もが自分の功績によって救いに至ることはできないということ。第三に、福音は特定の民族・文化に限定されるものではなく、異邦人までも含む普遍性をもって拡大されるべきだという点である。エルサレムの群衆がこれを拒絶したとき、逆にローマの法制度がパウロを保護するに至ったという逆説は、神の摂理が政治・社会・歴史の構造さえも揺るがして福音を完成へと導くという驚くべき真理を示している。最終的に使徒行伝22章を読む読者は、「自分たちの内側にも偏狭さは潜んでいないか。神の普遍的救いの計画を妨げる要因にはなっていないか」という問いを突きつけられることになる。張ダビデ牧師は、この問いかけを通して教会が“新しい民”として生まれ変わるための内省と従順を促すのだ。そうした意味で使徒行伝22章は、教会と信徒がいつの時代も覚醒し続けるべき使命を再認識させる箇所であり、現代においてもその意義は決して小さくないと力説している。

教会の本質と使命 – 張在亨 牧師 

1. 「キリストの体の中でひとつとなることの基礎」

エペソ書4章4節で使徒パウロは、「体は一つ、御霊は一つである」と高らかに宣言しています。これは教会がなぜキリストの体として一つであるべきかを示す、きわめて重要な一節です。張ダビデ牧師はこの箇所を解き明かしつつ、たとえ教会が多様な姿や文化を抱えていたとしても、その根源はただキリストにあることを決して忘れてはならないと力説します。「体は一つ」という宣言は、単なる組織や制度上の統一性を意味するのではなく、聖霊のうちに霊的・実質的に“連合”しているという本質を示しているのです。

この連合は、外面的な形態や特定の共同体のみの色合いを強調することとは異なります。パウロが「御霊は一つ」と説くことで示そうとしているのは、教会内にいるすべての聖徒がどこを出発点としているのか、はっきりさせることです。私たちが教会に召されたという事実そのものが、聖霊によってイエス・キリストに導かれ、その体の中へと迎えられたことを意味します。したがって、教会内で誰もが自分の権利を独占したり、優位性を主張したりする正当な根拠はなく、一つの体の肢体として共に成長する平等性の本質を受け入れるべきなのです。

張ダビデ牧師は「キリストにあって一つの体」という概念が、決して多様性を抑圧したり、画一的な一致を強いるものではないと説きます。むしろ、異なる賜物や働きを互いに調和させながら、有機的に一つの共同体を形成する点が要だといえます。これはパウロがコリント第一の手紙12章で「一つの体に多くの肢体があるように、教会にも多くの肢体がある」と述べた思想とも一致します。張ダビデ牧師は、教会内でそれぞれが担う位置と使命を積極的に認め合い、相互依存によってこそ真のひとつとなることを実行すべきだと強調します。

エペソ書4章4~6節には、「体」「御霊」「望み」「主」「信仰」「バプテスマ」「神」という七つの「ひとつである」根拠が示されます。体は一つ、御霊は一つ、望みは一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、神は一つ。パウロは、こうした動かぬ土台によって教会が分裂することの不条理、そして本質的に教会が一つの共同体であることを説き明かしているのです。張ダビデ牧師は「パウロがこれほど明解な基礎を示したにもかかわらず、教会はささいな問題や歴史的・文化的違いを理由に分裂を繰り返してきた」と指摘し、福音の根本へ立ち返るほかに真の一致を成し遂げる道はないと主張します。

教会がひとつであることを守り続けるために注意すべき危険要素の一つが「世俗化」です。20世紀後半から多様な文化や思想が教会にも波及するなか、一方で教会が福音を携えて世に出て行く熱意が高まる反面、過度な世俗化への警戒も同時に叫ばれ、ジレンマが生じました。張ダビデ牧師は「世俗化神学」を一概に誤りと退けるのではなく、そのなかにある「神の宣教(Missio Dei)的視点」を肯定的に取り入れつつも、福音の本質が薄まらないよう慎重であるべきだと説きます。

