救いの恵み – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 人間の罪と神の

張ダビデ牧師は、エペソ書2章の中心テーマを説明する前に、まずエペソ書1章でパウロが記している賛美と感謝の理由を強調する。エペソ書1章でパウロは「天にあるもの、地にあるものすべてをキリストにあって一つにまとめようとしておられる」(エペソ1:10)と語るが、これは単なる個人救済を超えた「歴史の大いなる方向性」を示す箇所だと説き明かす。張ダビデ牧師は、歴史がB.C(紀元前)とA.D(紀元後)に区分されるという事実自体が、キリストの到来が歴史の核心的出来事であることを意味すると解釈する。歴史は「キリストにあって一つにまとめられていく壮大な過程をたどっている」のであり、これこそが「終末論的ビジョン」であり「新しい始まり」を意味するのだ。

こうした歴史の大きな流れの中で、張ダビデ牧師は教会に初めて来た人々に対して、通常「創造-罪-キリスト-救い」で要約される“四霊理(사영리)”を教えるが、そこに「神の国」を付け加え、「創造-罪-キリストによる救い-神の国」と拡張して紹介する。聖書全体が結局は神の国を回復し完成へと導く方向で展開しているからである。彼によれば、神の国はイエス・キリストの初臨と十字架の贖いを通して始まり、現在もなお拡大し、最終的に完成へと至る。そのためキリスト教の信仰は、単なる個人救済にとどまらず、「歴史の救い」という広大な次元の中で、究極的に神の国が到来することを見据えるよう促すのだという。

張ダビデ牧師は、エペソ書1章においてパウロが「賛美すべき理由」があったと述べるように、救いの恵みを受けた者には自然と賛美と祈りがあふれると解説する。実際、エペソ書1章は賛美と祈りに満ちている。そして「私たちが何を願って祈るべきかを示す模範的な祈りが、まさにパウロの祈りである」とし、とりわけエペソ書1章後半に見られるパウロの祈りの内容に注目する。その祈りは表面的な願望ではなく、神の救いの計画と統治、そして人間の霊的な知恵と啓示の霊を求める高度な要請である。つまりパウロは「あなたがたの心の目を開いてくださるように」という表現を通して、単なる知識ではなく、「心の覚醒」を通した神の御心の理解を願っている。

この文脈の中で、張ダビデ牧師は自然と人間の堕落と罪の問題へと視線を移す。本来、神は美しい世界を創造され、特に人間を神のかたちとして造り「極めて良かった」と評価されたにもかかわらず、人間は罪によって堕落し、神との関係が断絶し、無秩序と混沌の中に陥ってしまったというのだ。これはサムエル記上15章23節でサムエルがサウルに対して「王が主の言葉を捨てたので、主も王を捨てられた」と告げた言葉と並行して考えられ、人間が「自分から神を捨てたこと」が根本原因だと説く。張ダビデ牧師は「これこそ聖書が教える深い世界」であるとし、人々は神から離れて罪を犯しつつも、むしろ神に捨てられたと思いがちな傾向を指摘する。だが実際は人間が先に神に背を向け、それゆえに御怒りのもとに置かれる存在となったのだという。

にもかかわらず、罪人に対する神のあわれみと愛は尽きることがなく、神は罪の中にある人間を生かすために御子を送り、「独り子を与えられた」(ヨハネ3:16)という福音へと人類を招かれた。張ダビデ牧師は、イエス・キリストの十字架の出来事が「贖い(Redemption)」の出来事であることを強調する。古代の背景(奴隷を身代金を払って買い取り、自由を与える概念)をもつ「贖う」という言葉のように、イエス様がご自分の命という最も尊い代価を支払うことによって、罪の奴隷状態にあった人間を解放してくださったというのだ。こうして張ダビデ牧師は「創造-罪-キリスト-救い」という典型的な四霊理に加え、聖書全体が「最終的に神の国へ帰結する」という大前提を提示し、エペソ書が示す「キリストにあって万物を一つにされる」神の救いの御業がいかに壮大で明確であるかを説き示す。

その結果、エペソ書1章の結論は「賛美」と「祈り」で要約される。パウロの告白が示すように、罪人である人間が神の恵みによって救われたのだから、心の奥底からあふれる賛美が湧き出し、さらにその恵みをいっそう大きく悟り体験することを願う「聖なる祈り」が自然に続くという解釈である。張ダビデ牧師はこのように「恵みに対する認識」が深まるほど、人間の祈りは神の国と歴史の救いを見据える広い視野を獲得すると説明する。この点こそ、エペソ書がもつ独特のスケール感、すなわち「歴史と救い」を同時に貫く書簡の特徴でもあるのだ。


