
Ⅰ. 神の怒りと人間の不敬虔・不義
ローマ書1章18-19節は、使徒パウロがローマ書の本論を始めるにあたって提示している、人間が陥っている罪の現実とそれに対する神の怒りを扱う中心的な一節である。張ダビデ牧師は多くの説教や講解を通して、この本文がローマ書全体の構造や救いの教理を理解する上で重要な基盤であると強調してきた。実際、ローマ書を読んでいると、福音が宣言される順序としてまず「罪」が登場し、その後に「救い」が具体的に紹介されることに気づく。これは単なる構造上の特徴ではなく、福音を正しく理解するためにはまず罪の実相が何であるか、そして人間がなぜ救われなければならない存在なのかを明確に認識しなければならないことを示している。
使徒パウロは、当時多くの異邦人が暮らしていたローマという都市に宛てて手紙を書き綴った。このローマという都市は、当時の文明と世俗的繁栄の象徴であると同時に、人間の罪が最も腐敗した様相で露わになっていた代表的な場所でもあった。ローマ人たちもまた、自分たちを罪人と認めることはなく、むしろきらびやかな文明や知恵、軍事力、富を誇りとして罪の意識など持たなかったかもしれない。彼らは「我々にどんな罪があるというのか? この輝かしいローマがいったい何を誤ったというのか? どうして救いなどが必要なのだ?」といった態度で、パウロのメッセージを不思議に思ったかもしれない。しかしパウロは、なぜ人間に救いが必要なのかを語るために、まず人間が神の前でいかに罪の中に陥っている存在であるかを非常に論理的に展開したのである。
張ダビデ牧師は、このローマ書1章18-19節の講解において、特に18節に示される神の怒りがすべての罪の結果であり、神と人間の間の不和状態を示す言葉であることを強調する。「神の怒り」という表現は、私たちが一般に想像する“神の激怒”や人間的感情の投影とは次元を異にする。神は完全で善なるお方であり、その怒りは単なる感情の爆発ではなく、聖と義に基づいて罪を裁かれる正当な反応なのである。神の前で「不敬虔と不義」の状態にある人間は、罪のゆえに神との関係が断絶しており、その結果、人間は本質上「怒りの子」となったとエペソ書2章3節も語っている。
ここで言われる「不敬虔」とは、神との垂直的な関係を踏みにじる罪を意味する。すなわち、神を恐れ敬ったり礼拝するのではなく、神を忘れたり心に留めることを嫌う態度を指す。一方「不義」は、人間同士の水平的な関係における罪の様相であり、互いを傷つけたり他者を抑圧したり、不正直や偽善、貪欲などによって明らかになるものである。使徒パウロはローマ書1章18節で「不義をもって真理を阻む人々」を名指ししているが、彼らは意図的に真理を妨げ、みことばを伝える者たちを抑圧しようとしたり、自分たちの内面にある本能的・良心的な神認識を意図的に無視すると指摘する。
実際、張ダビデ牧師が強調するように、大多数の人は罪の問題に直面することを恐れる。自分が罪人であることを認めることは、自分の限界や恥をさらけ出さねばならないことを意味するため、人は本能的に「なぜ私が罪人なのか」と反発するのである。だからこそ福音を伝える際、「救い」という言葉がもつ深い意味と喜びを知らせようとしても、まず「なぜ救いが必要なのか」がしっかりと説明されなければ、相手は「自分にはそんな救いなど必要ない」と思ってしまいがちだ。これに対しパウロは罪論を詳しく展開し、人間の実存が神の創造の秩序と義からどれほど離れているかを、段階を追って掘り下げる。
「神の怒りが、不義をもって真理を阻む人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、天から現れています」(ローマ1:18)というこの節は、罪がなぜ神の怒りを引き起こすのか、その理由を直接的には述べていないが、続く箇所(1章19-32節)で罪の本質と結果が徐々に説明されていく。特に張ダビデ牧師は、この本文を分析する際に、神の怒りは人間の犯す不敬虔と不義が結局は自滅へと至る道であるがゆえに、神がそれを放置なさらないことを示していると指摘する。ちょうど親が子どもを誤った道へ行くのを放置しないで、時には怒りや叱責によって正そうとするように、神の怒りは聖なる炎であり、愛から発せられる警告でもあるのだ。もちろん聖書は神が愛であることを語るが、その愛は、人間が罪を犯し続けて自らを破滅に追い込むのを許容し見過ごしにするような形の愛では決してない。神の愛は聖と切り離せないのであり、ゆえに神との基本的関係を破壊する罪に対しては、当然の裁きと怒りが伴うのである。