同時に、教会が過度に閉鎖的または自己排他的な形態をとることも、深刻な問題を引き起こします。特定の教派や信仰の伝統だけが完全に正しいのだと主張しすぎるあまり、福音の根源や本来の「ひとつ」である姿勢が見失われ、外面的な基準を振りかざす誤りに陥る危険があります。張ダビデ牧師は、そうした偏狭や分裂を乗り越えるには、エペソ書4章に示された「七つのひとつである根拠」を日々心に留めることが不可欠だと述べるのです。

教会が最終的にめざすゴールは、歴史全体がイエス・キリストによって統合され、ついには神の国が到来することにあります。アルファでありオメガであるキリストが歴史の始まりであり終わりであると信じ告白する以上、教会はその方向をいっそう明確に示さなくてはなりません。私たちが「ひとつとなること」を求めるのは、単に内輪の調和を目指すためだけではなく、神の国の実現へと備える点にこそ意義があるのです。剣や槍が鎌やすきに変わる真の平和と回復は、この地上のいかなる制度や人間的努力によっても完成しません。キリストの福音が信徒を結び合わせ、彼らを世に送り出すときこそ、その国は拡大されるのです。

教会は救われた者たちの集まりであると同時に、福音の宣教と奉仕によって世に塩をまき、光を照らす「派遣された共同体」でなくてはなりません。張ダビデ牧師は「教会は、だれでも自由にやって来て恵みにあずかり、そこから世へ出てその恵みを分かち合うように召された存在だ」と語ります。これは、教会が「なぜひとつであるのか」を、教会の外部へと広げていく宣教の使命に忘れずつなげるべきだ、ということを意味します。

結論として、エペソ書4章に掲げられた「体は一つ、御霊は一つ、望みは一つ、主・信仰・バプテスマ・神がいずれも一つである」という七つの宣言を土台に据えることこそ、教会の分裂をいやし、真のひとつを完遂し、さらに神の国へと向かうための中核だといえます。張ダビデ牧師は「この本質的な真理のうえに教会が改めて立つならば、どんなに急激な時代の変化があろうとも失うべきでない福音の力と恵みを、いっそう豊かに味わうことができる」と語っています。

2. 恵みと賜物の神秘――ただで与えられた救いの本質」

エペソ書4章7節でパウロは、「私たち一人ひとりに、キリストの賜物の計りに従って恵みが与えられた」と述べています。張ダビデ牧師は、この箇所を通じて、私たちに与えられた救いが人間の資格や努力によって得られるものではなく、「ただで与えられた恵み」であり「神の賜物」だという、福音の核心メッセージを鮮明に示します。

この恵みを象徴的に描き出す例として、マタイ福音書20章の「ぶどう園の労働者」のたとえが挙げられます。朝から一日中働いていた人も、夕方遅く雇われてわずか一時間しか働かなかった人も、同じ賃金を受け取ったのです。長時間働いた人たちは不満を述べましたが、主人は「約束した一デナリを支払っただけで、不義を働いたわけではない」と言い返しました。これは恵みの世界が、一見するといかに“不公平”に見えるかを際立たせると同時に、「本来は受け取る資格のない者が思いがけずすべてを受け取る」という驚くべき恵みの姿をイエスが示されたのです。

ぶどう園の主人にたとえられる神は、罪によっていかなる善い功績も積めなかった者に対しても、同じ救いをお与えになることができます。張ダビデ牧師は、これはまさに「恵みの大逆転」であり、救いを資格によって換算しようとする人間の傲慢を根こそぎ否定するものだと解説します。もし私たちが救いを「自分の努力や功績の結果」だと信じ込んでしまうなら、その時点で福音の根幹を損なってしまうというわけです。

「恵み」を意味するギリシャ語の「カリス」(charis)は、新約聖書に繰り返し登場する「神の一方的な好意」を指す言葉です。賜物は受け手が代価を払うものではなく、与え手の好意と愛に基づくものです。マタイ福音書20章のたとえに加えて、ルカ福音書15章の「放蕩息子」のたとえも、これを鮮やかに描き出しています。父のもとを離れ遊興に身を費やした息子が帰ってきたとき、父親は無条件で受け入れ、宴を開きます。この姿こそ、どんなに悪い状態でも“帰る”さえすれば、限りないあわれみと愛を注いでくださる神の父なる心を象徴しています。