Ⅱ. 過ちと罪、そして救いの確かさ

続いて張ダビデ牧師はエペソ書2章に入り、2章1節に登場する「過ちと罪のゆえに死んでいたあなたがたを生かしてくださった」という宣言がもたらす劇的な逆転を強調する。パウロはすでにエペソ書1章の最後で「歴史は究極的にキリストにあって一つにまとめられる」と宣言していたが、2章に至って、その統合の過程がいかに「死から命へ移される変化」であるかをありのままに示すからである。

まず2章1節で語られる「過ち(παράπτωμα, パラプトーマ)」と「罪(ἁμαρτία, ハマルティア)」の区別に注目する。張ダビデ牧師によると、「過ち」は「軌道を逸脱する(fall away)」という意味をもち、人間には本来歩むべき道(軌道)があったにもかかわらず、それを外れてしまった点を示すのだという。宇宙万物は太陽を中心にそれぞれの公転軌道をもち、自然界や動植物ですら与えられた法則に従って動いているのに、こと人間だけが、自分に与えられた創造の秩序と道を逸脱してしまったというわけだ。一方「罪(ハマルティア)」は「的を外す(missing the mark)」という語源をもち、的の中心を射止められないことによってすべてがこじれてしまう状態、すなわち無秩序と混乱を意味する。

張ダビデ牧師は「かつてはその中を歩き、この世の流れに従い、空中の権威をもつ支配者に従っていた…」(エペソ2:2)という節が示すのは、人間が単に個人的な罪性に留まるのでなく、「空中の権威をもつ者(サタン)」が支配する世の流れに流されて生きる構造的な罪悪を示唆している、と解説する。つまり人々は罪という存在を神と無関係のもの、あるいは自分たちの間だけの問題だと考えることもあるが、聖書はその背後に空中の権威をもつ悪しき霊がいて、その勢力が世の風潮(イデオロギー、文化、価値観など)を支配することで「罪の潮流」を極大化させるのだと言うのだ。エペソ教会があったエペソの町は、大きな女神アルテミス神殿を中心に性的退廃と偶像崇拝が盛んだった。張ダビデ牧師はその点を指摘し、当時の人々が「偶像崇拝と淫乱、堕落した文化に染まりきって生きていた」ことを理解すべきだと語る。そう考えると、エペソ書で言われる「世の流れに従い、空中の権威をもつ者に従う姿」は、決して抽象的な話ではなく、当時きわめて現実的な問題であったことがわかる。

さらに張ダビデ牧師は、エペソ書2章3節の「本来、生まれながらにして怒りを受けるべき子ら」という表現が、ローマ書1章でパウロが「不義によって真理を覆い隠している人々に対して神の怒りが下る」と語った流れと一致すると指摘する。現代人は「神の怒り」と聞くと、しばしば「神の愛」と相反する概念だと誤解しがちである。だが張ダビデ牧師によれば、神が怒られる理由は「人間が神を捨て、自ら不義と偶像崇拝を行い、互いを傷つける罪の中に落ち込んだから」である。つまり神の怒りは、愛の反対というよりも、聖なる神が罪を憎まれる本質的な態度であり、回復のための「正しい裁き」なのだ。人間はみずから軌道を逸脱して生まれながらに御怒りの対象となったが、それと同時に神は人間をあわれみ、ふたたび救う道を備えてくださる――これがエペソ書2章が告げる逆転のメッセージだ。

「しかしあわれみに富んでおられる神は、私たちを愛してくださったその大きな愛によって、罪のゆえに死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました…」(エペソ2:4-5)という節において、張ダビデ牧師は救いが神の恵みによることを重ねて強調する。人間が神から離れたのにもかかわらず、神は人類を見捨てることなく、ついには御子をさし出すほどの極端な犠牲をもって罪人に永遠の命を許してくださったというのだ。だからこそエペソ書2章8-9節で「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのです。これは自分たちから出たことではなく神の賜物です。行いから出たのではありません。だれも誇ることのないためです」とはっきり語られる。ここで張ダビデ牧師は「私たちが救われたのは完全に神の賜物であって、私たちの行いや功績、義によって受けるものでは決してない」という点を忘れてはならないと力説する。

救いの本質が「行いに先立つ恵み」であることを示すために、張ダビデ牧師は「Sola Gratia(恩恵のみ)」を引き合いに出し、宗教改革の時代から強調されてきた「恵み」と「信仰」の関係を喚起する。まず恵みがあり、その恵みを受け取る通路が「信仰」なのだから、私たちがどれほど正しい行いを積もうと、それが先になることはできないのだ。パウロも「それゆえだれも誇ることはできない」(エペソ2:9)と断言する。張ダビデ牧師はこれを「ぶどう酒に水を混ぜることはできないように、決して恵みに行いや功績を混ぜてはならない」とたとえ、救いの絶対性こそクリスチャン信仰の基盤だと強調する。