張ダビデ牧師は説教で、この点をよく引用する。神は人格的なお方であり、単なる哲学的概念の「無感情な神」ではない、と。古代ギリシアの哲学的神概念には、全知全能で冷徹な本質として、人間的感情とは無縁の存在として描かれた場合も多かった。しかし聖書の神は私たちの創造主であり父であり、人間が罪の中にあるときには嘆き、憤ることもある。エレミヤやホセアのような預言書を見ると、人間に対する神の嫉妬や悲しみ、怒りが入り混じっていることが分かる。これは絶対的主権者である神が愛の関係のうちで人間を見つめておられるがゆえであり、その愛の関係が破られたときに「怒る」というのは、神の聖なるご性質と愛の本質からくる必然的反応なのである。
「不敬虔と不義」に総括される人間の罪は、十戒で言うならば神に対する罪に要約される。どれほど世の中が進歩し科学文明が発達しても、人間は神との関係を離れては真の善と義を実現できない。ローマ帝国のように強力な法体系をもち、ストア哲学やエピクロス派など多様な倫理・哲学的伝統が発達していても、不敬虔と不義は極端な形で露呈した。堕落した人間は、いくら哲学的知識や道徳的鍛錬を積んでも根本的な問題を解決できない。罪は単に個人の逸脱の問題ではなく、神との関係が破れたことに由来する実存的堕落だからである。
パウロは続いて、この罪のせいで「神の怒りが天から現れる」と語る。張ダビデ牧師は説教の中で、「天から現れる」という表現が、人間の罪が積み重なって頂点に達したとき、神の裁きが不可避に下される瞬間があることを示すと強調する。神は長く忍耐され、多くの機会を与えられるが、結局は義をもって罪を裁かれ、そのうえでご自身の聖と正義を示される。旧約におけるノアの洪水やソドムとゴモラの滅亡、イスラエルの民の捕囚生活などは、罪に対する神の裁きが決して空虚な警告ではないことを証明している。新約においても、イエスが語られた終末の裁きの警告や、使徒行伝のアナニアとサッピラの事件などが、罪に対する神の厳粛な怒りをよく示している。
この「怒り」という概念を、現代の一部の信者たちは不快に思ったり、神の愛ばかりを強調して曲解してしまう場合がある。しかし罪に対する怒りがなければ、実際のところ神の愛もまた空虚な概念になってしまう。神が聖なるお方であり、罪が人間に破滅をもたらすというのが事実なら、罪を放置するのは愛ではない。張ダビデ牧師は説教で、これをしばしば親と子の関係にたとえて語る。子どもが危険な道を進んでいるのに、親が愛しているという名目でまったく叱責もしないで傍観するならば、それは真の愛ではない。その子に永遠の害が及ぶことが分かっていながら、何の処置も取らないからである。神もまた、罪のゆえに滅びに陥る人間に向かって「だめだ!」と断固たる言葉を発し、立ち返る機会をお与えになり、最終的には罪の結果に対する裁きを下される。これが神の怒りである。
パウロが語る「異邦人の罪」は、すなわち神を知らない世の罪一般を意味するが、そのなかでも焦点が当てられるのが「不敬虔」である。なぜなら、神との関係、すなわち垂直的関係の破綻こそが、水平的関係の破壊を招くからである。私たちが日常目にする社会的な不正や戦争、暴力、搾取、性的堕落などは、究極的には「不敬虔」から始まる。神がいないと思い込む生き方、あるいは神を恐れ敬わない生き方が、あらゆる悪行の根源となる。ローマ書1章後半を見ると、人々は神をあがめるどころか、偶像にひれ伏し、偽りのイメージやイデオロギーに献身し、自分の欲望を偶像化した結果としてあらゆる罪悪と腐敗がはびこると描かれている。
張ダビデ牧師は、このような文脈から、罪が明るみに出ることを教会や信徒が回避してはならないと語る。罪を直視して暴くときに初めて、その罪から離れ、救われる道が開かれるからだ。教会共同体の中でも罪が隠されたままだと、結局それが膿んで、より深刻な病へと発展する。個人もそうだし、国家や社会全体もそうである。罪を曖昧に覆い隠すのは愛の態度ではなく、むしろその罪の根をいっそう深くする結果をもたらす。神は罪を放置なさらず、時が来ると必ず怒りをもって裁かれることを、聖書全体を通じて繰り返し知らせておられる。
こうした罪論はローマ書1章18節から3章20節にかけて本格的に展開される。簡単に区分すると、パウロはまず1章18-32節で異邦人の罪を語り、次に2章1節-3章8節でユダヤ人の罪を告発し、最後に3章9-20節ではユダヤ人・異邦人を問わずすべての人間が罪のもとにあると宣言する。要するに、この世に義人はいない、一人もいないというのがパウロの結論なのである(ローマ3:10)。唯一イエス・キリストのみが罪から救う唯一の道であることを強調するための前提として、パウロは罪の普遍性を徹底的に掘り下げたわけだ。