教会は、こうした恵みを知らない人や、まだ気づいていない人に福音を伝えると同時に、自らもその恵みのうちにとどまり合うことで、たがいに受け入れ合い、赦し合う共同体となるべきです。張ダビデ牧師は「自分が罪人であることを自覚した者こそ、恵みなしには生きられないと痛感し、神からの賜物にすがることで感謝とへりくだりを深めることができる」と強調します。もし教会がこの恵みを見失い、「自分の行いによって救いを得る」という発想に支配されるようになれば、その瞬間から排他や裁きの文化が生まれ、福音の本質と真っ向から対立してしまうのです。

マタイ福音書9章でイエスは、取税人や罪人たちと食卓を囲みつつ「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」と語られます。教会はイエスのこの姿勢を受け継ぎ、すべての罪人にあわれみと救いへの招待状を差し出せるよう備えていく必要があります。張ダビデ牧師いわく、「自分が罪人であることを認め、ただ主の恵みによって生かされていると知る者こそ真の福音の証人だ」というのです。結局、教会が共に礼拝し交わりを持つ理由も、そこにいるのは皆、恵みによって招かれた罪人たちだからにほかなりません。したがって、教会は排他的なクラブになってもいけませんし、自分を義人のように見せかけて世を裁くような態度をとってもいけないのです。

エペソ書2章8節には、「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われた。それはあなたがたから出たのではなく、神の賜物である」とありますが、教会の「ひとつ」であることもまさにこの恵みによって結ばれています。値なしに与えられた恵みによって、「自分のほうが上だ」という誇りや比較は消え去り、互いに尊重し合う土壌が育まれるのです。そのとき教会は、聖霊が働いてもたらす真の一致を具体的に体験するようになります。張ダビデ牧師は「神の恵みこそが教会というひとつの体を結びつける接着剤であり、もしもこの恵みの神秘が失われるなら、ただちに葛藤や分裂が起こるだろう」と警鐘を鳴らします。

このように、恵みへの自覚が深まれば深まるほど、教会と信徒は自らを誇るのではなく神の愛を誇り、苦しむ魂をも抱きしめて助け合う度量が大きくなります。ぶどう園に夕方五時に来た者にも一デナリを与える神の驚くべき好意が、今日の私たちにもそのまま注がれていると知るならば、教会の中に序列や差別が生まれる余地はまったくありません。

3. 「多様性の中で生まれる統一性――賜物の目的と職分」

エペソ書4章8節でパウロは詩篇68篇を引用し、「彼が高い所へ上って行かれたとき、多くの捕虜を捕らえ、人々に賜物をお与えになった」という箇所に言及しています。旧約では、戦いに勝利した将軍が戦利品を分配する姿が描かれますが、パウロはこれをキリストに当てはめています。イエス・キリストは、低くなられ(受肉と苦難)、死を経て勝利を収め(復活)、天に昇られたのち、教会に賜物を“戦利品”のようにお与えになったというのです。張ダビデ牧師は「私たちの奉仕は、キリストの勝利から生まれ出た結果だ」と力説し、神が教会に賜物を授けるのは、人間の能力や資格を根拠とするのではないことを改めて示します。

使徒言行録2章で聖霊が下った際、人々がそれぞれ異なる言語で神を賛美した様子は、まさに賜物の多様性を端的に物語ります。コリント第一の手紙12章、ローマ書12章、エペソ書4章などでも、多様な賜物が取り上げられていますが、これらの多様性は教会の中で相互補完によってより大きな統一性を築き上げていきます。張ダビデ牧師は「賜物の目的は教会を分裂させることではなく、むしろ結び合わせ、キリストの体を完成に導くことにある」と語ります。

