神の怒りと救いの必要性 – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 神の怒りと人間の不敬虔不義

ローマ書1章18-19節は、使徒パウロがローマ書の本論を始めるにあたって提示している、人間が陥っている罪の現実とそれに対する神の怒りを扱う中心的な一節である。張ダビデ牧師は多くの説教や講解を通して、この本文がローマ書全体の構造や救いの教理を理解する上で重要な基盤であると強調してきた。実際、ローマ書を読んでいると、福音が宣言される順序としてまず「罪」が登場し、その後に「救い」が具体的に紹介されることに気づく。これは単なる構造上の特徴ではなく、福音を正しく理解するためにはまず罪の実相が何であるか、そして人間がなぜ救われなければならない存在なのかを明確に認識しなければならないことを示している。

使徒パウロは、当時多くの異邦人が暮らしていたローマという都市に宛てて手紙を書き綴った。このローマという都市は、当時の文明と世俗的繁栄の象徴であると同時に、人間の罪が最も腐敗した様相で露わになっていた代表的な場所でもあった。ローマ人たちもまた、自分たちを罪人と認めることはなく、むしろきらびやかな文明や知恵、軍事力、富を誇りとして罪の意識など持たなかったかもしれない。彼らは「我々にどんな罪があるというのか? この輝かしいローマがいったい何を誤ったというのか? どうして救いなどが必要なのだ?」といった態度で、パウロのメッセージを不思議に思ったかもしれない。しかしパウロは、なぜ人間に救いが必要なのかを語るために、まず人間が神の前でいかに罪の中に陥っている存在であるかを非常に論理的に展開したのである。

張ダビデ牧師は、このローマ書1章18-19節の講解において、特に18節に示される神の怒りがすべての罪の結果であり、神と人間の間の不和状態を示す言葉であることを強調する。「神の怒り」という表現は、私たちが一般に想像する“神の激怒”や人間的感情の投影とは次元を異にする。神は完全で善なるお方であり、その怒りは単なる感情の爆発ではなく、聖と義に基づいて罪を裁かれる正当な反応なのである。神の前で「不敬虔と不義」の状態にある人間は、罪のゆえに神との関係が断絶しており、その結果、人間は本質上「怒りの子」となったとエペソ書2章3節も語っている。

ここで言われる「不敬虔」とは、神との垂直的な関係を踏みにじる罪を意味する。すなわち、神を恐れ敬ったり礼拝するのではなく、神を忘れたり心に留めることを嫌う態度を指す。一方「不義」は、人間同士の水平的な関係における罪の様相であり、互いを傷つけたり他者を抑圧したり、不正直や偽善、貪欲などによって明らかになるものである。使徒パウロはローマ書1章18節で「不義をもって真理を阻む人々」を名指ししているが、彼らは意図的に真理を妨げ、みことばを伝える者たちを抑圧しようとしたり、自分たちの内面にある本能的・良心的な神認識を意図的に無視すると指摘する。

実際、張ダビデ牧師が強調するように、大多数の人は罪の問題に直面することを恐れる。自分が罪人であることを認めることは、自分の限界や恥をさらけ出さねばならないことを意味するため、人は本能的に「なぜ私が罪人なのか」と反発するのである。だからこそ福音を伝える際、「救い」という言葉がもつ深い意味と喜びを知らせようとしても、まず「なぜ救いが必要なのか」がしっかりと説明されなければ、相手は「自分にはそんな救いなど必要ない」と思ってしまいがちだ。これに対しパウロは罪論を詳しく展開し、人間の実存が神の創造の秩序と義からどれほど離れているかを、段階を追って掘り下げる。

「神の怒りが、不義をもって真理を阻む人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、天から現れています」(ローマ1:18)というこの節は、罪がなぜ神の怒りを引き起こすのか、その理由を直接的には述べていないが、続く箇所(1章19-32節)で罪の本質と結果が徐々に説明されていく。特に張ダビデ牧師は、この本文を分析する際に、神の怒りは人間の犯す不敬虔と不義が結局は自滅へと至る道であるがゆえに、神がそれを放置なさらないことを示していると指摘する。ちょうど親が子どもを誤った道へ行くのを放置しないで、時には怒りや叱責によって正そうとするように、神の怒りは聖なる炎であり、愛から発せられる警告でもあるのだ。もちろん聖書は神が愛であることを語るが、その愛は、人間が罪を犯し続けて自らを破滅に追い込むのを許容し見過ごしにするような形の愛では決してない。神の愛は聖と切り離せないのであり、ゆえに神との基本的関係を破壊する罪に対しては、当然の裁きと怒りが伴うのである。

張ダビデ牧師は説教で、この点をよく引用する。神は人格的なお方であり、単なる哲学的概念の「無感情な神」ではない、と。古代ギリシアの哲学的神概念には、全知全能で冷徹な本質として、人間的感情とは無縁の存在として描かれた場合も多かった。しかし聖書の神は私たちの創造主であり父であり、人間が罪の中にあるときには嘆き、憤ることもある。エレミヤやホセアのような預言書を見ると、人間に対する神の嫉妬や悲しみ、怒りが入り混じっていることが分かる。これは絶対的主権者である神が愛の関係のうちで人間を見つめておられるがゆえであり、その愛の関係が破られたときに「怒る」というのは、神の聖なるご性質と愛の本質からくる必然的反応なのである。

「不敬虔と不義」に総括される人間の罪は、十戒で言うならば神に対する罪に要約される。どれほど世の中が進歩し科学文明が発達しても、人間は神との関係を離れては真の善と義を実現できない。ローマ帝国のように強力な法体系をもち、ストア哲学やエピクロス派など多様な倫理・哲学的伝統が発達していても、不敬虔と不義は極端な形で露呈した。堕落した人間は、いくら哲学的知識や道徳的鍛錬を積んでも根本的な問題を解決できない。罪は単に個人の逸脱の問題ではなく、神との関係が破れたことに由来する実存的堕落だからである。

パウロは続いて、この罪のせいで「神の怒りが天から現れる」と語る。張ダビデ牧師は説教の中で、「天から現れる」という表現が、人間の罪が積み重なって頂点に達したとき、神の裁きが不可避に下される瞬間があることを示すと強調する。神は長く忍耐され、多くの機会を与えられるが、結局は義をもって罪を裁かれ、そのうえでご自身の聖と正義を示される。旧約におけるノアの洪水やソドムとゴモラの滅亡、イスラエルの民の捕囚生活などは、罪に対する神の裁きが決して空虚な警告ではないことを証明している。新約においても、イエスが語られた終末の裁きの警告や、使徒行伝のアナニアとサッピラの事件などが、罪に対する神の厳粛な怒りをよく示している。

この「怒り」という概念を、現代の一部の信者たちは不快に思ったり、神の愛ばかりを強調して曲解してしまう場合がある。しかし罪に対する怒りがなければ、実際のところ神の愛もまた空虚な概念になってしまう。神が聖なるお方であり、罪が人間に破滅をもたらすというのが事実なら、罪を放置するのは愛ではない。張ダビデ牧師は説教で、これをしばしば親と子の関係にたとえて語る。子どもが危険な道を進んでいるのに、親が愛しているという名目でまったく叱責もしないで傍観するならば、それは真の愛ではない。その子に永遠の害が及ぶことが分かっていながら、何の処置も取らないからである。神もまた、罪のゆえに滅びに陥る人間に向かって「だめだ!」と断固たる言葉を発し、立ち返る機会をお与えになり、最終的には罪の結果に対する裁きを下される。これが神の怒りである。

パウロが語る「異邦人の罪」は、すなわち神を知らない世の罪一般を意味するが、そのなかでも焦点が当てられるのが「不敬虔」である。なぜなら、神との関係、すなわち垂直的関係の破綻こそが、水平的関係の破壊を招くからである。私たちが日常目にする社会的な不正や戦争、暴力、搾取、性的堕落などは、究極的には「不敬虔」から始まる。神がいないと思い込む生き方、あるいは神を恐れ敬わない生き方が、あらゆる悪行の根源となる。ローマ書1章後半を見ると、人々は神をあがめるどころか、偶像にひれ伏し、偽りのイメージやイデオロギーに献身し、自分の欲望を偶像化した結果としてあらゆる罪悪と腐敗がはびこると描かれている。

張ダビデ牧師は、このような文脈から、罪が明るみに出ることを教会や信徒が回避してはならないと語る。罪を直視して暴くときに初めて、その罪から離れ、救われる道が開かれるからだ。教会共同体の中でも罪が隠されたままだと、結局それが膿んで、より深刻な病へと発展する。個人もそうだし、国家や社会全体もそうである。罪を曖昧に覆い隠すのは愛の態度ではなく、むしろその罪の根をいっそう深くする結果をもたらす。神は罪を放置なさらず、時が来ると必ず怒りをもって裁かれることを、聖書全体を通じて繰り返し知らせておられる。

こうした罪論はローマ書1章18節から3章20節にかけて本格的に展開される。簡単に区分すると、パウロはまず1章18-32節で異邦人の罪を語り、次に2章1節-3章8節でユダヤ人の罪を告発し、最後に3章9-20節ではユダヤ人・異邦人を問わずすべての人間が罪のもとにあると宣言する。要するに、この世に義人はいない、一人もいないというのがパウロの結論なのである(ローマ3:10)。唯一イエス・キリストのみが罪から救う唯一の道であることを強調するための前提として、パウロは罪の普遍性を徹底的に掘り下げたわけだ。

そして、その罪に対する神の反応が「怒り」である。私たちは世の中でいろいろな形で「怒り」を経験するが、人間の怒りは多くの場合、罪から出る感情的で不完全な形である。それに対して神の怒りは、罪に対する公正な断罪であり、人間を救うための聖なる方策なのだ。張ダビデ牧師は、これこそがローマ書が冒頭から罪と怒りを扱う根本理由であると説く。人間が自分の罪を自覚し、怒りの下にあることを悟ってこそ、福音が「信じるすべての人を救う神の力」であることがどれほど貴重かが分かるからだ。

このように、18節が語る「神の怒り」は軽々しく見過ごせる部分ではない。パウロがローマ書の本論を始めながら提示する重要な主題の一つがまさにこの神の怒りであり、それが人間の不敬虔と不義、すなわち罪に対して下るということである。ローマ時代でも、人々は宗教的にも哲学的にも自分の生を正当化し、自分が罪人であることを認めたがらなかった。現代人も同様に、科学や技術、経済の発展などを誇りつつ「なぜ私たちが救われねばならないのか?」と問い返す。しかし、人間が本当に罪のうちにあることを知らなければ、救いの必要性もけっして痛感できない。ゆえに張ダビデ牧師は、このローマ書1章18節の御言葉、すなわちパウロの神の怒りの宣言が、現代においてもいかに重要であるかを絶えず喚起している。

こうした怒りの背景には、人々が「不義をもって真理を阻む」という具体的な罪がある。真理が宣言されるとき、人々はそれを歓迎するどころか、かえって敵視する場合が多い。真理の光が強く照らすほど罪が白日の下にさらされるため、罪を好む者は真理を伝える口をふさごうとするのである。教会の歴史を見ても、福音が伝えられるとき、それを弾圧する勢力は常に存在した。とはいえ、みことばは決して阻まれない。神が建てられたしもべたちと信仰の証人たちが絶えず福音を叫び続け、教会は多くの迫害の中でも真理を守り抜きつつ拡大してきた。それは「草は枯れ、花はしぼむ。だが私たちの神の言葉は永遠に立つ」(イザヤ40:8)という聖書の言葉通りに実現している。