そして、その罪に対する神の反応が「怒り」である。私たちは世の中でいろいろな形で「怒り」を経験するが、人間の怒りは多くの場合、罪から出る感情的で不完全な形である。それに対して神の怒りは、罪に対する公正な断罪であり、人間を救うための聖なる方策なのだ。張ダビデ牧師は、これこそがローマ書が冒頭から罪と怒りを扱う根本理由であると説く。人間が自分の罪を自覚し、怒りの下にあることを悟ってこそ、福音が「信じるすべての人を救う神の力」であることがどれほど貴重かが分かるからだ。
このように、18節が語る「神の怒り」は軽々しく見過ごせる部分ではない。パウロがローマ書の本論を始めながら提示する重要な主題の一つがまさにこの神の怒りであり、それが人間の不敬虔と不義、すなわち罪に対して下るということである。ローマ時代でも、人々は宗教的にも哲学的にも自分の生を正当化し、自分が罪人であることを認めたがらなかった。現代人も同様に、科学や技術、経済の発展などを誇りつつ「なぜ私たちが救われねばならないのか?」と問い返す。しかし、人間が本当に罪のうちにあることを知らなければ、救いの必要性もけっして痛感できない。ゆえに張ダビデ牧師は、このローマ書1章18節の御言葉、すなわちパウロの神の怒りの宣言が、現代においてもいかに重要であるかを絶えず喚起している。
こうした怒りの背景には、人々が「不義をもって真理を阻む」という具体的な罪がある。真理が宣言されるとき、人々はそれを歓迎するどころか、かえって敵視する場合が多い。真理の光が強く照らすほど罪が白日の下にさらされるため、罪を好む者は真理を伝える口をふさごうとするのである。教会の歴史を見ても、福音が伝えられるとき、それを弾圧する勢力は常に存在した。とはいえ、みことばは決して阻まれない。神が建てられたしもべたちと信仰の証人たちが絶えず福音を叫び続け、教会は多くの迫害の中でも真理を守り抜きつつ拡大してきた。それは「草は枯れ、花はしぼむ。だが私たちの神の言葉は永遠に立つ」(イザヤ40:8)という聖書の言葉通りに実現している。
一方で、パウロが伝えた神の怒りのメッセージは、決して人々を脅かしたり罪悪感だけに縛ることを目的としたものではなかった。究極的には「罪から離れよ」「神のもとへ来い」という招きの意味合いがより強い。人間が罪を自覚しなければ決して救いにあずかることはできないため、パウロは容赦なく罪を指摘するのである。教会が罪の指摘を回避したりうやむやにしてしまうと、人々は自分が罪人であることを深刻に考えなくなる。救いもまた個々人にとって切実にならず、福音は「良い話」の域を出ない無力なものになってしまう。だからこそパウロと初代教会は徹底した罪の認識を強調したのであり、これが今日の教会にもそのまま有効であると張ダビデ牧師は力説する。
結論として、ローマ書1章18節に示されている「神の怒り」は、福音において非常に重要な位置を占めている。神の愛と救いを正しく知るためには、まず人間が陥っている罪の実態と、その罪に対する神の正しい怒りを直視しなければならない。これを避けるならば、結局、福音の力と恵みを切実に悟る道は閉ざされてしまう。救いは罪からの救いであり、罪が何なのかを理解しない人は救いが何なのかを知ることもできないからだ。
このように「不敬虔と不義」が招いた「神の怒り」は、人間自身の力では解決できない本質的な問題である。罪の問題の前で、そして罪ゆえに臨む神の怒りの前で、人間はようやく悔い改めと信仰によって神に立ち返らねばならない必要を痛感する。ローマの華やかな文化や成功、繁栄もこの問題を覆い隠すことはできなかったし、現代のどんな世俗的安定や豊かさも、罪と怒りの問題を軽視することはできない。これこそパウロが示そうとした人間実存の切迫した現実であり、同時に福音が必要とされる理由なのである。
Ⅱ. 人間の内面の神認識と救いの必要性
ローマ書1章19節は、人間の罪と神の怒りに言及する内容に続き、「それは、神を知ることが彼らのうちに示されているからです。神が彼らにそれを示されたのです」という言葉を述べている。驚くべきことに、パウロは不信者、つまりまだイエスを知らない異邦人にも「神を知りうるもの」がすでに与えられていると宣言する。これは、人間が創造主なる神といかに切り離しがたい関係のなかにあるかを示している。不敬虔と不義の中にありながらも、人間の内には依然として神を求め、その方を認識する可能性が残されているということだ。