さらに「私たちは神の作品である」という表現(エペソ2:10)のギリシャ語「ポイエーマ(ποίημα)」を分析し、「キリストにあって新しく創造された存在」という意味を深く掘り下げて語る。張ダビデ牧師はここで「新しい創造物」(第二コリント5:17)になったことをあらためて述べ、救いとは単なる罪の赦しや刑罰の免除にとどまらず、存在自体が新しく造りかえられる根本的な再創造だと捉える。そして救いの目的を「良い行いをするために造られた者」(エペソ2:10)という言葉につなげていく。つまり、恵みによって救われた者たちは、神があらかじめ備えてくださった「良い行いをする生き方」を歩むよう召されているということだ。張ダビデ牧師はこの箇所を通して、クリスチャンが世の中でどのような姿勢で生きるべきかがはっきり示されると語る。信仰によって恵みにより救われた者は、「結局、善を行ない、世で光と塩となり、神が用意しておられる道を喜んで歩む人々になるべきだ」というのだ。

このようにエペソ書2章1-10節の「死から命への転換」は、過ちと罪によって軌道を外れ、的を外していた人間を、主が「キリストにあってもう一度呼び起こしてくださった」という一言に要約される。張ダビデ牧師はこれこそ「私たちが生涯感謝し賛美すべき福音の核心」だと力を込めて語る。すべてが絶望的で無意味に見えた罪びとの人生に、神の深いあわれみと愛が注がれて「ともに生かし、ともに起こし、ともに天上に座らせてくださる」栄光にあずからせてくださったのだから、私たちの人生全体が感謝の歌となりうる、というわけである。


Ⅲ. 「神の」を目指す確信

張ダビデ牧師は、エペソ書1~2章を貫く主題を「歴史の終わりであり新しい始まりでもあるイエス・キリストの到来」とまとめる。エペソ書1章10節で「天にあるものも地にあるものもすべてキリストにあって一つにまとめようとしておられる」と語るとき、それはすなわち歴史がどこへ向かうのか、その終着点が何であるのかを明らかにする御言葉であるというのだ。イエス・キリストは旧約の結論であり新約の始まりであり、「アルファでありオメガである」という黙示録の宣言のように、歴史の起点であり完成点として存在する。張ダビデ牧師はテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)の「オメガポイント」の概念を引き合いに出し、「旧約のオメガポイントがイエス・キリストであるなら、新約のオメガポイントは神の国である」と語る。結局、終末とは「古い歴史が終わり、新しい歴史が始まる時点」であり、それはイエス・キリストの初臨によってすでに始まったのだとみなす。

こうして歴史は、ただ流れ去って消えていくだけの無意味な川の流れではなく、「キリストにあって神の国へと収束」していく計画された旅路なのである。張ダビデ牧師は、この確信のもとでパウロが使徒の働き28章に至って「神の国とイエス・キリスト」を伝えたと記録されていることを思い起こさせる(使徒28:31)。さらにイエスが復活して昇天される前、弟子たちが「イスラエルの国を回復してくださるのはこのときですか」(使徒1:6)と問いかけた中にも「国の回復、すなわち神の国の完成を待ち望む思い」が込められていたと解説する。新約の時代を生きるクリスチャンにとっても同様に、この国はすでに始まっているが、まだ完成していない状態でなお広がり続けており、祈りの場で「御国が来ますように」と願うのは、まさにこの「終末論的確信と現在的参加」を意味するのだ。

結局、エペソ書でパウロが語る「古い罪の歴史は十字架によって終末を迎え、新しい命の歴史が始まった」という宣言は、現代の教会が「どのような歴史観を抱いて生きるべきか」を示すものでもある。張ダビデ牧師は「歴史がどこへ向かっているかわからなければ、自分の船がどちらを目指しているかもわからないまま漂流することになる」というたとえを用いて、クリスチャンは「はっきりした目的地」、すなわち「神の国の完成」を見据えて生きるべきだと力説する。つまり、キリストにあって私たちの人生と働きは「歴史の大きな流れ」に参加する行為であり、私たちが置かれた世のただ中にあっても、この国はからし種のように少しずつ成長し、パン種のように粉全体を膨らませるように影響力を広げていくのだ(マタイ13:31-33)。