一方で、パウロが伝えた神の怒りのメッセージは、決して人々を脅かしたり罪悪感だけに縛ることを目的としたものではなかった。究極的には「罪から離れよ」「神のもとへ来い」という招きの意味合いがより強い。人間が罪を自覚しなければ決して救いにあずかることはできないため、パウロは容赦なく罪を指摘するのである。教会が罪の指摘を回避したりうやむやにしてしまうと、人々は自分が罪人であることを深刻に考えなくなる。救いもまた個々人にとって切実にならず、福音は「良い話」の域を出ない無力なものになってしまう。だからこそパウロと初代教会は徹底した罪の認識を強調したのであり、これが今日の教会にもそのまま有効であると張ダビデ牧師は力説する。

結論として、ローマ書1章18節に示されている「神の怒り」は、福音において非常に重要な位置を占めている。神の愛と救いを正しく知るためには、まず人間が陥っている罪の実態と、その罪に対する神の正しい怒りを直視しなければならない。これを避けるならば、結局、福音の力と恵みを切実に悟る道は閉ざされてしまう。救いは罪からの救いであり、罪が何なのかを理解しない人は救いが何なのかを知ることもできないからだ。

このように「不敬虔と不義」が招いた「神の怒り」は、人間自身の力では解決できない本質的な問題である。罪の問題の前で、そして罪ゆえに臨む神の怒りの前で、人間はようやく悔い改めと信仰によって神に立ち返らねばならない必要を痛感する。ローマの華やかな文化や成功、繁栄もこの問題を覆い隠すことはできなかったし、現代のどんな世俗的安定や豊かさも、罪と怒りの問題を軽視することはできない。これこそパウロが示そうとした人間実存の切迫した現実であり、同時に福音が必要とされる理由なのである。


Ⅱ. 人間の面の神認識と救いの必要性

ローマ書1章19節は、人間の罪と神の怒りに言及する内容に続き、「それは、神を知ることが彼らのうちに示されているからです。神が彼らにそれを示されたのです」という言葉を述べている。驚くべきことに、パウロは不信者、つまりまだイエスを知らない異邦人にも「神を知りうるもの」がすでに与えられていると宣言する。これは、人間が創造主なる神といかに切り離しがたい関係のなかにあるかを示している。不敬虔と不義の中にありながらも、人間の内には依然として神を求め、その方を認識する可能性が残されているということだ。

張ダビデ牧師は説教で、この節が「人間は生まれながらにして本質的に神への渇望をもっており、たとえ罪によって堕落していても完全に壊れきった存在ではないこと」を示していると説明する。もちろん人間は罪のゆえに霊的に死ぬほかない状態だが、その内には神のかたちの破片ともいうべき理性、自由意志、道徳的感覚、宗教的本性などが残されている。だからこそ人類の歴史全般にわたって、絶え間なく“神”や“絶対者”を探し求める試みが続けられてきたのだ。

パウロが言う「知りうるもの」は二つの次元で語られていると考えられる。一つ目は、被造世界を通した一般啓示の次元である。ローマ書1章20節にも続くように、神が造られた自然と宇宙、この世の秩序を通して神の神性と力をある程度認識できるという内容だ。四季の移り変わり、秩序正しい自然の理、太陽や星の運行、生命の驚異などは、偶然や混沌の産物ではなく、創造主の摂理とご計画のもとに動いているということを直感的に示してくれる。多くの哲学者や科学者さえも、宇宙が無秩序な混沌ではなく精密な秩序で動いている点から、絶対者の存在を認めたりする。

二つ目は、人間の内面の良心と理性の次元である。張ダビデ牧師は、人間が本能的に罪悪感を覚え、善と悪を区別し、自らの存在目的を問い求める動きなどを通して、すでに神への渇望を表していると語る。実際、多くの人が生きていく中で「私は何者なのか? なぜ生きるのか?」という根本的問いにぶつかる。これは神を離れた人間が根源的に感じる霊的な空虚、あるいは不安から来るものだ。神を知ってこそ満たされるこの渇きこそ、人間の魂に刻まれた「神への本能的欲求」である。アウグスティヌスの『告白録』にあるように、「神のうちに安息するまで、人の魂は真の安息を得られない」という洞察は時代を超えて受け継がれてきた。

しかし問題になるのは、この「神を知りうるもの」を人々が正しく受け止めないという点である。パウロは「人々は神を知っていながら、神としてあがめもせず感謝もしなかった」(ローマ1:21)と続ける。つまり神を知るに足る証拠と内面の声があるにもかかわらず、人間は罪によって高ぶり、神を退ける。あるいは神を偶像で置き換え、真理よりも偽りに耳を傾け、自分を高めることに邁進する。その結果、不敬虔と不義は一層加速される。

張ダビデ牧師は説教で、人間が神を退けることによりもたらされる結果を「不安、孤独、虚無、絶望」などに要約する。罪を犯せば心は不安に陥り、世俗的な欲望で一時的な満足を得ようとしても根本的な虚しさは消えない。愛されないと感じるときに襲ってくる孤独感、将来の不透明さから生じる絶望感などは、結局、人間の霊魂が「神を失った状態」であることを自ら痛切に証言しているにほかならない。だからこそ不信者も、深い苦悩の瞬間には自分でも気づかないうちに“神”や“絶対者”を求めることがある。

とはいえ真理は明らかである。人間はいかなる道徳修練や哲学的思索だけで神に到達することはできない。それらは神を探す助けの道具にはなり得るが、罪の問題が根本的に解決されなければ、神と真に交わることは不可能である。これはパウロがローマ書全体で強調しているメッセージだ。罪は人間自身では解決できないものであり、イエス・キリストの十字架と復活によってのみ罪の赦しと義とされる道が与えられる。そして、その恵みに信仰をもってあずかることができると教えるのがローマ書の中心的な救済論である。

ゆえに、「神を知りうるもの」が人間の内面にあったとしても、その火種だけでは罪の問題を解決できない。結局、福音が必要なのだ。張ダビデ牧師は、罪から離れ真の自由と解放、そして魂の平安を得るためには、イエス・キリストの福音を受け入れることが避けられないと力説する。イエスもまた「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい」(マタイ11:28)と呼びかけ、「渇いている人はだれでも、わたしのところへ来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と招かれた。このようなイエスの招きは、宗教的儀式や功績を条件とはしない。ただ「神のもとに帰るだけでいい」というのが福音の核心なのである。

ところが、宗教さえも時に“商売人”の役割を果たし、人々が神へ近づく道を阻んでしまうことがある。救いの条件を規定し、さまざまな行為や儀式を強調することで、あたかも人間が自らある資格を整えなければ神に近づけないかのような誤解を招く。しかし、それは聖書の教えではない。ローマ書3章24節によれば、私たちはキリスト・イエスにある贖いによって「価なしに義とされる」のである。エペソ書2章8-9節でもはっきりと語られる。「あなたがたは恵みによって、信仰によって救われたのである。これは自分自身から出たことではなく、神の賜物である。行いによるのではない。それはだれも誇ることのないためである。」

張ダビデ牧師は、この部分を説教するとき、イエスが教えられた父と子の関係のたとえ(ルカ15章の放蕩息子のたとえ)をしばしば強調する。放蕩息子が「父のもとに帰ろう」と決心したとき、彼が何か条件を満たさなければならなかったわけではない。父は喜びのあまり走り寄ってその罪を赦し、息子の身分を回復させた。その過程にはどんな複雑な手続きや代価も介入しなかった。ただ帰ってくるだけでよかったのである。ところが人間は、罪悪感や高ぶり、あるいは世の歪んだ宗教観のせいなのか、自分が何かもっと準備しなければ神のもとへ行けないと思い込む。

しかし、本文が語るように「神を知りうるもの」がすでに人間の内にある状態であっても、不信者であろうと神の前に出て叫べば、神は決してそれを無視されない。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)という言葉のように、神は先に人間を訪れて立ち返りを促される。私たちが心の扉を開くだけで、すぐに神の恵みが臨み、罪の赦しと救いのみわざが始まるのだ。

このように、私たちの魂が神なしには渇き、不安で虚しくなるというのは、人間存在が神に属していることを証明する別の表現でもある。どんな世俗的成功や娯楽も、この渇きを完全には癒せない。古代ローマの知識人たち、たとえばセネカやマルクス・アウレリウスなどの哲学者たちも人生の意味を探求し、ストア哲学を通して内面の平安を求めたが、結局、罪の問題自体を解決する道はなかった。パウロは彼らに対して、真の答えは神にあると強く訴えたのである。

張ダビデ牧師は「神がこれを彼らに示されたのです」というローマ書1章19節の言葉に触れながら、神が望んでおられるのは決して人間を知らん顔で放置することではないと示唆していると説明する。神は太初から今に至るまで、多様な方法で人間にご自分を啓示してこられた。自然を通して、良心を通して、歴史を通して、そして究極的にはイエス・キリストを通してご自分を示してこられた。問題は人間が「受け入れるのか、拒むのか」にかかっている。

受け入れない場合、神はその不敬虔と不義を責め、最終的には怒りをもって裁かれる(ローマ1:18)。受け入れる場合は、神と人間のあいだに「和解」という回復された関係が成り立つ(ローマ5章)。和解はすなわち救いであり、生まれ変わった人生が永遠のいのちにあずかる状態だ。神学的に言えば、罪によって壊された関係がキリストを通して再び結び合わされることである。だから張ダビデ牧師は「罪があることを正直に認め、神に立ち返るとき、私たちは本来神の子として創造された自分自身を取り戻すのです」と説教する。

これは単に宗教的所属を変えたり、礼拝の形式を整える次元の話ではない。「自分は本来何者で、どこから来てどこへ行くのか。人生の真の意味と目的は何なのか」という問題を根源的に悟る過程なのである。アウグスティヌスの有名な言葉、「神のうちに安息するまで私の魂は安らぎを得ないのです」という告白は、時代や文化を超えて人間実存の本質を突いている。人間は神に似せて創造されており、ただ神のうちでのみ真の平安と喜び、愛、そして意義を見いだすことができるのだ。

にもかかわらず、世はあらゆる代用品を提示し、神に代わり得ると誘惑する。金、権力、名誉、快楽、ありとあらゆる偶像的対象が「これがあなたを幸福にしてくれる」とささやくが、それらは結局、一時的な満足とさらに大きな渇望を呼び起こすにすぎない。こうして人間は絶えず魂の放浪を続けることになる。張ダビデ牧師は「信仰すること、イエスを信じることは本来の自分を回復する道だ」と力説する。それは特定の宗教に入会したり制度に所属する問題ではない。「自分は本来どんな存在なのか、どこから来てどこへ向かうのか、人生の真の意味と目的は何か」を根源的に悟っていく過程なのである。