張ダビデ牧師は説教で、この節が「人間は生まれながらにして本質的に神への渇望をもっており、たとえ罪によって堕落していても完全に壊れきった存在ではないこと」を示していると説明する。もちろん人間は罪のゆえに霊的に死ぬほかない状態だが、その内には神のかたちの破片ともいうべき理性、自由意志、道徳的感覚、宗教的本性などが残されている。だからこそ人類の歴史全般にわたって、絶え間なく“神”や“絶対者”を探し求める試みが続けられてきたのだ。
パウロが言う「知りうるもの」は二つの次元で語られていると考えられる。一つ目は、被造世界を通した一般啓示の次元である。ローマ書1章20節にも続くように、神が造られた自然と宇宙、この世の秩序を通して神の神性と力をある程度認識できるという内容だ。四季の移り変わり、秩序正しい自然の理、太陽や星の運行、生命の驚異などは、偶然や混沌の産物ではなく、創造主の摂理とご計画のもとに動いているということを直感的に示してくれる。多くの哲学者や科学者さえも、宇宙が無秩序な混沌ではなく精密な秩序で動いている点から、絶対者の存在を認めたりする。
二つ目は、人間の内面の良心と理性の次元である。張ダビデ牧師は、人間が本能的に罪悪感を覚え、善と悪を区別し、自らの存在目的を問い求める動きなどを通して、すでに神への渇望を表していると語る。実際、多くの人が生きていく中で「私は何者なのか? なぜ生きるのか?」という根本的問いにぶつかる。これは神を離れた人間が根源的に感じる霊的な空虚、あるいは不安から来るものだ。神を知ってこそ満たされるこの渇きこそ、人間の魂に刻まれた「神への本能的欲求」である。アウグスティヌスの『告白録』にあるように、「神のうちに安息するまで、人の魂は真の安息を得られない」という洞察は時代を超えて受け継がれてきた。
しかし問題になるのは、この「神を知りうるもの」を人々が正しく受け止めないという点である。パウロは「人々は神を知っていながら、神としてあがめもせず感謝もしなかった」(ローマ1:21)と続ける。つまり神を知るに足る証拠と内面の声があるにもかかわらず、人間は罪によって高ぶり、神を退ける。あるいは神を偶像で置き換え、真理よりも偽りに耳を傾け、自分を高めることに邁進する。その結果、不敬虔と不義は一層加速される。
張ダビデ牧師は説教で、人間が神を退けることによりもたらされる結果を「不安、孤独、虚無、絶望」などに要約する。罪を犯せば心は不安に陥り、世俗的な欲望で一時的な満足を得ようとしても根本的な虚しさは消えない。愛されないと感じるときに襲ってくる孤独感、将来の不透明さから生じる絶望感などは、結局、人間の霊魂が「神を失った状態」であることを自ら痛切に証言しているにほかならない。だからこそ不信者も、深い苦悩の瞬間には自分でも気づかないうちに“神”や“絶対者”を求めることがある。
とはいえ真理は明らかである。人間はいかなる道徳修練や哲学的思索だけで神に到達することはできない。それらは神を探す助けの道具にはなり得るが、罪の問題が根本的に解決されなければ、神と真に交わることは不可能である。これはパウロがローマ書全体で強調しているメッセージだ。罪は人間自身では解決できないものであり、イエス・キリストの十字架と復活によってのみ罪の赦しと義とされる道が与えられる。そして、その恵みに信仰をもってあずかることができると教えるのがローマ書の中心的な救済論である。
ゆえに、「神を知りうるもの」が人間の内面にあったとしても、その火種だけでは罪の問題を解決できない。結局、福音が必要なのだ。張ダビデ牧師は、罪から離れ真の自由と解放、そして魂の平安を得るためには、イエス・キリストの福音を受け入れることが避けられないと力説する。イエスもまた「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい」(マタイ11:28)と呼びかけ、「渇いている人はだれでも、わたしのところへ来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と招かれた。このようなイエスの招きは、宗教的儀式や功績を条件とはしない。ただ「神のもとに帰るだけでいい」というのが福音の核心なのである。