張ダビデ牧師は、このように歴史の救いと神の国の到来を確信する者たちから自然にあふれ出る霊的態度こそが「賛美と感謝」だという。エペソ書1章でパウロが自分の生をそのまま賛美として告白しているように、それは「賛美せざるを得ない理由を明確に認識していた」からだと見る。この賛美の理由は、単なる心理的慰めのレベルではなく、罪に陥って死んでいた者を「恵みによって救い出してくださった」救いの出来事に対する感激からくる。すべての人は「本来、怒りを受けるべき子ども」だったが、世の流れと空中の権威をもつ者にとらえられてもがき、自力では決して救いに至れなかった。しかしイエス・キリストが十字架で「差し出される」ことによって、人間は「ただで」救いを受け、結果として罪と死の権威を打ち破る力強い命へと再び起こされた。これへの感謝が賛美となるのである。

さらにこの恵みを経験した者たちは、感謝の姿勢で世に仕えていく。張ダビデ牧師はエペソ書2章10節の「良い行いをするために造られた」という部分に言及し、感謝と賛美は決して口先だけではなく「行動として結実すべきである」と解釈する。「罪人の頭」であったパウロがその恵みを悟って、生涯をかけて福音を伝えたように、現代を生きる信徒たちもまた「かつての罪から救われた恵みに感謝して、今は善を行ない、神の国の拡大に寄与する生き方」をしていかなければならないというのだ。それは私たちの力によるのではなく、「キリストとともに」天上に座らされ、「キリストとともに」権威を与えられたことを悟るとき初めて可能になる生き方である。だからこそ張ダビデ牧師は「私たちを救われた目的とは、究極的に神があらかじめ備えておられる道に従って善を行わせることであり、その中で神の栄光が現れるのだ」と結論づける。

結局、エペソ書2章は私たちに尽きない感謝と賛美を呼び起こす「恵みの章」である。私たちがどれほど自分は生きていると思っていても、神の視点から見れば罪のために死んだ状態であったのが、いまはキリストにあって真のいのちを得たのだから「新しく生きるのが当然だ」という教訓を与える。張ダビデ牧師は、これこそ「エペソ書が伝えてくれる福音の宣言」であり、また「壮大かつ深遠な神の救いの御計画を実践的に理解する鍵」だとまとめる。かつて罪によって軌道を外し死んでいた者たちが、今やキリストにあって新しい創造物として造られ、良い行いへと召されているという事実に、すべてのクリスチャンの存在理由と召命が明らかにされるのだ。そしてこの事実を握るとき、私たちが生きる現実がいかに暗く見え、サタンの権威が大きく見えようとも、歴史はすでに「キリストにあって決定された未来」へ向かっていることを確信できるのである。

このように張ダビデ牧師はエペソ書2章を通して、「過ちと罪のゆえに死んでいた者がイエス・キリストとともに生かされ、天上に座らされるに至った」という福音こそ、私たちの「永遠の歌と祈り」となるべきだと強調する。その賛美と感謝は教会共同体をさらに霊的に健やかにし、ひいては世に対して善い影響を及ぼし、究極的に「神の国の回復」というゴールに向かって歩ませる原動力になるというのだ。彼はいつもこのメッセージを伝えつつ、「私たちが乗っている船の終着点は明らかだ。それは神の国である。イエス・キリストにあってすべては一つに集められ、古い歴史はキリストの十字架と復活によって終わりを告げ、新しい歴史はすでに始まっている。ゆえに揺らぐことなく歩みなさい。恵みによって救われたあなたがたは、善を行ない、賛美し、感謝する者となりなさい」と結論づけて勧める。

張ダビデ牧師が語るエペソ書2章のメッセージは、まさに教会のアイデンティティとクリスチャンのアイデンティティをあらためて喚起する営みでもある。「あなたがたはかつて死んでいたが、今は生きる者となった。キリストとともに生かされ、最終的には神の国を望みつつ、この地上で善を行なうよう召されている」という事実を握ることこそ信仰の核心だというのだ。そして、その核心から生まれる感謝と賛美、そして確信が、私たちの人生全体を新たにし、さらに神が備えておられる道の上で世に対する福音の証しとなる、と張ダビデ牧師は繰り返し強調する。そういう意味で、エペソ書2章はイエス・キリストにあって展開された「死から命へ、怒りから恵みへ」と移されたすべての人の告白であり証しでもある。そしてその最終目的地は「神の国」であるという揺るぎないビジョンだ。キリストによって救われた私たちは皆、この壮大な歴史の行進に参加する特権を与えられ、それゆえ賛美と感謝がふさわしいという結論が、張ダビデ牧師が示すエペソ書2章における最も本質的なメッセージなのである。