人間はすでに「神を知りうるもの」を持っているから、いつでも神のもとへ帰る可能性は開かれている。世界のどんな地域や文化圏でも、人類は絶えず神を求める努力をやめてこなかった。しかし、その努力はしばしば歪められたり、偶像崇拝に流れたり、本物の神ではなく人間が自作した神概念に閉じ込められてしまったりした。だからこそパウロは一貫して「あなたたちがいま拝む無数の偶像や哲学の神、帝国神格化ではなく、唯一の創造主なる神に目を向けなさい」と叫ぶわけである。

結局、ローマ書1章19節は「神を知りうるものが彼らのうちに示されている」という宣言を通し、人間の内面の宗教的・霊的本質を再確認させてくれる。同時に1章18節にある「神の怒り」と並置されることで、人間の二重的な実存を明らかにしている。すなわち、一方では人間の内には神へ向かう渇望や良心があるが、他方では罪のゆえに神を拒む反発心も同時に存在する。これを神学的に言えば、「原罪と神のかたち」の混在とも言えるだろう。

張ダビデ牧師は説教で、だからこそキリスト者に必要なのは「罪を責めながらも、その中にある神への渇望と可能性を信じてあげるまなざしだ」と語る。世の人々にただ無造作に「あなたは地獄に行く罪人だ」と言うだけでは、彼らは耳を閉ざしてしまう。しかしパウロが示したように、罪を正確に指摘しつつも、それは「人間の中には神を発見しうる大切な能力があり、神に立ち返るなら変えられる」という希望を同時に伝えるためなのだ。人間には罪があるが同時に救いへ向かう可能性も開かれている。その可能性を現実のものにする道が、まさに福音である。

福音の本質は、人間がどんな資格も備える必要なく、そのままの姿で神の恵みの前に出ることにある。「だれでも主の名を呼ぶ者は救われる」(ローマ10:13)という御言葉のとおり、イエス・キリストの名を呼び、主として受け入れるとき、罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。放蕩息子が父のもとに帰るように、罪人である私たちも神のもとへ帰れば、神は私たちを真の息子・娘として回復してくださる。ローマ書はこの後、この救いを神学的に体系化し、義認と聖化、そして栄化へと続く救いの段階を説明する。しかしその出発点はいつも「罪を自覚し、神に立ち返る」心なのである。

一方で、これを伝える教会の使命は決して軽いものではない。教会自身が多くの誘惑や世俗化の危険にさらされており、教会の内側でさえ「神を知りうるもの」が歪められてしまうことが起こりうるからだ。張ダビデ牧師は、教会が「真理の光を照らすべき立場で商売をし、権力を振るう姿」を見せると、結局、福音の純粋性と力を失い、人々の心にある神への渇望を妨げることにもなりかねないと警告する。福音がもつ無条件・一方的な恵みを伝える代わりに、人間的な誇りや行為中心の信仰を強調すれば、魂たちは真の自由を体験しにくくなる。

だからこそ教会と信徒は常に自分を振り返る必要がある。パウロがローマ書2章で「あなたはユダヤ人として異邦人を裁くのか? あなたも同じだ」と宣言しているように、罪を指摘する教会自身が罪に陥っていたら偽善になってしまう。教会共同体が罪を曖昧に見逃したり、罪を指摘する際に愛なしに断罪だけするような極端な態度を取ってはならない。教会は罪を暴いて悔い改めへ導き、究極的には赦しと救いの道を開いてあげる福音の通路にならなければならない。

ローマ書1章19節は、結局「人間が心を開けばいつでも神を認識し、立ち返ることができる」という希望のメッセージを含んでいる。パウロは1章後半で、この希望を捨てて罪を楽しみ続ける者に対し、「神は彼らを放っておかれた」と述べている(ローマ1:24,26,28)。人間が最後まで拒むので、神もまた彼らの選択を尊重されるが、その結果がどんな破局をもたらすのかを当人たちが味わうことになるという意味である。自由意志を与えられた人間が神なしに自分の欲望に従って生きる道を選ぶなら、その破滅の責任も自分で負わざるを得ない。

ではその答えは何か。ローマ書3章以降でパウロは明らかにするのだが、イエス・キリストの贖いによってすべての罪人が義と認められ、神の怒りの下から抜け出して永遠のいのちの道に入れる道が提示されている。これこそ「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」である(ローマ1:16)。ローマ書1章18-19節が語る重苦しい罪論と怒りの宣言は、皮肉なことに福音の栄光に満ちた力をよりいっそう際立たせる。罪が大きく人間が絶望的であるほど、キリストの恵みがいかに驚くべきものかが一層明らかになるからだ。

張ダビデ牧師は、この点で「人間が神を知りうるものを持っている」としても、イエス・キリストを通しての福音を知らなければ、やはり救いに至ることはできないと明確に整理する。一般啓示や良心の働きだけでは罪の根本的な解決が不可能だからだ。それでも神がすでに私たちの心の内に「神への本能」を植えておられるという事実は、福音が宣べ伝えられるとき魂がその声に応答しうる霊的土壌が整えられていることを示している。だからこそ教会は大胆に福音を宣べ伝えなければならない。人々の心の奥深くには神への渇望があり、それは何らかの形で噴出する可能性があるのだ。

まとめると、ローマ書1章18節と19節は、神の怒りと人間の内面にある神認識の可能性を並行して示すことで、人間がなぜ救われねばならず、どうやって救いに至るのかを解く序論を提供している。「不敬虔と不義」によって要約される罪のゆえに、人間は怒りの下に置かれているが、同時に「神を知りうるもの」が人間の内にあるゆえに、だれでも心を入れ替えて福音を受け入れるなら救われる。そのことがまさしく使徒パウロがローマ書全体で展開する福音のエッセンスであり、現代に生きる私たちにも適用される永遠の真理だ。

私たちは、だれ一人として「私は罪と無関係だ」と言えず、神の怒りを免れることはできないと聖書を通して学ぶ。しかしその重みの中にも希望を持つ理由は、神がすでに私たちの存在の奥深くにご自身を求めるきっかけを埋め込んでくださっており、その道をイエス・キリストの福音によって完全に開いてくださったという驚くべき事実である。これを悟るとき、人は初めて「真の自分」を取り戻し、神との関係の回復によって人生の目的と意味を正しくつかめるようになる。

張ダビデ牧師は「福音はただ罪のもとにある者を生かす神の力」であり、「人間が罪を悟る道はすでに神が内面に埋め込んでくださった渇望と自然啓示を通して可能になる」と重ねて強調する。福音が宣べ伝えられるとき、人々は心の深いところで「ああ、自分がいつも渇望していたのはこれだったのだ」と気づいたり、あるいは心の奥に潜んでいた罪悪感が表に現れて悔い改めへ向かうこともある。こうした「立ち返り」と「主のもとへの歩み」こそ、ローマ書が語る救いの始まりである。

結局、ローマ書1章18-19節は、人間が神に背を向けていても、神はなお彼らを呼び続けるみ手をお収めにはならず、ただ人間がそれを拒絶し続けるなら罪に対する怒りを免れないことを宣言している。パウロの時代のローマだけでなく、すべての時代、すべての文化圏に等しく適用される御言葉だ。今日の私たちも、科学が進歩し物質的に豊かになったといっても、内面の深いところにある不安や虚しさは決して消えない。それは「神を知りうるもの」が潜在しているにもかかわらず、神なしで生きようとするところから生じる必然的な結果なのである。

しかしこの福音のメッセージを聞いて心を開くなら、もはや罪の奴隷として生きる必要はないと気づける。神の怒りから逃れ、その方の子どもとして回復される道が開かれている。教会はこの事実を伝えなければならず、世はそれを拒むことも、受け入れることもできる。そのどちらを選ぶかによって運命が分かれる。福音を受け入れ悔い改めて信仰へと向かう者には、罪の赦しと永遠のいのちが約束され、最後まで拒む者には神の怒りが臨むというのがローマ書全体が語る救いの論理である。

こうして見ると、ローマ書1章18-19節が語る神の怒りと人間内面の神認識の問題は、パウロ時代や特定の地域に限定される話ではまったくない。人間が存在する限り、そして罪がある限り、この問題は続くと同時に、福音の答えもまた続くのである。人間は本来神を求めるように造られており、その渇望を罪が覆い隠していて自力で道を見失っているが、神はイエス・キリストを通して救いの道を再び開いてくださった。教会と信徒には、まさにこの道を世に紹介し、人々をそこへ導く使命が与えられているのだ。

張ダビデ牧師がこの本文を講解するたびに核心的に投げかける問いは「あなたは真の自分を回復したのか?」「神の怒りの下にとどまり続けるのか、それとも罪を認めて悔い改め、救いの恵みにすがるのか?」である。これはローマ書がもたらす非常に直接的かつ個人的な問いでもある。福音は単なる知識ではなく、実存的決断を求めるからだ。私たちは、自分の内に「神を知りうるもの」があることを認め、これ以上罪を言い訳にしたり回避したりせず、へりくだって神に立ち返るべきだ。そうするとき、神の怒りは私たちを滅ぼす恐怖ではなく、罪から離れさせる「救いの機会」となる。

結局、ローマ書1章18-19節は罪と救い、怒りと恵みが交差する地点である。この御言葉を通して、神がどのようなお方であり、人間がどのような存在なのかをより明確に知ることができる。人間は神なしには決して真の自己も真の平和も見いだせない存在であり、同時に神を無視するとき罪の内にとどまるほかなく、その罪による神の怒りは避けられない。だからこそ福音が必要であり、福音こそが罪の赦しと永遠のいのち、神との和解に至る道なのである。

張ダビデ牧師が強調するように、教会がこのメッセージを見失わないとき、世の中で力強く福音を宣べ伝えられる。人間が本質的に神を知りうる存在であることを前提にすれば、罪を指摘するときにも同時にその回復を信じて待つことができる。また「神の怒り」を前提にすれば、福音がいかに切実かを骨の髄まで思い知らされる。もし教会が罪や怒りを回避してしまうなら、人間は自分が本当に罪人であることを自覚せず、救いも不要と思うだろう。逆に人間の内面の神認識を無視すれば、福音宣教において「相手はまったく望みがなく受け入れようもない」という敗北主義に陥る可能性がある。

したがって、両方の御言葉(ローマ1:18、1:19)が均衡を保ってこそ、私たちは罪と怒りの深刻さを直視しつつも、同時に悔い改めと救いの可能性を信じて福音を宣べ伝えることができる。教会は人々に「あなたの内にはすでに神を知りうる何かがあります。しかし罪によってそれを拒めば神の怒りのもとにあります。だからこそ一日も早く立ち返るべきです」と勧めることができる。この勧めを聞いて心を開き、神に立ち返る者にとって、福音は命と救いの力となるのだ。

結局、ローマ書は罪を指摘するだけで終わらない。罪が明るみに出てこそ救いにあずかれるので、パウロは1章後半と2-3章において人間の罪を徹底的に暴露した後、イエス・キリストの十字架の代償によって罪人が義と認められる「義認」の福音へと読者を導く。神の前に少しの義もない私たちが、キリストの血によって清められ義とされ、神の子どもとされる恵みが与えられる。これこそローマ書が示す偉大なる福音である。そして1章18-19節は、その偉大な福音の扉を開く出発点なのだ。