ところが、宗教さえも時に“商売人”の役割を果たし、人々が神へ近づく道を阻んでしまうことがある。救いの条件を規定し、さまざまな行為や儀式を強調することで、あたかも人間が自らある資格を整えなければ神に近づけないかのような誤解を招く。しかし、それは聖書の教えではない。ローマ書3章24節によれば、私たちはキリスト・イエスにある贖いによって「価なしに義とされる」のである。エペソ書2章8-9節でもはっきりと語られる。「あなたがたは恵みによって、信仰によって救われたのである。これは自分自身から出たことではなく、神の賜物である。行いによるのではない。それはだれも誇ることのないためである。」
張ダビデ牧師は、この部分を説教するとき、イエスが教えられた父と子の関係のたとえ(ルカ15章の放蕩息子のたとえ)をしばしば強調する。放蕩息子が「父のもとに帰ろう」と決心したとき、彼が何か条件を満たさなければならなかったわけではない。父は喜びのあまり走り寄ってその罪を赦し、息子の身分を回復させた。その過程にはどんな複雑な手続きや代価も介入しなかった。ただ帰ってくるだけでよかったのである。ところが人間は、罪悪感や高ぶり、あるいは世の歪んだ宗教観のせいなのか、自分が何かもっと準備しなければ神のもとへ行けないと思い込む。
しかし、本文が語るように「神を知りうるもの」がすでに人間の内にある状態であっても、不信者であろうと神の前に出て叫べば、神は決してそれを無視されない。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)という言葉のように、神は先に人間を訪れて立ち返りを促される。私たちが心の扉を開くだけで、すぐに神の恵みが臨み、罪の赦しと救いのみわざが始まるのだ。
このように、私たちの魂が神なしには渇き、不安で虚しくなるというのは、人間存在が神に属していることを証明する別の表現でもある。どんな世俗的成功や娯楽も、この渇きを完全には癒せない。古代ローマの知識人たち、たとえばセネカやマルクス・アウレリウスなどの哲学者たちも人生の意味を探求し、ストア哲学を通して内面の平安を求めたが、結局、罪の問題自体を解決する道はなかった。パウロは彼らに対して、真の答えは神にあると強く訴えたのである。
張ダビデ牧師は「神がこれを彼らに示されたのです」というローマ書1章19節の言葉に触れながら、神が望んでおられるのは決して人間を知らん顔で放置することではないと示唆していると説明する。神は太初から今に至るまで、多様な方法で人間にご自分を啓示してこられた。自然を通して、良心を通して、歴史を通して、そして究極的にはイエス・キリストを通してご自分を示してこられた。問題は人間が「受け入れるのか、拒むのか」にかかっている。
受け入れない場合、神はその不敬虔と不義を責め、最終的には怒りをもって裁かれる(ローマ1:18)。受け入れる場合は、神と人間のあいだに「和解」という回復された関係が成り立つ(ローマ5章)。和解はすなわち救いであり、生まれ変わった人生が永遠のいのちにあずかる状態だ。神学的に言えば、罪によって壊された関係がキリストを通して再び結び合わされることである。だから張ダビデ牧師は「罪があることを正直に認め、神に立ち返るとき、私たちは本来神の子として創造された自分自身を取り戻すのです」と説教する。
これは単に宗教的所属を変えたり、礼拝の形式を整える次元の話ではない。「自分は本来何者で、どこから来てどこへ行くのか。人生の真の意味と目的は何なのか」という問題を根源的に悟る過程なのである。アウグスティヌスの有名な言葉、「神のうちに安息するまで私の魂は安らぎを得ないのです」という告白は、時代や文化を超えて人間実存の本質を突いている。人間は神に似せて創造されており、ただ神のうちでのみ真の平安と喜び、愛、そして意義を見いだすことができるのだ。
にもかかわらず、世はあらゆる代用品を提示し、神に代わり得ると誘惑する。金、権力、名誉、快楽、ありとあらゆる偶像的対象が「これがあなたを幸福にしてくれる」とささやくが、それらは結局、一時的な満足とさらに大きな渇望を呼び起こすにすぎない。こうして人間は絶えず魂の放浪を続けることになる。張ダビデ牧師は「信仰すること、イエスを信じることは本来の自分を回復する道だ」と力説する。それは特定の宗教に入会したり制度に所属する問題ではない。「自分は本来どんな存在なのか、どこから来てどこへ向かうのか、人生の真の意味と目的は何か」を根源的に悟っていく過程なのである。