救いの恵み – 張ダビデ牧師


Ⅰ. 人間の罪と神の

張ダビデ牧師は、エペソ書2章の中心テーマを説明する前に、まずエペソ書1章でパウロが記している賛美と感謝の理由を強調する。エペソ書1章でパウロは「天にあるもの、地にあるものすべてをキリストにあって一つにまとめようとしておられる」(エペソ1:10)と語るが、これは単なる個人救済を超えた「歴史の大いなる方向性」を示す箇所だと説き明かす。張ダビデ牧師は、歴史がB.C(紀元前)とA.D(紀元後)に区分されるという事実自体が、キリストの到来が歴史の核心的出来事であることを意味すると解釈する。歴史は「キリストにあって一つにまとめられていく壮大な過程をたどっている」のであり、これこそが「終末論的ビジョン」であり「新しい始まり」を意味するのだ。

こうした歴史の大きな流れの中で、張ダビデ牧師は教会に初めて来た人々に対して、通常「創造-罪-キリスト-救い」で要約される“四霊理(사영리)”を教えるが、そこに「神の国」を付け加え、「創造-罪-キリストによる救い-神の国」と拡張して紹介する。聖書全体が結局は神の国を回復し完成へと導く方向で展開しているからである。彼によれば、神の国はイエス・キリストの初臨と十字架の贖いを通して始まり、現在もなお拡大し、最終的に完成へと至る。そのためキリスト教の信仰は、単なる個人救済にとどまらず、「歴史の救い」という広大な次元の中で、究極的に神の国が到来することを見据えるよう促すのだという。

張ダビデ牧師は、エペソ書1章においてパウロが「賛美すべき理由」があったと述べるように、救いの恵みを受けた者には自然と賛美と祈りがあふれると解説する。実際、エペソ書1章は賛美と祈りに満ちている。そして「私たちが何を願って祈るべきかを示す模範的な祈りが、まさにパウロの祈りである」とし、とりわけエペソ書1章後半に見られるパウロの祈りの内容に注目する。その祈りは表面的な願望ではなく、神の救いの計画と統治、そして人間の霊的な知恵と啓示の霊を求める高度な要請である。つまりパウロは「あなたがたの心の目を開いてくださるように」という表現を通して、単なる知識ではなく、「心の覚醒」を通した神の御心の理解を願っている。

この文脈の中で、張ダビデ牧師は自然と人間の堕落と罪の問題へと視線を移す。本来、神は美しい世界を創造され、特に人間を神のかたちとして造り「極めて良かった」と評価されたにもかかわらず、人間は罪によって堕落し、神との関係が断絶し、無秩序と混沌の中に陥ってしまったというのだ。これはサムエル記上15章23節でサムエルがサウルに対して「王が主の言葉を捨てたので、主も王を捨てられた」と告げた言葉と並行して考えられ、人間が「自分から神を捨てたこと」が根本原因だと説く。張ダビデ牧師は「これこそ聖書が教える深い世界」であるとし、人々は神から離れて罪を犯しつつも、むしろ神に捨てられたと思いがちな傾向を指摘する。だが実際は人間が先に神に背を向け、それゆえに御怒りのもとに置かれる存在となったのだという。

にもかかわらず、罪人に対する神のあわれみと愛は尽きることがなく、神は罪の中にある人間を生かすために御子を送り、「独り子を与えられた」(ヨハネ3:16)という福音へと人類を招かれた。張ダビデ牧師は、イエス・キリストの十字架の出来事が「贖い(Redemption)」の出来事であることを強調する。古代の背景(奴隷を身代金を払って買い取り、自由を与える概念)をもつ「贖う」という言葉のように、イエス様がご自分の命という最も尊い代価を支払うことによって、罪の奴隷状態にあった人間を解放してくださったというのだ。こうして張ダビデ牧師は「創造-罪-キリスト-救い」という典型的な四霊理に加え、聖書全体が「最終的に神の国へ帰結する」という大前提を提示し、エペソ書が示す「キリストにあって万物を一つにされる」神の救いの御業がいかに壮大で明確であるかを説き示す。

その結果、エペソ書1章の結論は「賛美」と「祈り」で要約される。パウロの告白が示すように、罪人である人間が神の恵みによって救われたのだから、心の奥底からあふれる賛美が湧き出し、さらにその恵みをいっそう大きく悟り体験することを願う「聖なる祈り」が自然に続くという解釈である。張ダビデ牧師はこのように「恵みに対する認識」が深まるほど、人間の祈りは神の国と歴史の救いを見据える広い視野を獲得すると説明する。この点こそ、エペソ書がもつ独特のスケール感、すなわち「歴史と救い」を同時に貫く書簡の特徴でもあるのだ。