エペソ書4章11節でパウロは、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という五つの代表的職分を挙げます(なかには牧師と教師を一つの職分とみなし、四つと数える学者もいます)。張ダビデ牧師は、これらが初代教会の文脈を反映したものである一方、本質的には現代の教会においても同じ原則を適用できると説きます。使徒とは開拓し派遣される者、預言者とは神の御心を大胆に語る者、伝道者とは福音を広範に伝える者、牧師とは群れを養護する者、教師とは御言葉を教える者を指します。

これら五つの職分に上下関係はなく、いずれも尊い役割です。教会はそれぞれの領域で異なる賜物を持つ人々を必要としています。パウロはこれを「体の多様な肢体」にたとえ、目や手、足、耳など、どの器官も欠かせない機能を担っている、と明確に述べています。教会が「ひとつの声」を上げるからといって均一化するのではなく、各人の固有の役割によって生まれる豊かなハーモニーこそが、教会の本来の美しさを形づくるのです。

エペソ書4章12節でパウロは、賜物を授けられた目的について「聖徒を整え、奉仕の業に当たらせ、キリストの体を立て上げるためだ」とまとめています。具体的には、第一に傷ついた魂を癒やし回復することが教会の使命です。ギリシャ語で「カタルティスモス」という言葉が持つ「縫い合わせ、修復する」という響きの通り、教会は罪や苦しみによって破れた魂を癒やし、修復へと導く働きを担うのです。第二に、回復された聖徒が世に出て奉仕と仕えを実践できるように整えること。教会で礼拝し教育を受けた聖徒たちが、神の愛を携えて社会的弱者を助け、正義を打ち立てる活動を行うための支援と備えをするのです。第三に、これらすべての最終目標は、キリストの体すなわち教会を強固に築き上げることにあります。教会こそが神の国であり、救われた者たちが集う共同体であると同時に、派遣される共同体でもあるのです。

張ダビデ牧師は「信徒が自らの賜物を正しく見いだし、活かせるよう導くことが教会リーダーシップの重要課題だ」と言います。賜物は誤った形で用いられれば、分裂や争いの種にもなり得ます。たとえば「自分の賜物はより霊的だ」と優越感を抱く者や、「注目される賜物を持たないから自分は何の役にも立たない」と落胆する者が現れると、教会の健全さは失われてしまいます。パウロがコリント第一の手紙12章で、目と手、手と足の間に優劣があり得ないと語ったのはまさにこの点にほかなりません。教会における賜物は神の栄光を現すために与えられたものであり、決して個人の名声や誇りを満たす道具ではないのです。

こうした賜物を分かち合い、助け合う教会文化を築くうえでは、「相互の尊重と謙遜」が何より大切です。とくに現代の大規模教会や複雑な組織を持つ教会では、目立ちやすい賜物とそうでない賜物の間で格差が生じがちです。しかし、サービスチーム、事務スタッフ、財務担当、駐車場係、各種ケアの奉仕など、目立たない場所に身を置く人々の捧げものなしには、教会を全体として機能させることは不可能です。張ダビデ牧師は「異なる賜物を相互に認め合い、協力する姿こそ、世に『神の国がすでにここにある』という事実を示す力になる」と強調しています。

結局、賜物が多様であっても、その目的と方向性がキリストに向かうものである限り、教会はむしろより完全な統一性を獲得できます。こうした「多様性のうちにある統一」こそ、パウロがエペソ書で描く理想の教会像であり、張ダビデ牧師が繰り返し説いてきた教会論の核心でもあるのです。

4. 教会の真の使命――世へ派遣された神の国の共同体」

張ダビデ牧師はしばしば教会の進むべき方向性を「In and Out」という言葉で説明します。これは教会が「集まる(In)」ことと「散っていく(Out)」ことの両方をバランスよく保つ必要があるという意味です。初代教会は、ペンテコステの聖霊降臨によって内に燃える礼拝共同体となったと同時に、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、地の果てへと散らされて福音を伝えました。もし教会がこの二面性のどちらかを偏って強調すれば、重大な問題を招きかねません。内側にとどまることばかり重視すれば世から隔絶した宗教集団になり、外側に出て行くことばかりを重視すれば霊的交わりと礼拝の力を失ってしまうのです。