張ダビデ牧師は、この御言葉を通して信徒たちに「自分自身の罪を深く認めて悔い改め、すでに内面に与えられている神の声にいっそう敏感に耳を傾けなさい」と勧める。人間はだれもが神なしには生きられないよう創造されており、それゆえに罪のうちにあっても神を求め渇望するものだ。その渇望が結局人間を救いへ導く火種にもなる。しかし最後までその渇望を否定して真理を阻めば、怒りを免れない。逆に渇望を認め、福音を通して神のもとに立ち返るなら、罪の赦しと永遠のいのちを得る。

このようにローマ書1章18-19節は福音神学の重要な前提を短い二節の中にすべて内包している。人間は罪の中にあり神の怒りを避けられないが、同時に人間の内には神を知りうる種があって、福音を受け入れる可能性を宿している。現代においても、人々は科学、哲学、芸術、思想など多彩な手段を通じて人生の意味や目的を探し求めているが、真の解答はイエス・キリストの福音にこそある。教会はこの解答を手にする共同体として、罪を悟り悔い改める人々に喜んで恵みの道を案内する必要があるのだ。

張ダビデ牧師のローマ書講解が私たちに改めて思い起こさせるのは、人間が直面している霊的現実がいかに厳粛であり、しかもそれでもなお神が私たちに立ち返る道を用意してくださっているという驚くべき事実を同時に見つめよ、ということである。神の怒りは現実でありながら、その恵みと救いもまた現実である。人間は罪と死の権勢のもとにあるが、同時に神への渇望を内包している。これを正視しながら、「イエス・キリストを信じることによって救いを得よ」という福音の招きに全面的に応答すべきなのだ。

結局、「神の怒り」と「神を知りうるもの」という二つの軸を同時に見せてくれる本文(ローマ1:18-19)は、ローマ書全体の序論であると同時に福音の核心部分に相当する。パウロはこれを通して読者を罪の深淵へと連れ込みながらも、同時に神へ立ち返る希望の扉を開いてくれる。張ダビデ牧師をはじめ多くの牧会者や神学者がこの本文を深く講解する理由はここにある。罪が顕在化してこそ救いが見え、すでに私たちの内にある神への渇望を自覚してこそ福音が入り込む余地が生まれるのだ。

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救いの恵み – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 人間の罪と神の

張ダビデ牧師は、エペソ書2章の中心テーマを説明する前に、まずエペソ書1章でパウロが記している賛美と感謝の理由を強調する。エペソ書1章でパウロは「天にあるもの、地にあるものすべてをキリストにあって一つにまとめようとしておられる」(エペソ1:10)と語るが、これは単なる個人救済を超えた「歴史の大いなる方向性」を示す箇所だと説き明かす。張ダビデ牧師は、歴史がB.C(紀元前)とA.D(紀元後)に区分されるという事実自体が、キリストの到来が歴史の核心的出来事であることを意味すると解釈する。歴史は「キリストにあって一つにまとめられていく壮大な過程をたどっている」のであり、これこそが「終末論的ビジョン」であり「新しい始まり」を意味するのだ。

こうした歴史の大きな流れの中で、張ダビデ牧師は教会に初めて来た人々に対して、通常「創造-罪-キリスト-救い」で要約される“四霊理(사영리)”を教えるが、そこに「神の国」を付け加え、「創造-罪-キリストによる救い-神の国」と拡張して紹介する。聖書全体が結局は神の国を回復し完成へと導く方向で展開しているからである。彼によれば、神の国はイエス・キリストの初臨と十字架の贖いを通して始まり、現在もなお拡大し、最終的に完成へと至る。そのためキリスト教の信仰は、単なる個人救済にとどまらず、「歴史の救い」という広大な次元の中で、究極的に神の国が到来することを見据えるよう促すのだという。

張ダビデ牧師は、エペソ書1章においてパウロが「賛美すべき理由」があったと述べるように、救いの恵みを受けた者には自然と賛美と祈りがあふれると解説する。実際、エペソ書1章は賛美と祈りに満ちている。そして「私たちが何を願って祈るべきかを示す模範的な祈りが、まさにパウロの祈りである」とし、とりわけエペソ書1章後半に見られるパウロの祈りの内容に注目する。その祈りは表面的な願望ではなく、神の救いの計画と統治、そして人間の霊的な知恵と啓示の霊を求める高度な要請である。つまりパウロは「あなたがたの心の目を開いてくださるように」という表現を通して、単なる知識ではなく、「心の覚醒」を通した神の御心の理解を願っている。

この文脈の中で、張ダビデ牧師は自然と人間の堕落と罪の問題へと視線を移す。本来、神は美しい世界を創造され、特に人間を神のかたちとして造り「極めて良かった」と評価されたにもかかわらず、人間は罪によって堕落し、神との関係が断絶し、無秩序と混沌の中に陥ってしまったというのだ。これはサムエル記上15章23節でサムエルがサウルに対して「王が主の言葉を捨てたので、主も王を捨てられた」と告げた言葉と並行して考えられ、人間が「自分から神を捨てたこと」が根本原因だと説く。張ダビデ牧師は「これこそ聖書が教える深い世界」であるとし、人々は神から離れて罪を犯しつつも、むしろ神に捨てられたと思いがちな傾向を指摘する。だが実際は人間が先に神に背を向け、それゆえに御怒りのもとに置かれる存在となったのだという。

にもかかわらず、罪人に対する神のあわれみと愛は尽きることがなく、神は罪の中にある人間を生かすために御子を送り、「独り子を与えられた」(ヨハネ3:16)という福音へと人類を招かれた。張ダビデ牧師は、イエス・キリストの十字架の出来事が「贖い(Redemption)」の出来事であることを強調する。古代の背景(奴隷を身代金を払って買い取り、自由を与える概念)をもつ「贖う」という言葉のように、イエス様がご自分の命という最も尊い代価を支払うことによって、罪の奴隷状態にあった人間を解放してくださったというのだ。こうして張ダビデ牧師は「創造-罪-キリスト-救い」という典型的な四霊理に加え、聖書全体が「最終的に神の国へ帰結する」という大前提を提示し、エペソ書が示す「キリストにあって万物を一つにされる」神の救いの御業がいかに壮大で明確であるかを説き示す。

その結果、エペソ書1章の結論は「賛美」と「祈り」で要約される。パウロの告白が示すように、罪人である人間が神の恵みによって救われたのだから、心の奥底からあふれる賛美が湧き出し、さらにその恵みをいっそう大きく悟り体験することを願う「聖なる祈り」が自然に続くという解釈である。張ダビデ牧師はこのように「恵みに対する認識」が深まるほど、人間の祈りは神の国と歴史の救いを見据える広い視野を獲得すると説明する。この点こそ、エペソ書がもつ独特のスケール感、すなわち「歴史と救い」を同時に貫く書簡の特徴でもあるのだ。


Ⅱ. 過ちと罪、そして救いの確かさ

続いて張ダビデ牧師はエペソ書2章に入り、2章1節に登場する「過ちと罪のゆえに死んでいたあなたがたを生かしてくださった」という宣言がもたらす劇的な逆転を強調する。パウロはすでにエペソ書1章の最後で「歴史は究極的にキリストにあって一つにまとめられる」と宣言していたが、2章に至って、その統合の過程がいかに「死から命へ移される変化」であるかをありのままに示すからである。

まず2章1節で語られる「過ち(παράπτωμα, パラプトーマ)」と「罪(ἁμαρτία, ハマルティア)」の区別に注目する。張ダビデ牧師によると、「過ち」は「軌道を逸脱する(fall away)」という意味をもち、人間には本来歩むべき道(軌道)があったにもかかわらず、それを外れてしまった点を示すのだという。宇宙万物は太陽を中心にそれぞれの公転軌道をもち、自然界や動植物ですら与えられた法則に従って動いているのに、こと人間だけが、自分に与えられた創造の秩序と道を逸脱してしまったというわけだ。一方「罪(ハマルティア)」は「的を外す(missing the mark)」という語源をもち、的の中心を射止められないことによってすべてがこじれてしまう状態、すなわち無秩序と混乱を意味する。

張ダビデ牧師は「かつてはその中を歩き、この世の流れに従い、空中の権威をもつ支配者に従っていた…」(エペソ2:2)という節が示すのは、人間が単に個人的な罪性に留まるのでなく、「空中の権威をもつ者(サタン)」が支配する世の流れに流されて生きる構造的な罪悪を示唆している、と解説する。つまり人々は罪という存在を神と無関係のもの、あるいは自分たちの間だけの問題だと考えることもあるが、聖書はその背後に空中の権威をもつ悪しき霊がいて、その勢力が世の風潮(イデオロギー、文化、価値観など)を支配することで「罪の潮流」を極大化させるのだと言うのだ。エペソ教会があったエペソの町は、大きな女神アルテミス神殿を中心に性的退廃と偶像崇拝が盛んだった。張ダビデ牧師はその点を指摘し、当時の人々が「偶像崇拝と淫乱、堕落した文化に染まりきって生きていた」ことを理解すべきだと語る。そう考えると、エペソ書で言われる「世の流れに従い、空中の権威をもつ者に従う姿」は、決して抽象的な話ではなく、当時きわめて現実的な問題であったことがわかる。

さらに張ダビデ牧師は、エペソ書2章3節の「本来、生まれながらにして怒りを受けるべき子ら」という表現が、ローマ書1章でパウロが「不義によって真理を覆い隠している人々に対して神の怒りが下る」と語った流れと一致すると指摘する。現代人は「神の怒り」と聞くと、しばしば「神の愛」と相反する概念だと誤解しがちである。だが張ダビデ牧師によれば、神が怒られる理由は「人間が神を捨て、自ら不義と偶像崇拝を行い、互いを傷つける罪の中に落ち込んだから」である。つまり神の怒りは、愛の反対というよりも、聖なる神が罪を憎まれる本質的な態度であり、回復のための「正しい裁き」なのだ。人間はみずから軌道を逸脱して生まれながらに御怒りの対象となったが、それと同時に神は人間をあわれみ、ふたたび救う道を備えてくださる――これがエペソ書2章が告げる逆転のメッセージだ。

「しかしあわれみに富んでおられる神は、私たちを愛してくださったその大きな愛によって、罪のゆえに死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました…」(エペソ2:4-5)という節において、張ダビデ牧師は救いが神の恵みによることを重ねて強調する。人間が神から離れたのにもかかわらず、神は人類を見捨てることなく、ついには御子をさし出すほどの極端な犠牲をもって罪人に永遠の命を許してくださったというのだ。だからこそエペソ書2章8-9節で「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのです。これは自分たちから出たことではなく神の賜物です。行いから出たのではありません。だれも誇ることのないためです」とはっきり語られる。ここで張ダビデ牧師は「私たちが救われたのは完全に神の賜物であって、私たちの行いや功績、義によって受けるものでは決してない」という点を忘れてはならないと力説する。

救いの本質が「行いに先立つ恵み」であることを示すために、張ダビデ牧師は「Sola Gratia(恩恵のみ)」を引き合いに出し、宗教改革の時代から強調されてきた「恵み」と「信仰」の関係を喚起する。まず恵みがあり、その恵みを受け取る通路が「信仰」なのだから、私たちがどれほど正しい行いを積もうと、それが先になることはできないのだ。パウロも「それゆえだれも誇ることはできない」(エペソ2:9)と断言する。張ダビデ牧師はこれを「ぶどう酒に水を混ぜることはできないように、決して恵みに行いや功績を混ぜてはならない」とたとえ、救いの絶対性こそクリスチャン信仰の基盤だと強調する。