人間はすでに「神を知りうるもの」を持っているから、いつでも神のもとへ帰る可能性は開かれている。世界のどんな地域や文化圏でも、人類は絶えず神を求める努力をやめてこなかった。しかし、その努力はしばしば歪められたり、偶像崇拝に流れたり、本物の神ではなく人間が自作した神概念に閉じ込められてしまったりした。だからこそパウロは一貫して「あなたたちがいま拝む無数の偶像や哲学の神、帝国神格化ではなく、唯一の創造主なる神に目を向けなさい」と叫ぶわけである。
結局、ローマ書1章19節は「神を知りうるものが彼らのうちに示されている」という宣言を通し、人間の内面の宗教的・霊的本質を再確認させてくれる。同時に1章18節にある「神の怒り」と並置されることで、人間の二重的な実存を明らかにしている。すなわち、一方では人間の内には神へ向かう渇望や良心があるが、他方では罪のゆえに神を拒む反発心も同時に存在する。これを神学的に言えば、「原罪と神のかたち」の混在とも言えるだろう。
張ダビデ牧師は説教で、だからこそキリスト者に必要なのは「罪を責めながらも、その中にある神への渇望と可能性を信じてあげるまなざしだ」と語る。世の人々にただ無造作に「あなたは地獄に行く罪人だ」と言うだけでは、彼らは耳を閉ざしてしまう。しかしパウロが示したように、罪を正確に指摘しつつも、それは「人間の中には神を発見しうる大切な能力があり、神に立ち返るなら変えられる」という希望を同時に伝えるためなのだ。人間には罪があるが同時に救いへ向かう可能性も開かれている。その可能性を現実のものにする道が、まさに福音である。
福音の本質は、人間がどんな資格も備える必要なく、そのままの姿で神の恵みの前に出ることにある。「だれでも主の名を呼ぶ者は救われる」(ローマ10:13)という御言葉のとおり、イエス・キリストの名を呼び、主として受け入れるとき、罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。放蕩息子が父のもとに帰るように、罪人である私たちも神のもとへ帰れば、神は私たちを真の息子・娘として回復してくださる。ローマ書はこの後、この救いを神学的に体系化し、義認と聖化、そして栄化へと続く救いの段階を説明する。しかしその出発点はいつも「罪を自覚し、神に立ち返る」心なのである。
一方で、これを伝える教会の使命は決して軽いものではない。教会自身が多くの誘惑や世俗化の危険にさらされており、教会の内側でさえ「神を知りうるもの」が歪められてしまうことが起こりうるからだ。張ダビデ牧師は、教会が「真理の光を照らすべき立場で商売をし、権力を振るう姿」を見せると、結局、福音の純粋性と力を失い、人々の心にある神への渇望を妨げることにもなりかねないと警告する。福音がもつ無条件・一方的な恵みを伝える代わりに、人間的な誇りや行為中心の信仰を強調すれば、魂たちは真の自由を体験しにくくなる。
だからこそ教会と信徒は常に自分を振り返る必要がある。パウロがローマ書2章で「あなたはユダヤ人として異邦人を裁くのか? あなたも同じだ」と宣言しているように、罪を指摘する教会自身が罪に陥っていたら偽善になってしまう。教会共同体が罪を曖昧に見逃したり、罪を指摘する際に愛なしに断罪だけするような極端な態度を取ってはならない。教会は罪を暴いて悔い改めへ導き、究極的には赦しと救いの道を開いてあげる福音の通路にならなければならない。
ローマ書1章19節は、結局「人間が心を開けばいつでも神を認識し、立ち返ることができる」という希望のメッセージを含んでいる。パウロは1章後半で、この希望を捨てて罪を楽しみ続ける者に対し、「神は彼らを放っておかれた」と述べている(ローマ1:24,26,28)。人間が最後まで拒むので、神もまた彼らの選択を尊重されるが、その結果がどんな破局をもたらすのかを当人たちが味わうことになるという意味である。自由意志を与えられた人間が神なしに自分の欲望に従って生きる道を選ぶなら、その破滅の責任も自分で負わざるを得ない。
ではその答えは何か。ローマ書3章以降でパウロは明らかにするのだが、イエス・キリストの贖いによってすべての罪人が義と認められ、神の怒りの下から抜け出して永遠のいのちの道に入れる道が提示されている。これこそ「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」である(ローマ1:16)。ローマ書1章18-19節が語る重苦しい罪論と怒りの宣言は、皮肉なことに福音の栄光に満ちた力をよりいっそう際立たせる。罪が大きく人間が絶望的であるほど、キリストの恵みがいかに驚くべきものかが一層明らかになるからだ。