Ⅱ. 過ちと罪、そして救いの確かさ

続いて張ダビデ牧師はエペソ書2章に入り、2章1節に登場する「過ちと罪のゆえに死んでいたあなたがたを生かしてくださった」という宣言がもたらす劇的な逆転を強調する。パウロはすでにエペソ書1章の最後で「歴史は究極的にキリストにあって一つにまとめられる」と宣言していたが、2章に至って、その統合の過程がいかに「死から命へ移される変化」であるかをありのままに示すからである。

まず2章1節で語られる「過ち(παράπτωμα, パラプトーマ)」と「罪(ἁμαρτία, ハマルティア)」の区別に注目する。張ダビデ牧師によると、「過ち」は「軌道を逸脱する(fall away)」という意味をもち、人間には本来歩むべき道(軌道)があったにもかかわらず、それを外れてしまった点を示すのだという。宇宙万物は太陽を中心にそれぞれの公転軌道をもち、自然界や動植物ですら与えられた法則に従って動いているのに、こと人間だけが、自分に与えられた創造の秩序と道を逸脱してしまったというわけだ。一方「罪(ハマルティア)」は「的を外す(missing the mark)」という語源をもち、的の中心を射止められないことによってすべてがこじれてしまう状態、すなわち無秩序と混乱を意味する。

張ダビデ牧師は「かつてはその中を歩き、この世の流れに従い、空中の権威をもつ支配者に従っていた…」(エペソ2:2)という節が示すのは、人間が単に個人的な罪性に留まるのでなく、「空中の権威をもつ者(サタン)」が支配する世の流れに流されて生きる構造的な罪悪を示唆している、と解説する。つまり人々は罪という存在を神と無関係のもの、あるいは自分たちの間だけの問題だと考えることもあるが、聖書はその背後に空中の権威をもつ悪しき霊がいて、その勢力が世の風潮(イデオロギー、文化、価値観など)を支配することで「罪の潮流」を極大化させるのだと言うのだ。エペソ教会があったエペソの町は、大きな女神アルテミス神殿を中心に性的退廃と偶像崇拝が盛んだった。張ダビデ牧師はその点を指摘し、当時の人々が「偶像崇拝と淫乱、堕落した文化に染まりきって生きていた」ことを理解すべきだと語る。そう考えると、エペソ書で言われる「世の流れに従い、空中の権威をもつ者に従う姿」は、決して抽象的な話ではなく、当時きわめて現実的な問題であったことがわかる。

さらに張ダビデ牧師は、エペソ書2章3節の「本来、生まれながらにして怒りを受けるべき子ら」という表現が、ローマ書1章でパウロが「不義によって真理を覆い隠している人々に対して神の怒りが下る」と語った流れと一致すると指摘する。現代人は「神の怒り」と聞くと、しばしば「神の愛」と相反する概念だと誤解しがちである。だが張ダビデ牧師によれば、神が怒られる理由は「人間が神を捨て、自ら不義と偶像崇拝を行い、互いを傷つける罪の中に落ち込んだから」である。つまり神の怒りは、愛の反対というよりも、聖なる神が罪を憎まれる本質的な態度であり、回復のための「正しい裁き」なのだ。人間はみずから軌道を逸脱して生まれながらに御怒りの対象となったが、それと同時に神は人間をあわれみ、ふたたび救う道を備えてくださる――これがエペソ書2章が告げる逆転のメッセージだ。

「しかしあわれみに富んでおられる神は、私たちを愛してくださったその大きな愛によって、罪のゆえに死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました…」(エペソ2:4-5)という節において、張ダビデ牧師は救いが神の恵みによることを重ねて強調する。人間が神から離れたのにもかかわらず、神は人類を見捨てることなく、ついには御子をさし出すほどの極端な犠牲をもって罪人に永遠の命を許してくださったというのだ。だからこそエペソ書2章8-9節で「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのです。これは自分たちから出たことではなく神の賜物です。行いから出たのではありません。だれも誇ることのないためです」とはっきり語られる。ここで張ダビデ牧師は「私たちが救われたのは完全に神の賜物であって、私たちの行いや功績、義によって受けるものでは決してない」という点を忘れてはならないと力説する。

救いの本質が「行いに先立つ恵み」であることを示すために、張ダビデ牧師は「Sola Gratia(恩恵のみ)」を引き合いに出し、宗教改革の時代から強調されてきた「恵み」と「信仰」の関係を喚起する。まず恵みがあり、その恵みを受け取る通路が「信仰」なのだから、私たちがどれほど正しい行いを積もうと、それが先になることはできないのだ。パウロも「それゆえだれも誇ることはできない」(エペソ2:9)と断言する。張ダビデ牧師はこれを「ぶどう酒に水を混ぜることはできないように、決して恵みに行いや功績を混ぜてはならない」とたとえ、救いの絶対性こそクリスチャン信仰の基盤だと強調する。