さらに「私たちは神の作品である」という表現(エペソ2:10)のギリシャ語「ポイエーマ(ποίημα)」を分析し、「キリストにあって新しく創造された存在」という意味を深く掘り下げて語る。張ダビデ牧師はここで「新しい創造物」(第二コリント5:17)になったことをあらためて述べ、救いとは単なる罪の赦しや刑罰の免除にとどまらず、存在自体が新しく造りかえられる根本的な再創造だと捉える。そして救いの目的を「良い行いをするために造られた者」(エペソ2:10)という言葉につなげていく。つまり、恵みによって救われた者たちは、神があらかじめ備えてくださった「良い行いをする生き方」を歩むよう召されているということだ。張ダビデ牧師はこの箇所を通して、クリスチャンが世の中でどのような姿勢で生きるべきかがはっきり示されると語る。信仰によって恵みにより救われた者は、「結局、善を行ない、世で光と塩となり、神が用意しておられる道を喜んで歩む人々になるべきだ」というのだ。

このようにエペソ書2章1-10節の「死から命への転換」は、過ちと罪によって軌道を外れ、的を外していた人間を、主が「キリストにあってもう一度呼び起こしてくださった」という一言に要約される。張ダビデ牧師はこれこそ「私たちが生涯感謝し賛美すべき福音の核心」だと力を込めて語る。すべてが絶望的で無意味に見えた罪びとの人生に、神の深いあわれみと愛が注がれて「ともに生かし、ともに起こし、ともに天上に座らせてくださる」栄光にあずからせてくださったのだから、私たちの人生全体が感謝の歌となりうる、というわけである。


Ⅲ. 「神の」を目指す確信

張ダビデ牧師は、エペソ書1~2章を貫く主題を「歴史の終わりであり新しい始まりでもあるイエス・キリストの到来」とまとめる。エペソ書1章10節で「天にあるものも地にあるものもすべてキリストにあって一つにまとめようとしておられる」と語るとき、それはすなわち歴史がどこへ向かうのか、その終着点が何であるのかを明らかにする御言葉であるというのだ。イエス・キリストは旧約の結論であり新約の始まりであり、「アルファでありオメガである」という黙示録の宣言のように、歴史の起点であり完成点として存在する。張ダビデ牧師はテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)の「オメガポイント」の概念を引き合いに出し、「旧約のオメガポイントがイエス・キリストであるなら、新約のオメガポイントは神の国である」と語る。結局、終末とは「古い歴史が終わり、新しい歴史が始まる時点」であり、それはイエス・キリストの初臨によってすでに始まったのだとみなす。

こうして歴史は、ただ流れ去って消えていくだけの無意味な川の流れではなく、「キリストにあって神の国へと収束」していく計画された旅路なのである。張ダビデ牧師は、この確信のもとでパウロが使徒の働き28章に至って「神の国とイエス・キリスト」を伝えたと記録されていることを思い起こさせる(使徒28:31)。さらにイエスが復活して昇天される前、弟子たちが「イスラエルの国を回復してくださるのはこのときですか」(使徒1:6)と問いかけた中にも「国の回復、すなわち神の国の完成を待ち望む思い」が込められていたと解説する。新約の時代を生きるクリスチャンにとっても同様に、この国はすでに始まっているが、まだ完成していない状態でなお広がり続けており、祈りの場で「御国が来ますように」と願うのは、まさにこの「終末論的確信と現在的参加」を意味するのだ。

結局、エペソ書でパウロが語る「古い罪の歴史は十字架によって終末を迎え、新しい命の歴史が始まった」という宣言は、現代の教会が「どのような歴史観を抱いて生きるべきか」を示すものでもある。張ダビデ牧師は「歴史がどこへ向かっているかわからなければ、自分の船がどちらを目指しているかもわからないまま漂流することになる」というたとえを用いて、クリスチャンは「はっきりした目的地」、すなわち「神の国の完成」を見据えて生きるべきだと力説する。つまり、キリストにあって私たちの人生と働きは「歴史の大きな流れ」に参加する行為であり、私たちが置かれた世のただ中にあっても、この国はからし種のように少しずつ成長し、パン種のように粉全体を膨らませるように影響力を広げていくのだ(マタイ13:31-33)。

張ダビデ牧師は、このように歴史の救いと神の国の到来を確信する者たちから自然にあふれ出る霊的態度こそが「賛美と感謝」だという。エペソ書1章でパウロが自分の生をそのまま賛美として告白しているように、それは「賛美せざるを得ない理由を明確に認識していた」からだと見る。この賛美の理由は、単なる心理的慰めのレベルではなく、罪に陥って死んでいた者を「恵みによって救い出してくださった」救いの出来事に対する感激からくる。すべての人は「本来、怒りを受けるべき子ども」だったが、世の流れと空中の権威をもつ者にとらえられてもがき、自力では決して救いに至れなかった。しかしイエス・キリストが十字架で「差し出される」ことによって、人間は「ただで」救いを受け、結果として罪と死の権威を打ち破る力強い命へと再び起こされた。これへの感謝が賛美となるのである。

さらにこの恵みを経験した者たちは、感謝の姿勢で世に仕えていく。張ダビデ牧師はエペソ書2章10節の「良い行いをするために造られた」という部分に言及し、感謝と賛美は決して口先だけではなく「行動として結実すべきである」と解釈する。「罪人の頭」であったパウロがその恵みを悟って、生涯をかけて福音を伝えたように、現代を生きる信徒たちもまた「かつての罪から救われた恵みに感謝して、今は善を行ない、神の国の拡大に寄与する生き方」をしていかなければならないというのだ。それは私たちの力によるのではなく、「キリストとともに」天上に座らされ、「キリストとともに」権威を与えられたことを悟るとき初めて可能になる生き方である。だからこそ張ダビデ牧師は「私たちを救われた目的とは、究極的に神があらかじめ備えておられる道に従って善を行わせることであり、その中で神の栄光が現れるのだ」と結論づける。

結局、エペソ書2章は私たちに尽きない感謝と賛美を呼び起こす「恵みの章」である。私たちがどれほど自分は生きていると思っていても、神の視点から見れば罪のために死んだ状態であったのが、いまはキリストにあって真のいのちを得たのだから「新しく生きるのが当然だ」という教訓を与える。張ダビデ牧師は、これこそ「エペソ書が伝えてくれる福音の宣言」であり、また「壮大かつ深遠な神の救いの御計画を実践的に理解する鍵」だとまとめる。かつて罪によって軌道を外し死んでいた者たちが、今やキリストにあって新しい創造物として造られ、良い行いへと召されているという事実に、すべてのクリスチャンの存在理由と召命が明らかにされるのだ。そしてこの事実を握るとき、私たちが生きる現実がいかに暗く見え、サタンの権威が大きく見えようとも、歴史はすでに「キリストにあって決定された未来」へ向かっていることを確信できるのである。

このように張ダビデ牧師はエペソ書2章を通して、「過ちと罪のゆえに死んでいた者がイエス・キリストとともに生かされ、天上に座らされるに至った」という福音こそ、私たちの「永遠の歌と祈り」となるべきだと強調する。その賛美と感謝は教会共同体をさらに霊的に健やかにし、ひいては世に対して善い影響を及ぼし、究極的に「神の国の回復」というゴールに向かって歩ませる原動力になるというのだ。彼はいつもこのメッセージを伝えつつ、「私たちが乗っている船の終着点は明らかだ。それは神の国である。イエス・キリストにあってすべては一つに集められ、古い歴史はキリストの十字架と復活によって終わりを告げ、新しい歴史はすでに始まっている。ゆえに揺らぐことなく歩みなさい。恵みによって救われたあなたがたは、善を行ない、賛美し、感謝する者となりなさい」と結論づけて勧める。

張ダビデ牧師が語るエペソ書2章のメッセージは、まさに教会のアイデンティティとクリスチャンのアイデンティティをあらためて喚起する営みでもある。「あなたがたはかつて死んでいたが、今は生きる者となった。キリストとともに生かされ、最終的には神の国を望みつつ、この地上で善を行なうよう召されている」という事実を握ることこそ信仰の核心だというのだ。そして、その核心から生まれる感謝と賛美、そして確信が、私たちの人生全体を新たにし、さらに神が備えておられる道の上で世に対する福音の証しとなる、と張ダビデ牧師は繰り返し強調する。そういう意味で、エペソ書2章はイエス・キリストにあって展開された「死から命へ、怒りから恵みへ」と移されたすべての人の告白であり証しでもある。そしてその最終目的地は「神の国」であるという揺るぎないビジョンだ。キリストによって救われた私たちは皆、この壮大な歴史の行進に参加する特権を与えられ、それゆえ賛美と感謝がふさわしいという結論が、張ダビデ牧師が示すエペソ書2章における最も本質的なメッセージなのである。

パウロの証と福音の普遍性――張ダビデ牧師

1. 使徒行伝22章の歴史的背景と張ダビデ牧師の神学的解説

 張ダビデ牧師は使徒行伝22章を解説するにあたり、まずは使徒行伝21章の最後の節と22章の冒頭に示される歴史的背景を深く考察する。本箇所は、パウロがエルサレム神殿で逮捕された直後、千人隊長の前で自分に対して激怒するユダヤ人の群衆に対し、ヘブライ語(アラム語)で弁明する場面を描いている。張ダビデ牧師は、こうした言語的背景が単なる意思疎通の問題を超えて、当時のユダヤ社会やエルサレム神殿に集っていたディアスポラのユダヤ人、そして宗教的熱心に満ちた群衆に対して、心理的・情緒的な衝撃を与えただろうと強調する。パウロが自分は正統的ユダヤ教バリサイ派の出身であり、ガマリエルの門下生だったと明かした際、彼らが驚いた可能性が高いと指摘し、こうした言及を通じてパウロが自身の背景と正統性を先に弁明する、一種の序論を提示したのだと見なしている。

 続いて張ダビデ牧師は、エルサレムへと押し寄せた人々の怒りがなぜこれほどまでに大きかったのかに注目する。パウロが神殿に入るとき、異邦人を伴っていたと誤解されたことが直接的な原因ではあるが、より根本的には、パウロが異邦人にも福音が宣べ伝えられるべきだと主張したことが拒否感を引き起こしたのだという。当時のユダヤ人社会にはローマ帝国の支配に対する多様な反応が存在していた。サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派、熱心党(ゼロテ)が代表的な例である。張ダビデ牧師は、この四つの主要な潮流がそれぞれローマとの関係をどう結び、またいかに神の国を待望していたのかを解説する。サドカイ派は貴族階級と祭司を中心とし、ローマ権力とある程度協力関係を保っていた。パリサイ派は徹底的な律法遵守によって清さを保ち、罪のない生活により神の国が到来すると信じた。エッセネ派は荒野へ退き、世俗から分離された急進的な禁欲生活を営みながら、罪に満ちた世のただ中へ入るよりも共同体の純粋性と敬虔さを守ろうとした。熱心党は武力闘争を辞さずにローマの勢力を駆逐して神の国を早めようとする過激な集団だった。パウロはパリサイ派出身として自治と律法を重んじていたが、主の召しを受けた後には、異邦人にまで福音が宣べ伝えられるべきだという聖霊の導きに従うようになる。