張ダビデ牧師は、この点で「人間が神を知りうるものを持っている」としても、イエス・キリストを通しての福音を知らなければ、やはり救いに至ることはできないと明確に整理する。一般啓示や良心の働きだけでは罪の根本的な解決が不可能だからだ。それでも神がすでに私たちの心の内に「神への本能」を植えておられるという事実は、福音が宣べ伝えられるとき魂がその声に応答しうる霊的土壌が整えられていることを示している。だからこそ教会は大胆に福音を宣べ伝えなければならない。人々の心の奥深くには神への渇望があり、それは何らかの形で噴出する可能性があるのだ。
まとめると、ローマ書1章18節と19節は、神の怒りと人間の内面にある神認識の可能性を並行して示すことで、人間がなぜ救われねばならず、どうやって救いに至るのかを解く序論を提供している。「不敬虔と不義」によって要約される罪のゆえに、人間は怒りの下に置かれているが、同時に「神を知りうるもの」が人間の内にあるゆえに、だれでも心を入れ替えて福音を受け入れるなら救われる。そのことがまさしく使徒パウロがローマ書全体で展開する福音のエッセンスであり、現代に生きる私たちにも適用される永遠の真理だ。
私たちは、だれ一人として「私は罪と無関係だ」と言えず、神の怒りを免れることはできないと聖書を通して学ぶ。しかしその重みの中にも希望を持つ理由は、神がすでに私たちの存在の奥深くにご自身を求めるきっかけを埋め込んでくださっており、その道をイエス・キリストの福音によって完全に開いてくださったという驚くべき事実である。これを悟るとき、人は初めて「真の自分」を取り戻し、神との関係の回復によって人生の目的と意味を正しくつかめるようになる。
張ダビデ牧師は「福音はただ罪のもとにある者を生かす神の力」であり、「人間が罪を悟る道はすでに神が内面に埋め込んでくださった渇望と自然啓示を通して可能になる」と重ねて強調する。福音が宣べ伝えられるとき、人々は心の深いところで「ああ、自分がいつも渇望していたのはこれだったのだ」と気づいたり、あるいは心の奥に潜んでいた罪悪感が表に現れて悔い改めへ向かうこともある。こうした「立ち返り」と「主のもとへの歩み」こそ、ローマ書が語る救いの始まりである。
結局、ローマ書1章18-19節は、人間が神に背を向けていても、神はなお彼らを呼び続けるみ手をお収めにはならず、ただ人間がそれを拒絶し続けるなら罪に対する怒りを免れないことを宣言している。パウロの時代のローマだけでなく、すべての時代、すべての文化圏に等しく適用される御言葉だ。今日の私たちも、科学が進歩し物質的に豊かになったといっても、内面の深いところにある不安や虚しさは決して消えない。それは「神を知りうるもの」が潜在しているにもかかわらず、神なしで生きようとするところから生じる必然的な結果なのである。
しかしこの福音のメッセージを聞いて心を開くなら、もはや罪の奴隷として生きる必要はないと気づける。神の怒りから逃れ、その方の子どもとして回復される道が開かれている。教会はこの事実を伝えなければならず、世はそれを拒むことも、受け入れることもできる。そのどちらを選ぶかによって運命が分かれる。福音を受け入れ悔い改めて信仰へと向かう者には、罪の赦しと永遠のいのちが約束され、最後まで拒む者には神の怒りが臨むというのがローマ書全体が語る救いの論理である。
こうして見ると、ローマ書1章18-19節が語る神の怒りと人間内面の神認識の問題は、パウロ時代や特定の地域に限定される話ではまったくない。人間が存在する限り、そして罪がある限り、この問題は続くと同時に、福音の答えもまた続くのである。人間は本来神を求めるように造られており、その渇望を罪が覆い隠していて自力で道を見失っているが、神はイエス・キリストを通して救いの道を再び開いてくださった。教会と信徒には、まさにこの道を世に紹介し、人々をそこへ導く使命が与えられているのだ。
張ダビデ牧師がこの本文を講解するたびに核心的に投げかける問いは「あなたは真の自分を回復したのか?」「神の怒りの下にとどまり続けるのか、それとも罪を認めて悔い改め、救いの恵みにすがるのか?」である。これはローマ書がもたらす非常に直接的かつ個人的な問いでもある。福音は単なる知識ではなく、実存的決断を求めるからだ。私たちは、自分の内に「神を知りうるもの」があることを認め、これ以上罪を言い訳にしたり回避したりせず、へりくだって神に立ち返るべきだ。そうするとき、神の怒りは私たちを滅ぼす恐怖ではなく、罪から離れさせる「救いの機会」となる。