さらに「私たちは神の作品である」という表現(エペソ2:10)のギリシャ語「ポイエーマ(ποίημα)」を分析し、「キリストにあって新しく創造された存在」という意味を深く掘り下げて語る。張ダビデ牧師はここで「新しい創造物」(第二コリント5:17)になったことをあらためて述べ、救いとは単なる罪の赦しや刑罰の免除にとどまらず、存在自体が新しく造りかえられる根本的な再創造だと捉える。そして救いの目的を「良い行いをするために造られた者」(エペソ2:10)という言葉につなげていく。つまり、恵みによって救われた者たちは、神があらかじめ備えてくださった「良い行いをする生き方」を歩むよう召されているということだ。張ダビデ牧師はこの箇所を通して、クリスチャンが世の中でどのような姿勢で生きるべきかがはっきり示されると語る。信仰によって恵みにより救われた者は、「結局、善を行ない、世で光と塩となり、神が用意しておられる道を喜んで歩む人々になるべきだ」というのだ。

このようにエペソ書2章1-10節の「死から命への転換」は、過ちと罪によって軌道を外れ、的を外していた人間を、主が「キリストにあってもう一度呼び起こしてくださった」という一言に要約される。張ダビデ牧師はこれこそ「私たちが生涯感謝し賛美すべき福音の核心」だと力を込めて語る。すべてが絶望的で無意味に見えた罪びとの人生に、神の深いあわれみと愛が注がれて「ともに生かし、ともに起こし、ともに天上に座らせてくださる」栄光にあずからせてくださったのだから、私たちの人生全体が感謝の歌となりうる、というわけである。


Ⅲ. 「神の」を目指す確信

張ダビデ牧師は、エペソ書1~2章を貫く主題を「歴史の終わりであり新しい始まりでもあるイエス・キリストの到来」とまとめる。エペソ書1章10節で「天にあるものも地にあるものもすべてキリストにあって一つにまとめようとしておられる」と語るとき、それはすなわち歴史がどこへ向かうのか、その終着点が何であるのかを明らかにする御言葉であるというのだ。イエス・キリストは旧約の結論であり新約の始まりであり、「アルファでありオメガである」という黙示録の宣言のように、歴史の起点であり完成点として存在する。張ダビデ牧師はテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)の「オメガポイント」の概念を引き合いに出し、「旧約のオメガポイントがイエス・キリストであるなら、新約のオメガポイントは神の国である」と語る。結局、終末とは「古い歴史が終わり、新しい歴史が始まる時点」であり、それはイエス・キリストの初臨によってすでに始まったのだとみなす。

こうして歴史は、ただ流れ去って消えていくだけの無意味な川の流れではなく、「キリストにあって神の国へと収束」していく計画された旅路なのである。張ダビデ牧師は、この確信のもとでパウロが使徒の働き28章に至って「神の国とイエス・キリスト」を伝えたと記録されていることを思い起こさせる(使徒28:31)。さらにイエスが復活して昇天される前、弟子たちが「イスラエルの国を回復してくださるのはこのときですか」(使徒1:6)と問いかけた中にも「国の回復、すなわち神の国の完成を待ち望む思い」が込められていたと解説する。新約の時代を生きるクリスチャンにとっても同様に、この国はすでに始まっているが、まだ完成していない状態でなお広がり続けており、祈りの場で「御国が来ますように」と願うのは、まさにこの「終末論的確信と現在的参加」を意味するのだ。

結局、エペソ書でパウロが語る「古い罪の歴史は十字架によって終末を迎え、新しい命の歴史が始まった」という宣言は、現代の教会が「どのような歴史観を抱いて生きるべきか」を示すものでもある。張ダビデ牧師は「歴史がどこへ向かっているかわからなければ、自分の船がどちらを目指しているかもわからないまま漂流することになる」というたとえを用いて、クリスチャンは「はっきりした目的地」、すなわち「神の国の完成」を見据えて生きるべきだと力説する。つまり、キリストにあって私たちの人生と働きは「歴史の大きな流れ」に参加する行為であり、私たちが置かれた世のただ中にあっても、この国はからし種のように少しずつ成長し、パン種のように粉全体を膨らませるように影響力を広げていくのだ(マタイ13:31-33)。