 張ダビデ牧師は、このような宗派的・政治的背景をさらに深く照らし出しながら、当時の争いの中心にいたパウロがどのような論理と言証をもって自己を弁明していったかを丹念に辿る。パウロはまず、自分がユダヤ教でも高く尊敬される都市タルソスの出身であり、ガマリエルのもとで厳格に律法教育を受けたことを述べる。これは単なる異端的主張をもつ人物ではなく、ユダヤの伝統と律法教育を徹底的に受けた者であることを証明する意図的な発言だったと、張ダビデ牧師は解説する。さらにパウロは、ピリピ3章5節を想起させる形で、自分が八日目に割礼を受けた正統なユダヤ人であり、ベニヤミン族、ヘブライ人の中のヘブライ人、そして律法においてはパリサイ人であったと明言する。これはパウロがもつ資格を総動員し、自分が“背教者”や“異端の教祖”ではなく、むしろ誰よりも律法に熱心だったことを強調する文脈である。

 パウロは自らを弁明しつつ、「自分もかつてはあなたたちと同様、熱心に燃えていた」と告白する。かつてはイエスの道、すなわち「この道」に従う者たちを迫害し、殺すことさえ辞さなかった自分が、今はまったく異なる道を歩んでいると証言するのである。特にパウロがステパノの死に直接関わり、彼を殺す者たちの衣服を預かっていた点、エルサレムの大祭司と長老たちの公文書を受けてダマスコまで人々を捕らえに行こうとしていた事実が、パウロ自身の口から改めて語られる。張ダビデ牧師によれば、これによりパウロがいかに徹底的にイエスの共同体を撲滅しようとしていたかが明らかにされるという。ユダヤ人聴衆もこの点はよく知っていたため、容易には反論できなかったに違いない。

 張ダビデ牧師は、パウロがダマスコ途上で主の声を聞いた出来事を非常に重要視する。そこでの「大いなる光」がパウロの存在と思考を根底から揺さぶり、そのとき地に倒れたパウロに「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という主の厳しい声が直接に響いた点を強調する。パウロは誰を迫害していたのか。まさに「ナザレのイエス」である。これが決定的な転機となり、パウロは三日間視力を失い、深い悔い改めと沈黙の時を過ごす。その後、アナニアから洗礼を受けることで回復し、自身の使命を明確に自覚する。ここで張ダビデ牧師は、選びと啓示に関する神学を同時に提示する。神は罪深く邪悪な者であっても回心の対象とされる――それは福音の神秘であり、「罪の増すところに恵みもいよいよ増し加わる」という、後にパウロがローマ書で説いた真理がすでに内包されているという。

 アナニアの勧告である「兄弟サウロよ、再び見よ」という言葉は、単なる視力の回復を超えた信仰的視野の大転換を意味する。さらに「躊躇せずに主の名を呼び、洗礼を受けて罪を清めよ」という呼びかけは、従来のユダヤ教的儀式とは本質的に異なる、イエス・キリストを中心とした信仰告白を前提としている。パウロはこうして自分の回心過程を会衆の前で事細かに語ることを通じ、ローマ帝国の支配下でサンヘドリン(ユダヤ最高法院)の宗教裁判権を行使していた当時のユダヤ指導者たちの性質を浮き彫りにするとともに、パウロ自身がいかに正統性をもった人物であるかを示そうとしたのだ。張ダビデ牧師は、パウロの証が単なる自己防御ではなく、「誰であってもイエス・キリストの光によって根本的な回心が可能だ」という福音の本質を宣言する伝道的行為でもあったと評価する。

 また張ダビデ牧師は、パウロがエルサレム神殿に戻った後に見た幻のエピソードを特に重視する。神殿で祈っている中、「急いでエルサレムを去れ。彼らはおまえの証を受け入れないだろう」という主の声を聞いたとパウロは語る。ここでパウロは、エルサレムでの福音宣教が極めて困難になることを悟った。しかし、パウロにとってエルサレムはもっとも宣教したい場所であり、同胞やかつての仲間に新しい道を示したいという強い願いを抱く場所でもある。ゆえに「なぜ自分が迫害していたイエスを今こうして伝えるのか」をはっきり説得したかったはずだと張ダビデ牧師は推察する。ところが主は「わたしはあなたを遠く異邦人へ遣わす」と宣言し、これがユダヤ人の聴衆の怒りを爆発させる決定打となった。彼らは、パウロが異邦人に福音を伝えるという発想そのものが先民思想と根本的に衝突するとみなし、「こんな男は生かしておけない」と叫んで暴徒化してしまう。張ダビデ牧師は、これこそ歴史的残虐さと宗教的排他意識が結びついた典型例だと指摘する。結局、パウロはローマ市民権を明かすことで違法な拷問や鞭打ちを逃れることができる。世俗帝国の法が宗教的過激主義からパウロを守る結果になったのはなんとも皮肉だと張ダビデ牧師は解説する。

2. パウロの証と選びの教理に関する張ダビデ牧師の解説

 張ダビデ牧師は、本箇所に示されるパウロの証を中心に、選びの教理がもつ神学的意義を掘り下げて説く。パウロはダマスコ途上で経験した劇的な回心をありのままに証言するが、かつての彼は熱心な宗教人ではあったものの、その熱心さは自分の民と伝統を守るための暴力へと結実していた。エルサレムの大祭司と長老たちからの公文書を受け取り、「この道」に属する人々を逮捕・投獄し、さらにステパノを石打ちにする際に先頭に立つほどであった。ところが「大いなる光」と呼ばれる神の介入によって彼はイエス・キリストと直接出会い、三日間視力を失う中で自分の罪深い行いを悔い改め、新しい一歩を踏み出すこととなる。

 張ダビデ牧師は、パウロが自分の選びと召しを決して自分の意志や努力によって勝ち取ったものではなく、ただ神の恵みによるものであると常に強調してきた点に注目する。パウロは「神はあらかじめ知っておられた人々を召し、召した人々を義とされた」(ローマ8章)や、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだのだ」(ヨハネ15章)などの聖句を引用しながら、自分の回心の神学的意義を再三明らかにしている。すなわち、パウロの回心は彼の内面の自覚や功績によるものではなく、まったく神の主権的介入と恵みに基づくものであったということである。

 この流れで張ダビデ牧師は「罪の増すところに恵みもいよいよ満ち溢れる」というパウロの有名な宣言を重ねて取り上げる。ステパノの殉教に積極的に関わり、多くのキリスト者を牢に閉じ込めようと躍起になっていたパウロこそ、当時の教会共同体にとっては恐るべき迫害者そのものだった。ところが、神はまさにそのパウロを「異邦人の使徒」としてお選びになった。これは人間の基準や道徳的資格をはるかに越える神の恵みの顕現であると解説する。アナニアもまた、当初はパウロに会うことをためらったが、「これはわたしの選んだ器である」という主の決定的宣告を受け、従わざるを得なかった。この出来事は、私たちがどんな罪や暗い過去を背負っていようと、主が選ばれたなら、その者を用いることがおできになるという福音の核心を示す。

 では、こうした“選び”がなぜパウロの“自発的”な部分と結びつくのか。張ダビデ牧師は、パウロが回心後すぐに祈りに入り、断食を続けたまま三日間を過ごした点を重要視する。これは単に肉体的な苦痛というより、神の前で自分の過去を振り返り、赦しを願い、今後の人生を明け渡す完全なる服従の時間だった。「主よ、私は何をすればよいのでしょうか」という問いこそ、選ばれた者が取るべき最も基本的な応答であり、そういう意味でパウロは神の召しに積極的に応じたといえる。張ダビデ牧師は、回心は従順へと続いていかなければならないと強調する。人間の努力によって救いを得ることはできないが、選ばれた者には聖なる責任と新しいアイデンティティが与えられるというわけだ。

 またパウロが自分を語るとき常に「私は罪人であり、イエスを迫害した者」であると繰り返すのは、この“恵みの選び”をより鮮明に示すためだと張ダビデ牧師は説明する。選びは傲慢を生むのではなく、むしろ自己を低くする謙遜と感謝をもたらすのだ。パウロはピリピ3章でも、世間的な経歴や律法的プライドを「ちりあくた(糞土)」とみなす。かつての地位や学問的名声、熱心では決して救いに達しない、ただイエス・キリストを知ることこそ最もすぐれているという結論に至ったからであり、その原点が使徒行伝22章におけるダマスコ途上体験とアナニアの導きによる洗礼・視力回復だったと張ダビデ牧師は説き明かす。

 まとめると、張ダビデ牧師はパウロの証が単なる個人的回心の物語にとどまらず、選びと恵みが歴史をどう変えるのかを示す重要な具体例だと強調する。かつて福音の最大の迫害者であったパウロが、最も力強い福音宣教者へと変貌していく過程は、聖霊が人を召し、変革し、福音の普遍性を告げ知らせる器として用いられる様子を鮮やかに示している。熱烈なユダヤ教徒であったパウロが、異邦人の使徒へと転身するこの劇的な逆転は、まさに「神の召しと選びが人を根底から変え、福音の普遍性をもたらす」ことをはっきりと示す。しかもそれは決してパウロだけの特別例にとどまらず、現代に至るまで生きた福音の力だと張ダビデ牧師は力説する。

3. エルサレムの葛藤、異邦人包容、そして福音の普遍性

 張ダビデ牧師は使徒行伝22章の後半部分、激しい怒りを爆発させるユダヤ人群衆の様子から、福音の普遍性に関する逆説的なメッセージを見いだす。「わたしはあなたを遠く異邦人へ遣わす」というパウロの言葉が口にされた瞬間、彼らはそれ以上パウロの話を聞かず、「こんな男は地上から取り除いてしまえ」と叫ぶ。これは単に異邦人との交わりの問題にとどまらず、神の支配と救いの範囲を一民族・一宗教共同体内に閉じ込めようとする独善が、いかに大きな反発と暴力をもたらすかを如実に示す。張ダビデ牧師は、彼らの怒りが彼らの“熱心”の裏返しでもあると解説する。それほどまでに先民の意識を守り、律法を至上とし、モーセの伝統を維持してきた人々にとって、異邦人も恵みの対象たり得るという宣言は受け入れ難い衝撃だったのである。

 ところが皮肉にも、この場面でユダヤ人指導者や群衆の手に捕らえられ、苦境に立たされたパウロを守ったのはローマ帝国の法律であった。千人隊長はパウロがローマ市民権を持つと知り、適切な手続きなしに鞭打ちできないことに気づいて恐れを抱く。張ダビデ牧師は、ここに「いったいどちらが文明で、どちらが野蛮なのか」という根源的な疑問が浮かび上がると指摘する。当時、最も整備された法制度を誇ったローマが“異端者”とみなされた福音宣教者を保護し、逆に神の律法を守るのに熱心だったユダヤ人たちは排他的かつ暴力的な姿をさらけ出した。これは人間の制度や民族的出自が自動的に正しい信仰や真理を保証するものではないことを強く示している。さらに先民としての誇りが、すでに排他性と暴力性へ歪められてしまった事例ともいえる、と張ダビデ牧師は批判的に論じる。