結局、ローマ書1章18-19節は罪と救い、怒りと恵みが交差する地点である。この御言葉を通して、神がどのようなお方であり、人間がどのような存在なのかをより明確に知ることができる。人間は神なしには決して真の自己も真の平和も見いだせない存在であり、同時に神を無視するとき罪の内にとどまるほかなく、その罪による神の怒りは避けられない。だからこそ福音が必要であり、福音こそが罪の赦しと永遠のいのち、神との和解に至る道なのである。
張ダビデ牧師が強調するように、教会がこのメッセージを見失わないとき、世の中で力強く福音を宣べ伝えられる。人間が本質的に神を知りうる存在であることを前提にすれば、罪を指摘するときにも同時にその回復を信じて待つことができる。また「神の怒り」を前提にすれば、福音がいかに切実かを骨の髄まで思い知らされる。もし教会が罪や怒りを回避してしまうなら、人間は自分が本当に罪人であることを自覚せず、救いも不要と思うだろう。逆に人間の内面の神認識を無視すれば、福音宣教において「相手はまったく望みがなく受け入れようもない」という敗北主義に陥る可能性がある。
したがって、両方の御言葉(ローマ1:18、1:19)が均衡を保ってこそ、私たちは罪と怒りの深刻さを直視しつつも、同時に悔い改めと救いの可能性を信じて福音を宣べ伝えることができる。教会は人々に「あなたの内にはすでに神を知りうる何かがあります。しかし罪によってそれを拒めば神の怒りのもとにあります。だからこそ一日も早く立ち返るべきです」と勧めることができる。この勧めを聞いて心を開き、神に立ち返る者にとって、福音は命と救いの力となるのだ。
結局、ローマ書は罪を指摘するだけで終わらない。罪が明るみに出てこそ救いにあずかれるので、パウロは1章後半と2-3章において人間の罪を徹底的に暴露した後、イエス・キリストの十字架の代償によって罪人が義と認められる「義認」の福音へと読者を導く。神の前に少しの義もない私たちが、キリストの血によって清められ義とされ、神の子どもとされる恵みが与えられる。これこそローマ書が示す偉大なる福音である。そして1章18-19節は、その偉大な福音の扉を開く出発点なのだ。
張ダビデ牧師は、この御言葉を通して信徒たちに「自分自身の罪を深く認めて悔い改め、すでに内面に与えられている神の声にいっそう敏感に耳を傾けなさい」と勧める。人間はだれもが神なしには生きられないよう創造されており、それゆえに罪のうちにあっても神を求め渇望するものだ。その渇望が結局人間を救いへ導く火種にもなる。しかし最後までその渇望を否定して真理を阻めば、怒りを免れない。逆に渇望を認め、福音を通して神のもとに立ち返るなら、罪の赦しと永遠のいのちを得る。
このようにローマ書1章18-19節は福音神学の重要な前提を短い二節の中にすべて内包している。人間は罪の中にあり神の怒りを避けられないが、同時に人間の内には神を知りうる種があって、福音を受け入れる可能性を宿している。現代においても、人々は科学、哲学、芸術、思想など多彩な手段を通じて人生の意味や目的を探し求めているが、真の解答はイエス・キリストの福音にこそある。教会はこの解答を手にする共同体として、罪を悟り悔い改める人々に喜んで恵みの道を案内する必要があるのだ。
張ダビデ牧師のローマ書講解が私たちに改めて思い起こさせるのは、人間が直面している霊的現実がいかに厳粛であり、しかもそれでもなお神が私たちに立ち返る道を用意してくださっているという驚くべき事実を同時に見つめよ、ということである。神の怒りは現実でありながら、その恵みと救いもまた現実である。人間は罪と死の権勢のもとにあるが、同時に神への渇望を内包している。これを正視しながら、「イエス・キリストを信じることによって救いを得よ」という福音の招きに全面的に応答すべきなのだ。
結局、「神の怒り」と「神を知りうるもの」という二つの軸を同時に見せてくれる本文(ローマ1:18-19)は、ローマ書全体の序論であると同時に福音の核心部分に相当する。パウロはこれを通して読者を罪の深淵へと連れ込みながらも、同時に神へ立ち返る希望の扉を開いてくれる。張ダビデ牧師をはじめ多くの牧会者や神学者がこの本文を深く講解する理由はここにある。罪が顕在化してこそ救いが見え、すでに私たちの内にある神への渇望を自覚してこそ福音が入り込む余地が生まれるのだ。
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