張ダビデ牧師は、このように歴史の救いと神の国の到来を確信する者たちから自然にあふれ出る霊的態度こそが「賛美と感謝」だという。エペソ書1章でパウロが自分の生をそのまま賛美として告白しているように、それは「賛美せざるを得ない理由を明確に認識していた」からだと見る。この賛美の理由は、単なる心理的慰めのレベルではなく、罪に陥って死んでいた者を「恵みによって救い出してくださった」救いの出来事に対する感激からくる。すべての人は「本来、怒りを受けるべき子ども」だったが、世の流れと空中の権威をもつ者にとらえられてもがき、自力では決して救いに至れなかった。しかしイエス・キリストが十字架で「差し出される」ことによって、人間は「ただで」救いを受け、結果として罪と死の権威を打ち破る力強い命へと再び起こされた。これへの感謝が賛美となるのである。

さらにこの恵みを経験した者たちは、感謝の姿勢で世に仕えていく。張ダビデ牧師はエペソ書2章10節の「良い行いをするために造られた」という部分に言及し、感謝と賛美は決して口先だけではなく「行動として結実すべきである」と解釈する。「罪人の頭」であったパウロがその恵みを悟って、生涯をかけて福音を伝えたように、現代を生きる信徒たちもまた「かつての罪から救われた恵みに感謝して、今は善を行ない、神の国の拡大に寄与する生き方」をしていかなければならないというのだ。それは私たちの力によるのではなく、「キリストとともに」天上に座らされ、「キリストとともに」権威を与えられたことを悟るとき初めて可能になる生き方である。だからこそ張ダビデ牧師は「私たちを救われた目的とは、究極的に神があらかじめ備えておられる道に従って善を行わせることであり、その中で神の栄光が現れるのだ」と結論づける。

結局、エペソ書2章は私たちに尽きない感謝と賛美を呼び起こす「恵みの章」である。私たちがどれほど自分は生きていると思っていても、神の視点から見れば罪のために死んだ状態であったのが、いまはキリストにあって真のいのちを得たのだから「新しく生きるのが当然だ」という教訓を与える。張ダビデ牧師は、これこそ「エペソ書が伝えてくれる福音の宣言」であり、また「壮大かつ深遠な神の救いの御計画を実践的に理解する鍵」だとまとめる。かつて罪によって軌道を外し死んでいた者たちが、今やキリストにあって新しい創造物として造られ、良い行いへと召されているという事実に、すべてのクリスチャンの存在理由と召命が明らかにされるのだ。そしてこの事実を握るとき、私たちが生きる現実がいかに暗く見え、サタンの権威が大きく見えようとも、歴史はすでに「キリストにあって決定された未来」へ向かっていることを確信できるのである。

このように張ダビデ牧師はエペソ書2章を通して、「過ちと罪のゆえに死んでいた者がイエス・キリストとともに生かされ、天上に座らされるに至った」という福音こそ、私たちの「永遠の歌と祈り」となるべきだと強調する。その賛美と感謝は教会共同体をさらに霊的に健やかにし、ひいては世に対して善い影響を及ぼし、究極的に「神の国の回復」というゴールに向かって歩ませる原動力になるというのだ。彼はいつもこのメッセージを伝えつつ、「私たちが乗っている船の終着点は明らかだ。それは神の国である。イエス・キリストにあってすべては一つに集められ、古い歴史はキリストの十字架と復活によって終わりを告げ、新しい歴史はすでに始まっている。ゆえに揺らぐことなく歩みなさい。恵みによって救われたあなたがたは、善を行ない、賛美し、感謝する者となりなさい」と結論づけて勧める。

張ダビデ牧師が語るエペソ書2章のメッセージは、まさに教会のアイデンティティとクリスチャンのアイデンティティをあらためて喚起する営みでもある。「あなたがたはかつて死んでいたが、今は生きる者となった。キリストとともに生かされ、最終的には神の国を望みつつ、この地上で善を行なうよう召されている」という事実を握ることこそ信仰の核心だというのだ。そして、その核心から生まれる感謝と賛美、そして確信が、私たちの人生全体を新たにし、さらに神が備えておられる道の上で世に対する福音の証しとなる、と張ダビデ牧師は繰り返し強調する。そういう意味で、エペソ書2章はイエス・キリストにあって展開された「死から命へ、怒りから恵みへ」と移されたすべての人の告白であり証しでもある。そしてその最終目的地は「神の国」であるという揺るぎないビジョンだ。キリストによって救われた私たちは皆、この壮大な歴史の行進に参加する特権を与えられ、それゆえ賛美と感謝がふさわしいという結論が、張ダビデ牧師が示すエペソ書2章における最も本質的なメッセージなのである。