 そして張ダビデ牧師は、本箇所から教会が“新しい民”を目指さねばならない理由を次のような神学的視点で説明する。神がアブラハムの子孫を選ばれたのは、彼らを通して地上のあらゆる民族に祝福をもたらすためだった。しかし、しばしば彼らはその区別を隣人に仕え、真理を伝える通路ではなく、自分たちの宗教的優位性を誇る根拠としてしまう。それが極端な形で露わになったのが、使徒行伝22章後半における集団的暴力と怒りの場面だ。一方、福音はイエス・キリストの十字架と復活を通じて民族や言語、階層の壁を打ち破る普遍的性質を帯びている。パウロがローマ市民権を明かした際、ローマ当局者が彼を保護したという事実は、「福音がユダヤ人のみならず異邦人やローマ帝国の支配下にある人々にも開かれた機会である」ことを象徴的に示すと解釈することができる。

 やがてパウロは、この法的保護を得てローマへ赴き、皇帝の前でまで自らの使命を証言するに至る。これは歴史上どれほどの反発や葛藤があろうとも、福音が最終的に「地の果てにまで」(使徒1:8)宣べ伝えられるという御言葉が成就していくことを意味する。神は帝国の制度、軍隊、行政の仕組みさえも逆説的に用いて福音宣教を前進させるのである。ゆえに張ダビデ牧師は、教会が世俗権力そのものを絶対善と見なすことはできないが、ときとして神がその権力構造を通路とし、選ばれた器を守り、福音の宣教をより広範囲に促進されることがある点を認識すべきだと説く。

 さらに張ダビデ牧師は、現代の教会が本箇所を読む際、エルサレム群衆の暴力性と偏狭さを「他人事」とみなしてはならないと警告する。今日においても、宗教的排他主義や民族優越思想、教派間の対立が教会内外で争いを生み、福音そのものを歪める危険があるからだ。パウロが受けた「遠く異邦人へ遣わす」という神の召しこそが、実際の宣教史のスタート地点であり、教会が継続して取り組むべき普遍的使命であることを決して忘れてはならないと強調する。ユダヤ神殿の垣根を越えて異邦世界へと拡張していく福音は、「誰でもこの福音を聞いて信じるなら救われる」という普遍的約束を示している。その歩みを導くキーパーソンこそパウロであり、彼を召されたのがイエス・キリストである。この事実こそキリスト教信仰の核心であり、教会の存在理由だと張ダビデ牧師は結論づける。

 総合すれば、張ダビデ牧師が使徒行伝22章を通して伝えようとするメッセージは大きく三点に集約される。第一に、宗教的熱心と律法的厳格さがそのまま真の信仰を意味するわけではないこと。第二に、パウロの劇的な回心は神の絶対的主権と恵みの象徴であり、誰もが自分の功績によって救いに至ることはできないということ。第三に、福音は特定の民族・文化に限定されるものではなく、異邦人までも含む普遍性をもって拡大されるべきだという点である。エルサレムの群衆がこれを拒絶したとき、逆にローマの法制度がパウロを保護するに至ったという逆説は、神の摂理が政治・社会・歴史の構造さえも揺るがして福音を完成へと導くという驚くべき真理を示している。最終的に使徒行伝22章を読む読者は、「自分たちの内側にも偏狭さは潜んでいないか。神の普遍的救いの計画を妨げる要因にはなっていないか」という問いを突きつけられることになる。張ダビデ牧師は、この問いかけを通して教会が“新しい民”として生まれ変わるための内省と従順を促すのだ。そうした意味で使徒行伝22章は、教会と信徒がいつの時代も覚醒し続けるべき使命を再認識させる箇所であり、現代においてもその意義は決して小さくないと力説している。

教会の本質と使命 – 張在亨 牧師 

1. 「キリストの体の中でひとつとなることの基礎」

エペソ書4章4節で使徒パウロは、「体は一つ、御霊は一つである」と高らかに宣言しています。これは教会がなぜキリストの体として一つであるべきかを示す、きわめて重要な一節です。張ダビデ牧師はこの箇所を解き明かしつつ、たとえ教会が多様な姿や文化を抱えていたとしても、その根源はただキリストにあることを決して忘れてはならないと力説します。「体は一つ」という宣言は、単なる組織や制度上の統一性を意味するのではなく、聖霊のうちに霊的・実質的に“連合”しているという本質を示しているのです。

この連合は、外面的な形態や特定の共同体のみの色合いを強調することとは異なります。パウロが「御霊は一つ」と説くことで示そうとしているのは、教会内にいるすべての聖徒がどこを出発点としているのか、はっきりさせることです。私たちが教会に召されたという事実そのものが、聖霊によってイエス・キリストに導かれ、その体の中へと迎えられたことを意味します。したがって、教会内で誰もが自分の権利を独占したり、優位性を主張したりする正当な根拠はなく、一つの体の肢体として共に成長する平等性の本質を受け入れるべきなのです。

張ダビデ牧師は「キリストにあって一つの体」という概念が、決して多様性を抑圧したり、画一的な一致を強いるものではないと説きます。むしろ、異なる賜物や働きを互いに調和させながら、有機的に一つの共同体を形成する点が要だといえます。これはパウロがコリント第一の手紙12章で「一つの体に多くの肢体があるように、教会にも多くの肢体がある」と述べた思想とも一致します。張ダビデ牧師は、教会内でそれぞれが担う位置と使命を積極的に認め合い、相互依存によってこそ真のひとつとなることを実行すべきだと強調します。

エペソ書4章4~6節には、「体」「御霊」「望み」「主」「信仰」「バプテスマ」「神」という七つの「ひとつである」根拠が示されます。体は一つ、御霊は一つ、望みは一つ、主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、神は一つ。パウロは、こうした動かぬ土台によって教会が分裂することの不条理、そして本質的に教会が一つの共同体であることを説き明かしているのです。張ダビデ牧師は「パウロがこれほど明解な基礎を示したにもかかわらず、教会はささいな問題や歴史的・文化的違いを理由に分裂を繰り返してきた」と指摘し、福音の根本へ立ち返るほかに真の一致を成し遂げる道はないと主張します。

教会がひとつであることを守り続けるために注意すべき危険要素の一つが「世俗化」です。20世紀後半から多様な文化や思想が教会にも波及するなか、一方で教会が福音を携えて世に出て行く熱意が高まる反面、過度な世俗化への警戒も同時に叫ばれ、ジレンマが生じました。張ダビデ牧師は「世俗化神学」を一概に誤りと退けるのではなく、そのなかにある「神の宣教(Missio Dei)的視点」を肯定的に取り入れつつも、福音の本質が薄まらないよう慎重であるべきだと説きます。

同時に、教会が過度に閉鎖的または自己排他的な形態をとることも、深刻な問題を引き起こします。特定の教派や信仰の伝統だけが完全に正しいのだと主張しすぎるあまり、福音の根源や本来の「ひとつ」である姿勢が見失われ、外面的な基準を振りかざす誤りに陥る危険があります。張ダビデ牧師は、そうした偏狭や分裂を乗り越えるには、エペソ書4章に示された「七つのひとつである根拠」を日々心に留めることが不可欠だと述べるのです。

教会が最終的にめざすゴールは、歴史全体がイエス・キリストによって統合され、ついには神の国が到来することにあります。アルファでありオメガであるキリストが歴史の始まりであり終わりであると信じ告白する以上、教会はその方向をいっそう明確に示さなくてはなりません。私たちが「ひとつとなること」を求めるのは、単に内輪の調和を目指すためだけではなく、神の国の実現へと備える点にこそ意義があるのです。剣や槍が鎌やすきに変わる真の平和と回復は、この地上のいかなる制度や人間的努力によっても完成しません。キリストの福音が信徒を結び合わせ、彼らを世に送り出すときこそ、その国は拡大されるのです。

教会は救われた者たちの集まりであると同時に、福音の宣教と奉仕によって世に塩をまき、光を照らす「派遣された共同体」でなくてはなりません。張ダビデ牧師は「教会は、だれでも自由にやって来て恵みにあずかり、そこから世へ出てその恵みを分かち合うように召された存在だ」と語ります。これは、教会が「なぜひとつであるのか」を、教会の外部へと広げていく宣教の使命に忘れずつなげるべきだ、ということを意味します。

結論として、エペソ書4章に掲げられた「体は一つ、御霊は一つ、望みは一つ、主・信仰・バプテスマ・神がいずれも一つである」という七つの宣言を土台に据えることこそ、教会の分裂をいやし、真のひとつを完遂し、さらに神の国へと向かうための中核だといえます。張ダビデ牧師は「この本質的な真理のうえに教会が改めて立つならば、どんなに急激な時代の変化があろうとも失うべきでない福音の力と恵みを、いっそう豊かに味わうことができる」と語っています。

2. 恵みと賜物の神秘――ただで与えられた救いの本質」

エペソ書4章7節でパウロは、「私たち一人ひとりに、キリストの賜物の計りに従って恵みが与えられた」と述べています。張ダビデ牧師は、この箇所を通じて、私たちに与えられた救いが人間の資格や努力によって得られるものではなく、「ただで与えられた恵み」であり「神の賜物」だという、福音の核心メッセージを鮮明に示します。

この恵みを象徴的に描き出す例として、マタイ福音書20章の「ぶどう園の労働者」のたとえが挙げられます。朝から一日中働いていた人も、夕方遅く雇われてわずか一時間しか働かなかった人も、同じ賃金を受け取ったのです。長時間働いた人たちは不満を述べましたが、主人は「約束した一デナリを支払っただけで、不義を働いたわけではない」と言い返しました。これは恵みの世界が、一見するといかに“不公平”に見えるかを際立たせると同時に、「本来は受け取る資格のない者が思いがけずすべてを受け取る」という驚くべき恵みの姿をイエスが示されたのです。

ぶどう園の主人にたとえられる神は、罪によっていかなる善い功績も積めなかった者に対しても、同じ救いをお与えになることができます。張ダビデ牧師は、これはまさに「恵みの大逆転」であり、救いを資格によって換算しようとする人間の傲慢を根こそぎ否定するものだと解説します。もし私たちが救いを「自分の努力や功績の結果」だと信じ込んでしまうなら、その時点で福音の根幹を損なってしまうというわけです。

「恵み」を意味するギリシャ語の「カリス」(charis)は、新約聖書に繰り返し登場する「神の一方的な好意」を指す言葉です。賜物は受け手が代価を払うものではなく、与え手の好意と愛に基づくものです。マタイ福音書20章のたとえに加えて、ルカ福音書15章の「放蕩息子」のたとえも、これを鮮やかに描き出しています。父のもとを離れ遊興に身を費やした息子が帰ってきたとき、父親は無条件で受け入れ、宴を開きます。この姿こそ、どんなに悪い状態でも“帰る”さえすれば、限りないあわれみと愛を注いでくださる神の父なる心を象徴しています。

教会は、こうした恵みを知らない人や、まだ気づいていない人に福音を伝えると同時に、自らもその恵みのうちにとどまり合うことで、たがいに受け入れ合い、赦し合う共同体となるべきです。張ダビデ牧師は「自分が罪人であることを自覚した者こそ、恵みなしには生きられないと痛感し、神からの賜物にすがることで感謝とへりくだりを深めることができる」と強調します。もし教会がこの恵みを見失い、「自分の行いによって救いを得る」という発想に支配されるようになれば、その瞬間から排他や裁きの文化が生まれ、福音の本質と真っ向から対立してしまうのです。