とくに20世紀後半に「世俗化神学」が台頭し、教会が世の中でどう生きるべきかを問う議論が活発化しました。また、「神の宣教(Missio Dei)」という概念も注目を集めました。これは宣教が教会の戦略やアイデアによるのではなく、神がすでにこの世で救いの業を進めておられるという認識から始まります。教会はただ「神の宣教」に招かれ、参加する存在にすぎません。エペソ書全体を見ても、キリストが万物を統合するために歴史を通して働いておられる、というテーマが繰り返し語られています。もし教会がこれを理解できれば、どの民族や文化に対してもキリストの主権を示す宣教が可能になるのです。

張ダビデ牧師は「世界が急速に“地球村”化している今、教会はより広い視点を持つべきだ」と提唱します。かつてと異なり、さまざまな人種や言語、文化をもつ人々が同じ地域に共存しています。そこでは確かに衝突も起きますが、同時に福音を伝える絶好の機会も開かれているのです。もし教会が地域や民族に対する偏見を捨て、恵みと愛をもって近づくならば、イエス・キリストの和解のメッセージを具体的に実践できるようになります。これは、エペソ書1章10節の「天にあるものも地にあるものもみな、キリストにあって一つに集められる」という宇宙的キリスト論とも合致する歩みです。

教会の社会的責任もこの流れにおいて非常に重要です。宣教や礼拝だけが教会の責務と考えられがちですが、聖書は孤児や未亡人、在留外国人を顧みるように、旧約から新約に至るまで一貫して教えています。イエスは病める者や罪人を探しに行き、初代教会も物を共有して弱者を支えました。張ダビデ牧師は「垂直的な霊性(礼拝・祈り)だけを強調すれば世から遊離する恐れがあり、水平的な愛(社会的奉仕)だけを強調すれば霊的な基盤が揺らぐ危険がある」と警戒し、この二つの軸を両立させることを促します。

最終的に、教会は世の中にあって神の国を先取りして示す共同体です。教会内で互いにひとつとなり、それぞれの賜物を最大限に活かして補い合い、地域社会や全世界に仕えていくなら、世は教会を通して神の国を具体的に体験できるのです。パウロが「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊にあって義と平和と喜びである」と語ったように、教会はこれら三つの価値――義と平和と喜び――を行動をもって証しする場でなければなりません。

張ダビデ牧師はしばしば「ニワトリの首をひねっても夜明けは来る」という世俗的な表現を例に挙げながら、一見盤石に見えるこの世の体制であっても、最終的には「新天新地」の到来によって解体され、神の国が完成するという終末論的確信を語ります。私たちがいくら否定しようが遅く感じようが、神の国はすでに到来しており、ついには完全に成就するのです。教会は、その来るべき神の国を世の中で先取りし、いわば「モデルハウス」のように示していく使命を帯びています。

こうして教会が恵みを土台として多様性の中での一致を目指し、世へと遣わされて神の愛と正義を実践していくとき、はじめて主の体としての本来の役割を果たせるようになります。ひとつであることや聖さを教会の内に閉じ込めてしまわず、世にあって解放や癒やし、祝福の導管となるのが真の教会の使命なのです。張ダビデ牧師は「今日の教会が混乱と葛藤を抱える中でも、エペソ書4章にあるような統一性と多様性、恵みと賜物、そして“派遣された共同体”という本質を見いだし直すことで、再び驚くべき救いの歴史が刻まれていくはずだ」と語ります。

結局、教会は救われた罪人たちの集まりであり、同時に世へと派遣された神の国の前哨基地でもあります。値なしに与えられた恵みによりひとつとなり、互いに異なる賜物によってキリストの体を築き上げ、福音を伝えて傷ついた魂を癒やすのです。私たちはみな、ぶどう園に招かれた労働者であり、資格によってではなく恵みによってその場に立たせていただいています。その恵みの力によって教会が世に奉仕するならば、世は教会を通して神の国をのぞき見て、やがて完全に実現するその国の美しさを期待するようになるでしょう。この福音の循環が途切れないかぎり、ニワトリの首をひねっても夜が明けるように、神の国はますます鮮明に現れていくのです。