マタイ福音書9章でイエスは、取税人や罪人たちと食卓を囲みつつ「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」と語られます。教会はイエスのこの姿勢を受け継ぎ、すべての罪人にあわれみと救いへの招待状を差し出せるよう備えていく必要があります。張ダビデ牧師いわく、「自分が罪人であることを認め、ただ主の恵みによって生かされていると知る者こそ真の福音の証人だ」というのです。結局、教会が共に礼拝し交わりを持つ理由も、そこにいるのは皆、恵みによって招かれた罪人たちだからにほかなりません。したがって、教会は排他的なクラブになってもいけませんし、自分を義人のように見せかけて世を裁くような態度をとってもいけないのです。

エペソ書2章8節には、「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われた。それはあなたがたから出たのではなく、神の賜物である」とありますが、教会の「ひとつ」であることもまさにこの恵みによって結ばれています。値なしに与えられた恵みによって、「自分のほうが上だ」という誇りや比較は消え去り、互いに尊重し合う土壌が育まれるのです。そのとき教会は、聖霊が働いてもたらす真の一致を具体的に体験するようになります。張ダビデ牧師は「神の恵みこそが教会というひとつの体を結びつける接着剤であり、もしもこの恵みの神秘が失われるなら、ただちに葛藤や分裂が起こるだろう」と警鐘を鳴らします。

このように、恵みへの自覚が深まれば深まるほど、教会と信徒は自らを誇るのではなく神の愛を誇り、苦しむ魂をも抱きしめて助け合う度量が大きくなります。ぶどう園に夕方五時に来た者にも一デナリを与える神の驚くべき好意が、今日の私たちにもそのまま注がれていると知るならば、教会の中に序列や差別が生まれる余地はまったくありません。

3. 「多様性の中で生まれる統一性――賜物の目的と職分」

エペソ書4章8節でパウロは詩篇68篇を引用し、「彼が高い所へ上って行かれたとき、多くの捕虜を捕らえ、人々に賜物をお与えになった」という箇所に言及しています。旧約では、戦いに勝利した将軍が戦利品を分配する姿が描かれますが、パウロはこれをキリストに当てはめています。イエス・キリストは、低くなられ(受肉と苦難)、死を経て勝利を収め(復活)、天に昇られたのち、教会に賜物を“戦利品”のようにお与えになったというのです。張ダビデ牧師は「私たちの奉仕は、キリストの勝利から生まれ出た結果だ」と力説し、神が教会に賜物を授けるのは、人間の能力や資格を根拠とするのではないことを改めて示します。

使徒言行録2章で聖霊が下った際、人々がそれぞれ異なる言語で神を賛美した様子は、まさに賜物の多様性を端的に物語ります。コリント第一の手紙12章、ローマ書12章、エペソ書4章などでも、多様な賜物が取り上げられていますが、これらの多様性は教会の中で相互補完によってより大きな統一性を築き上げていきます。張ダビデ牧師は「賜物の目的は教会を分裂させることではなく、むしろ結び合わせ、キリストの体を完成に導くことにある」と語ります。

エペソ書4章11節でパウロは、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という五つの代表的職分を挙げます(なかには牧師と教師を一つの職分とみなし、四つと数える学者もいます)。張ダビデ牧師は、これらが初代教会の文脈を反映したものである一方、本質的には現代の教会においても同じ原則を適用できると説きます。使徒とは開拓し派遣される者、預言者とは神の御心を大胆に語る者、伝道者とは福音を広範に伝える者、牧師とは群れを養護する者、教師とは御言葉を教える者を指します。

これら五つの職分に上下関係はなく、いずれも尊い役割です。教会はそれぞれの領域で異なる賜物を持つ人々を必要としています。パウロはこれを「体の多様な肢体」にたとえ、目や手、足、耳など、どの器官も欠かせない機能を担っている、と明確に述べています。教会が「ひとつの声」を上げるからといって均一化するのではなく、各人の固有の役割によって生まれる豊かなハーモニーこそが、教会の本来の美しさを形づくるのです。

エペソ書4章12節でパウロは、賜物を授けられた目的について「聖徒を整え、奉仕の業に当たらせ、キリストの体を立て上げるためだ」とまとめています。具体的には、第一に傷ついた魂を癒やし回復することが教会の使命です。ギリシャ語で「カタルティスモス」という言葉が持つ「縫い合わせ、修復する」という響きの通り、教会は罪や苦しみによって破れた魂を癒やし、修復へと導く働きを担うのです。第二に、回復された聖徒が世に出て奉仕と仕えを実践できるように整えること。教会で礼拝し教育を受けた聖徒たちが、神の愛を携えて社会的弱者を助け、正義を打ち立てる活動を行うための支援と備えをするのです。第三に、これらすべての最終目標は、キリストの体すなわち教会を強固に築き上げることにあります。教会こそが神の国であり、救われた者たちが集う共同体であると同時に、派遣される共同体でもあるのです。

張ダビデ牧師は「信徒が自らの賜物を正しく見いだし、活かせるよう導くことが教会リーダーシップの重要課題だ」と言います。賜物は誤った形で用いられれば、分裂や争いの種にもなり得ます。たとえば「自分の賜物はより霊的だ」と優越感を抱く者や、「注目される賜物を持たないから自分は何の役にも立たない」と落胆する者が現れると、教会の健全さは失われてしまいます。パウロがコリント第一の手紙12章で、目と手、手と足の間に優劣があり得ないと語ったのはまさにこの点にほかなりません。教会における賜物は神の栄光を現すために与えられたものであり、決して個人の名声や誇りを満たす道具ではないのです。

こうした賜物を分かち合い、助け合う教会文化を築くうえでは、「相互の尊重と謙遜」が何より大切です。とくに現代の大規模教会や複雑な組織を持つ教会では、目立ちやすい賜物とそうでない賜物の間で格差が生じがちです。しかし、サービスチーム、事務スタッフ、財務担当、駐車場係、各種ケアの奉仕など、目立たない場所に身を置く人々の捧げものなしには、教会を全体として機能させることは不可能です。張ダビデ牧師は「異なる賜物を相互に認め合い、協力する姿こそ、世に『神の国がすでにここにある』という事実を示す力になる」と強調しています。

結局、賜物が多様であっても、その目的と方向性がキリストに向かうものである限り、教会はむしろより完全な統一性を獲得できます。こうした「多様性のうちにある統一」こそ、パウロがエペソ書で描く理想の教会像であり、張ダビデ牧師が繰り返し説いてきた教会論の核心でもあるのです。

4. 教会の真の使命――世へ派遣された神の国の共同体」

張ダビデ牧師はしばしば教会の進むべき方向性を「In and Out」という言葉で説明します。これは教会が「集まる(In)」ことと「散っていく(Out)」ことの両方をバランスよく保つ必要があるという意味です。初代教会は、ペンテコステの聖霊降臨によって内に燃える礼拝共同体となったと同時に、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、地の果てへと散らされて福音を伝えました。もし教会がこの二面性のどちらかを偏って強調すれば、重大な問題を招きかねません。内側にとどまることばかり重視すれば世から隔絶した宗教集団になり、外側に出て行くことばかりを重視すれば霊的交わりと礼拝の力を失ってしまうのです。

とくに20世紀後半に「世俗化神学」が台頭し、教会が世の中でどう生きるべきかを問う議論が活発化しました。また、「神の宣教(Missio Dei)」という概念も注目を集めました。これは宣教が教会の戦略やアイデアによるのではなく、神がすでにこの世で救いの業を進めておられるという認識から始まります。教会はただ「神の宣教」に招かれ、参加する存在にすぎません。エペソ書全体を見ても、キリストが万物を統合するために歴史を通して働いておられる、というテーマが繰り返し語られています。もし教会がこれを理解できれば、どの民族や文化に対してもキリストの主権を示す宣教が可能になるのです。

張ダビデ牧師は「世界が急速に“地球村”化している今、教会はより広い視点を持つべきだ」と提唱します。かつてと異なり、さまざまな人種や言語、文化をもつ人々が同じ地域に共存しています。そこでは確かに衝突も起きますが、同時に福音を伝える絶好の機会も開かれているのです。もし教会が地域や民族に対する偏見を捨て、恵みと愛をもって近づくならば、イエス・キリストの和解のメッセージを具体的に実践できるようになります。これは、エペソ書1章10節の「天にあるものも地にあるものもみな、キリストにあって一つに集められる」という宇宙的キリスト論とも合致する歩みです。

教会の社会的責任もこの流れにおいて非常に重要です。宣教や礼拝だけが教会の責務と考えられがちですが、聖書は孤児や未亡人、在留外国人を顧みるように、旧約から新約に至るまで一貫して教えています。イエスは病める者や罪人を探しに行き、初代教会も物を共有して弱者を支えました。張ダビデ牧師は「垂直的な霊性(礼拝・祈り)だけを強調すれば世から遊離する恐れがあり、水平的な愛(社会的奉仕)だけを強調すれば霊的な基盤が揺らぐ危険がある」と警戒し、この二つの軸を両立させることを促します。

最終的に、教会は世の中にあって神の国を先取りして示す共同体です。教会内で互いにひとつとなり、それぞれの賜物を最大限に活かして補い合い、地域社会や全世界に仕えていくなら、世は教会を通して神の国を具体的に体験できるのです。パウロが「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊にあって義と平和と喜びである」と語ったように、教会はこれら三つの価値――義と平和と喜び――を行動をもって証しする場でなければなりません。

張ダビデ牧師はしばしば「ニワトリの首をひねっても夜明けは来る」という世俗的な表現を例に挙げながら、一見盤石に見えるこの世の体制であっても、最終的には「新天新地」の到来によって解体され、神の国が完成するという終末論的確信を語ります。私たちがいくら否定しようが遅く感じようが、神の国はすでに到来しており、ついには完全に成就するのです。教会は、その来るべき神の国を世の中で先取りし、いわば「モデルハウス」のように示していく使命を帯びています。

こうして教会が恵みを土台として多様性の中での一致を目指し、世へと遣わされて神の愛と正義を実践していくとき、はじめて主の体としての本来の役割を果たせるようになります。ひとつであることや聖さを教会の内に閉じ込めてしまわず、世にあって解放や癒やし、祝福の導管となるのが真の教会の使命なのです。張ダビデ牧師は「今日の教会が混乱と葛藤を抱える中でも、エペソ書4章にあるような統一性と多様性、恵みと賜物、そして“派遣された共同体”という本質を見いだし直すことで、再び驚くべき救いの歴史が刻まれていくはずだ」と語ります。

結局、教会は救われた罪人たちの集まりであり、同時に世へと派遣された神の国の前哨基地でもあります。値なしに与えられた恵みによりひとつとなり、互いに異なる賜物によってキリストの体を築き上げ、福音を伝えて傷ついた魂を癒やすのです。私たちはみな、ぶどう園に招かれた労働者であり、資格によってではなく恵みによってその場に立たせていただいています。その恵みの力によって教会が世に奉仕するならば、世は教会を通して神の国をのぞき見て、やがて完全に実現するその国の美しさを期待するようになるでしょう。この福音の循環が途切れないかぎり、ニワトリの首をひねっても夜が明けるように、神の国はますます鮮明に現れていくのです。